「梅田雲浜」カテゴリーアーカイブ

梅田雲浜先生生誕200年記念墓参のお知らせ

 以下、崎門学研究会の告知を転載する。

 今年は幕末の志士、梅田雲浜(うめだうんぴん)先生の生誕200周年です。梅田先生は文化12年(1815)、若狭小浜藩の出身です。早くから京都や江戸に遊学し、江戸時代の中期の儒者、山崎闇斎が創始した崎門学を修め、天保24年、先生29歳の時には、京都にある望楠軒という塾の講主(塾長)に就きました。この望楠軒は、崎門派の若林強斎が忠臣楠公を仰いで命名した塾であり、君臣内外の大義名分を正し尊皇攘夷を説く崎門の学風によって天下の志気を鼓舞しました。
 先生の生涯は、吉田松陰が「『靖献遺言』で固めた男」と評した通りに崎門学の精神に貫かれ、一介の浪人として困窮生活を強いられながらも、海内の志士に尊皇論を鼓吹して王政復古の端を開きました。なかでも、独断で不平等条約に調印した井伊大老の非を責め、幕府に痛撃を与えた「戊午の勅定」は、梅田先生の朝廷への働きかけによるものとされています。このように、先生は顕著な活躍をしましたが、それが故に幕府から尊攘派の主魁と目され、安政の大獄では、およそ百二十人いたとされる検挙者のなかで最初に検挙されました。そして幕府による過酷な取り調べの末、安政6年の9月14日に獄死し、亡骸は現在の東京台東区にある海禅寺に埋葬されました。 続きを読む 梅田雲浜先生生誕200年記念墓参のお知らせ

崎門の真価─平泉澄先生『明治の源流』「望楠軒」

 崎門学が明治維新の原動力の一つであったことを良く示す文章が、平泉澄先生の『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)に収められた「望楠軒」の一節である。
 〈ここに殆んど不思議と思はれるのは、水戸の大日本史編修と時を同じうして、山崎闇斎が倭鑑の撰述に着手した事である。一つは江戸であり、今一つは京都である。一つは水戸藩の総力をあげての事業であり、今一つは学者個人の努力である。大小軽重の差はあるが、その目ざす所は一つであり、そして国史上最も困難なる南北の紛乱を、大義を以て裁断した点も同趣同様であった。但し問題は、処士一個の事業としては、あまりに大きかった。闇斎は、明暦三年の正月より筆を執り、そして少くとも二十数年間、鋭意努力したに拘らず、完成に至らずして天和二年(西暦一六八二年)九月、六十六歳を以て歿し、倭鑑の草稿もまた散逸してしまった。只その目録のみ、門人植田玄節によって伝へられた。それによれば、後醍醐天皇を本紀に立て、光厳、光明紀を之に附載し、後村上天皇を本紀に立て、光明、崇光、後光厳、後円融、後小松紀を之に附録し、そして明徳二年十月二日、三種神器入洛の事を特筆大書したといふ。して見れば是れは、水戸の大日本史と同じ見識であったとしなければならぬ。 続きを読む 崎門の真価─平泉澄先生『明治の源流』「望楠軒」

平泉澄先生「闇斎先生と日本精神」

 平泉澄先生は、「闇斎先生と日本精神」において、次のように崎門を称揚している。
 「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり、高山彦九郎恢慨屠腹すれば、唐崎常陸介之につぎ、梅田雲浜天下の義気を鼓舞して獄死すれば、橋本景岳絶代の大才を抱いて斬にあひ、其の他有馬新七、西川耕蔵、乾十郎、中沼了三、中岡惧太郎、相ついで奮起して王事に勤め、遂によく明治維新の大業を翼賛し得たのであつた。國體を明かにし皇室を崇むるは、もとより他に種々の学者の功績を認めなければならないのであるが、君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」

天誅組総裁・藤本鉄石と黒住教、そして崎門

 吉村寅太郎、松本奎堂とともに天誅組総裁として維新の魁となった藤本鉄石は、黒住宗忠が開いた黒住教の影響を受けていた。天保十一年、鉄石は二十五歳のときに脱藩して、全国行脚の途についた。延原大川の『黒門勤皇家列伝』には、「この天保年間は、宗忠の説いた大道が備前の国を風靡した頃で、鉄石も早くより宗忠の教説人格に接触して、大いに勤皇精神を鼓舞されたものと思われる」と書かれている。
 さらに同書は「彼は常に自筆の天照大御神の御神號並に、宗忠七ヵ条の大訓を書して肌守となし、或は、宗忠大明神の神號を大書して人に与えし…」とある。宗忠七ヵ条とは、
「日々家内心得の事
 一、神国の人に生まれ常に信心なき事
 一、腹を立て物を苦にする事
 一、己が慢心にて人を見下す事
 一、人の悪を見て己れに悪心をます事
 一、無病の時家業おこたりの事
 一、誠の道に入りながら心に誠なき事
 一、日々有り難き事を取り外す事
   右の条々常に忘るべからず恐るべし 恐るべし
   立ち向こう人の心は鏡なり己が姿を移してやみん」
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TPPは「平成の日米修好通商条約」だ!─出でよ、平成の梅田雲浜!

 大老・井伊直弼が強行した日米修好通商条約締結に対して、命がけで抵抗した幕末の志士たち。中でも『靖献遺言』で固めた男と呼ばれた梅田雲浜の抵抗は凄まじかった。
アメリカ基準への屈服・国体の破壊に直結するTPPは、まさに平成の日米修好通商条約である。平成の梅田雲浜よ出でよ!
以下に、『月刊日本』平成24年12月号に掲載した「『靖献遺言』で固めた男・梅田雲浜」浅見絅斎『靖献遺言』第1回(明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊 第5回)を転載します。

皇国への思いが招いた安政の大獄
安政五(一八五八)年九月七日、勤皇志士の巨頭、梅田雲浜は体調を崩し、京都烏丸池上ルの自宅で休んでいました。そこに、ドンドンと表戸を叩く音がしました。「誰か」と問うと、
「町役人ですが、今先生の御門弟が、そこの町で抜刀して喧嘩をしております。私どもがいくら止めようとしても、どうにもなりませんので、先生に出てきていただいて、取り鎮めてもらいたいのですが」
雲浜は、即座に町役人の言葉が嘘だと見ぬき、ついに補吏の手が伸びたと悟ったのです。このとき、大老・井伊直弼の指示により、伏見奉行、内藤豊後守正綱(岩村田藩主)は与力・同心以下二百人を率いて出動、雲浜を逮捕するため家を包囲していました。雲浜は、梁川星厳、頼三樹三郎、池内大学とともに、「尊攘四天王」として警戒され、弾圧の対象となったのです。 続きを読む TPPは「平成の日米修好通商条約」だ!─出でよ、平成の梅田雲浜!

梅田雲浜関連文献


書籍

著者 書名 出版社 出版年 備考
法本義弘 梅田雲浜 小浜市立図書館 1981 (若狭人物叢書 9)
梅田薫 梅田雲浜と維新秘史 東京正生学院 1979  
青木晦蔵、佐伯仲蔵編 梅田雲浜関係史料 復刻版 東京大学出版会 1976 (続日本史籍協会叢書日本史籍協会編 第2期第4巻)
奈良本辰也編 幕末志士の手紙 学芸書林 1969 続きを読む 梅田雲浜関連文献