坪内隆彦「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」(『宗教問題』36号、令和3年11月30日発売)

以下、『宗教問題』(36号、令和3年11月30日発売)に掲載していただいた「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」を紹介する。

■尾張藩尊皇思想の起点─「王命に依って催さるる事」
尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)が編纂した兵法書『軍書合鑑(ぐんしょごうかん)』の末尾には、「王命に依って催さるる事」の一語が記されている。尾張藩尊皇思想の起点となったこの遺訓は、歴代の藩主にだけ口伝で伝えられてきたが、第四代藩主・吉通の時代に明文化への道が開かれた。病にあった吉通は、跡継ぎの五郎太が未だ幼少だったため、遺訓の内容を侍臣の近松茂矩(しげのり)に伝え、後に残そうとしたからである。近松は明和元(一七六四)年に『円覚院様御伝(えんかくいんさまごでん)十五ヶ条』を著し、「王命に依って催さるる事」について、「いかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘の如き事出来て、官兵を催さるゝ事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と記した。
一方、『円覚院様御伝十五ヶ条』が書かれた十四年後の安永七(一七七八)年、水戸藩では第六代藩主・治保(はるもり)(文公)が、第二第藩主・光圀(義公)が遺した一句「古謂ふ君以て君たらずと雖も、臣臣たらざる可からず」を楷書で浄写し、義公の精神を復興させようとした。名越時正は、この一句にある絶対の忠が「朝廷と幕府との間に、万一どのやうな不祥な事態が起らうとも、我が主君たる天皇には絶対随順の至誠を尽すべし、といふ重大な意味を有することを感得した文公が、やがてこれを長子武公(第七代藩主・治紀)に伝へたに相違ない」と述べている。水戸においてもまた、義公遺訓は「朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」との趣旨として、文公から武公へ、武公から斉昭(烈公)へ、そして烈公から慶喜へと伝えられた。青山延于(のぶゆき)が編修した『武公遺事』には、武公が烈公に対して「何ほど将軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては、不義の事なれば、我は将軍家に従ふことはあるまじ」と語っていたことが記録されている。
実は、尾張藩における尊皇思想の継承は垂加神道、そして兵学思想と密接な関係を持っていた。敬公の遺訓を復興させた吉通とそれを明文化した近松茂矩は、ともに垂加神道を学んでいたのだ。しかも、吉通は長沼流兵学を好んだという。長沼流を創設した長沼澹斎(たんさい)(宗敬(むねよし))は、甲州流などの兵法を学んだ後、寛文(一六六六)年に『兵要録』を著し、長沼流兵法を創始した。近松もまた長沼流を皆伝しており、さらに幕末の尾張藩で活躍した徳川慶勝の側近・長谷川敬もまた長沼流を継承していた。『兵要録』には、「仮にも不義非道の弓矢をとらざれ」という言葉が記されている。これは『円覚院様御伝十五ヶ条』にある「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と見事に符合しており、近松の尊皇思想が兵学思想によって補強されていたことが窺えるのである(詳しくは拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』望楠書房)。
そして、垂加神道の尊皇思想、特に皇統守護の精神を兵学思想によって補強した人物が、今回紹介する玉木葦斎(いさい)(正英)である。寛文十(一六七一)年に生まれた葦斎は、元禄四(一六九一)年に闇斎の門人・出雲路信直に入門、さらに正徳三(一七一三)年に同じく闇斎の門人・正親町公通の門に入って垂加神道を修めた。葦斎は正徳五年には、公通から闇斎の『中臣祓風水草』の伝授を受けている。葦斎は垂加神道の継承者としての自覚を持ちつつも、同時に橘家(きっけ)神道を継承し、その発展に力を尽くすことを優先したように見える。
ただ、谷省吾は、「二つの神道(垂加神道と橘家神道=引用者)を併行して学びはじめた彼の神学的思索の過程においては、二つの神道が一つの人格・頭脳の中で、分ちがたく重なりあつてゐたことは当然である。……葦斎といふ一個のすぐれた坩堝の中で、両神道の所伝が燃焼されて、新しい綜合が行はれたことは確かである」と述べている(『垂加神道の成立と展開』)。

■徳川義直(敬公)にも伝えられていた橘家神道の兵法
もともと、橘家神道に継承された秘伝は、敏達天皇から皇子難波親王に授けられ、親王の玄孫橘諸兄(もろえ)以後は橘家に伝承されたとされており、その後胤の橘以貞(これただ)に伝えられていた。『橘家鳴弦口伝』に「正英、以貞ニ親炙スル事二十九年」とあるように、葦斎は幼い頃から以貞に師事した橘家神道を学んでいたようである。
諸兄の家は薄氏を称する堂上の公家だったが、諸兄から二十三代の以量は応仁の乱を避け、養子の以緒に家を譲り、美濃西郷に隠退し、明応五(一四九六)年に薨じた。以緒の子・以継の代で薄家は絶えたが、以量の孫・重信は薄田氏を称し、重信の子・信秀は延宝(一六七三~一六八一年)の頃、諸国を遊歴して軍法を説き、特に尾張藩に門弟が多かったとされる。橘家神道の来歴を記した『橘の雫』には「橘家の軍は、いまに所持の人尾州に多し」とある。谷省吾は、信秀が尾張敬公にも兵法を講じたと指摘している。
実は、『円覚院様御伝十五ヶ条』を著した近松茂矩は、長沼流を皆伝した後、橘家神道に継承された秘伝を取り入れて、独自の流派「一全流」を創始していたのだ。拳骨拓史氏が『兵学思想入門』で引いているように、近松は『神国武道弁』で「所謂神道は武道の根なり。武道の本は神道なり。道に二つなし」と述べていた。
そんな近松が、橘家神道の秘伝を伝えられていた敬公の『軍書合鑑』の真価を見抜いたのは決して偶然ではない。近松は『昔咄』において次のように書いていたのである。
「軍書合鑑は、寛永年間の御撰述の由、是又本朝にて、軍術正伝の書の最第一と称せん、故いかなれば、凡そ神代相承の軍術は、神武天皇より代々の天皇、天津日嗣の時に、三種の神器と同じく、御相伝ありし、但し敏達天皇慮有りて、其神伝軍術をば、難波親王へ御伝受あづけられて、親王の御子孫代々伝へて、守り奉るべき勅令にて、橘家代々受けあづかり奉りて、三十四代相承し、唯授一人として、他へみだりに、伝ふる事なし」
さらに近松は、「付会をなして、何流と称する軍師」たちを批判した上で、「天下の兵法を立てた」として長沼澹斎を称え、さらに次のように述べている。
「源敬(敬公)様此御選ありて、終に依王命被催に、筆を停め給ふ、これよく本朝神武の道を得させられし事、言はずして明白なり、故に予恐れながら、本朝正兵伝書編述の根元なりと、称し奉りぬ」
このように近松は、敬公が本朝神武の道を極めていたことを示すものとして「王命に依って催さるる事」をとらえ、尾張尊皇思想を力強く継承せんとしたのだった。

■神軍伝─「天照大神(天皇)を背負って戦えば必ず勝利する」
では、本朝神武の道とは何か。『日本書紀』によれば、戊午(紀元前六六三)年四月九日、磐余彦尊(いわれびこのみこと)(神武天皇)は龍田へ進軍した。しかし、道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山(いこまやま)を経て、中洲(うちつくに)へ入ろうとした。ところが、その地を支配する長髄彦(ながすねひこ)が軍を集め、孔舎衛坂(くさえのさか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。この時、磐余彦尊の兄・彦五瀬(ひこいつせ)命は流れ矢にあたり負傷してしまった。磐余彦尊は「日の神の子孫の自分が日に向かって戦うことは天の意思に逆らうことだ」と悟り、兵を返した。ここから「日神の力を背負い戦う」という考え方が生まれた。
この考え方が、「天照大神(天皇)を背負って戦えば必ず勝利する」という大星伝の起源である。江戸時代の兵学諸派は大星伝を強調したが、特に注目すべきは北条流兵学の大星伝である。小林健三は、北条流兵学の祖・北条氏長は、それまでの大星伝の中世的軍配思想を止揚して、全く道義的な解釈を採り、全てを天照大神の信仰に帰一させたことを高く評価している(『垂加神道の研究』)。氏長は、「大星」について「大は一人なり。星は日生なり。一人日に生ずるは天照大神なり。我が国開闢の始め、一人まず生じ給う」と書き、尊皇思想を展開していた。そして、小林は、氏長の大星伝を継承して兵家神道としての橘家神道を完成させたのが葦斎だった説いている。
葦斎は、亡くなる二カ月前の元文元(一七三六)年五月、『橘家神軍伝』をまとめている。同書は、葦斎が橘家に伝わっていた兵学の秘伝を基礎に、垂加神道の説を加え、さらに他の兵学説をも参考にして編んだものである。例えば、『橘家神軍伝』冒頭の「神軍大意」には、垂加神道の土金之伝が援用されている。
さらに注目すべきは、『橘家神軍伝』中に太子流神軍伝の伝目が取り入れられていたことである。太子流神軍伝は聖徳太子を祖として、鬼一法眼(きいちほうげん)、源義経、楠木正成へと伝えられた兵学とされる。鬼一法眼は京都一条に住む陰陽師で、所持していた兵法の秘書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を、義経に盗まれた話で知られる伝説上の人物だ。そして、闇斎は会津藩主・保科正之に招聘された際、太子流神軍伝の極意を継承した望月新兵衛から同伝を伝えられた。

■大星伝を尊皇思想として徹底させた玉木葦斎
拳骨氏は、闇斎に伝えられた太子流神軍伝は、葦斎、谷川士清(ことすが)、堀尾秀斎(春芳)に伝承されたと指摘している。この堀尾は葦斎の門人でもあり、『名分大義説』を著すなど尾張藩を代表する垂加神道派として活躍した。堀尾は安永八(一七七九)年に尾張藩の支藩高須藩の家老・高木任孚に認められ、以降約十五年間、同藩藩校・日新堂で講義をし、寛政期に死去している。堀尾の学問を継いだ高木秀條(ひでえだ)・深田正韶(まさつぐ)・朝岡宇朝(うちょう)・細野要斎(ようさい)らによって尾張藩尊皇思想は支えられていった。
名古屋史談会が明治四十五年に編んだ『円覚院様御伝十五箇条 名分大義説』は、『名分大義説』が名古屋における崎門派の勤皇説を最も明瞭に発表したものだと高く評価している。同書はまた、葦斎に師事した堀尾が、太子流神軍伝とともに橘家神道の大星伝を伝授された事実を明らかにしている。ここで浮かび上がってくるのが、橘家神道で結ばれる敬公と近松と堀尾の精神的紐帯である。堀尾は、近松が誕生した元禄十(一六九七)年の十七年後の正徳四(一七一四)年に生まれている。両者は垂加神道をともに修め、同時代を生きた尊皇派である。未だ近松と堀尾の交流関係を示す史料を発見することはできないが、両者が「王命に依って催さるる事」の継承で協力していた可能性も否定できない。
いずれにせよ、葦斎によって大成した橘家神道は、尾張藩をはじめ各地の尊皇思想に強い影響を与えた。皇學館大学教授の松本丘氏は『橘家神軍伝』について、「橘家伝来の兵学思想と垂加神道の皇統奉護の精神とが一致したものであり、橘家神道の思想的側面の完成形ともいうべきものであった」、「葦斎以前の諸兵学者流にて説かれていた大星伝を尊皇思想として徹底せしめ、橘家神道思想の眼目とされているものである」と同書を評している(『垂加神道の人々と日本書紀』)。『橘家神軍伝』で、葦斎は次のように述べている。
「さて臣下の大星は天皇を以て大星とす。天子は日嗣の天君にして今日の天照大神にてましますなり。臣下万民の目当大星とする所は天皇なり。天君に向い矛先を向け弓を引き、矢を放ちては天の道逆らう故、負ける事必然なり。勅命を蒙り勅命のまにまに敵を討つ事、これ則ち、随影圧躡(影の随(まにま)に圧(おそ)い躡(ふ)む)の道理なり。天照大神と天皇と御同殿御同牀にましまして、神皇御一体なれば、たとえ天日を背に負うといえども天皇に叛き奉りては急に天罰を蒙る事炳然(へいぜん)たり。太陽天日の御人体に生れ出させ給えるは天子なり」
この一節こそ、「かりにも不義非道の弓矢をとらざれ」と教える長沼流と響き合い、「王命に依って催さるる事」として示された尊皇思想の継承を強く支えていたのである。

坪内隆彦