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坪内氏の概要(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)から、坪内氏の概要に関する記述を引く。
 〈坪内氏 加賀国の富樫氏に出る。富樫氏は藤原利仁(鎮守府将軍兼武蔵守)の後裔で加賀国石川郡富樫郷を収めて、富樫を姓とした。富樫氏一一代の頼定(藤左衛門)が加賀国より尾張国に来て、野武(中島郡坪内村・現尾西市野府)の城代坪内又五郎の家号を継ぎ、坪内と称したという。頼定(藤左衛們)は天文年間(一五三二─一五五五)犬山城主織田信康(信長の叔父)に仕えて、尾張国葉栗郡松倉村(現羽島郡川島町松倉上ノ島)に城を構えた。それより三代を経て坪内利定(喜太郎・玄蕃)は、織田信長の被官(家臣)となり、たびたびの合戦に功をあげたが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と不和となり、本領をはなれて武儀郡金山(現益田郡金山町金山)に閑居した。しかし、天正一八年(一五九〇)、徳川家康に召し出されて、上総国山口村一五〇〇石、武蔵国伊奈木岸之郷五〇〇石、都合二〇〇〇石を与えられた。嫡子惣兵衛玄蕃・次男嘉兵衛・三男佐左衛門・四男太郎兵衛四人の子は共に朝鮮の役に従軍した。慶長二年(一五九七)九月に徳川家康に召し出されて、嫡子惣兵衛(玄蕃)は五〇〇石、弟共三人は三〇〇石ずつあてがわれ、父子併せて上総国において三四〇〇石余を領有した。
 慶長五年(一六〇〇)の上杉景勝征伐の時、父子五人共に関東の小山(現栃木県小山市)まで従軍し、同年(一六〇〇)九月の関ヶ原合戦時には、井伊少輔直政に属し、鉄砲隊五〇人を組み先手となって奮戦各々負傷した。戦後慶長六年(一六〇一)二月、戦功によって加増されて、美濃国羽栗・各務両郡内に六一三三石余を与えられた。
(中略)
 庶家坪内氏 前渡坪内氏は、初代は嘉兵衛(利定の二男。源太郎・小十郎・杢助)で、代々各務郡前渡村に居住、旗本であるが無役。一二代昌寿の時、采地を奉還した。
 平島坪内氏は、初代佐左衛門(利定の三男、正定、隠居後喜左衛門)で、代々佐左衛門を襲名。無役の旗本として平島村字西崎に居住。
 三井坪内氏は、初代は太郎兵衛(利定の四男、定安)で、代々太郎兵衛を襲名。無役の旗本で各務郡三井村字西屋敷(現各務原市三井町内)に居住。
 前渡・平島・三井の坪内氏は、新加納坪内氏の所領を内内に分与されていた。したがって知行地の支配についての重要なことは、新加納坪内氏があたり、三家は、新加納の坪内氏を家元と呼んでいた。〉(『岐南町史』265、266頁)

坪内隆彦

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