古今和歌集解釈の秘説

古今伝授とは、古今和歌集の中の語句の解釈に関する秘説を伝授することである。室町時代の歌人・東常縁(トウノツネヨリ)は、藤原定家より受けた御子左(ミコヒダリ)の享受とともに、正徹、尭孝といった中世を代表する歌人に学び、切紙に記した免許目録を弟子に伝授する方法によって、連歌師の宗祇に伝授したという。この切紙を中核とする伝授により、古今伝授が確立された。
やがて、古今伝授はいくつかの流派に分かれている。宗祇から三条西実隆を経て細川幽斎に伝えたものを当流(二条派)、宗祇から肖柏に伝えたものを堺伝授、肖柏から林宗二に伝えたものを奈良伝授という。

 慶長の初めに、分派した古今伝授を集大成したのが細川幽斎(1534~1610年)である。
 慶長5(1600)年の関ケ原の戦い直前、幽斎は東軍・家康方につき、居城の丹後田辺城に籠城した。城には幽斎と家臣500ぐらいしかいなかった。攻める西軍は、小野木公郷をはじめ、石川貞清、谷衛友、藤掛永勝ら総勢1万5000の大軍だった。ところが西軍は容易に落とすことができなかった。こうした中で、9月3日、ついに後陽成天皇が古今伝授の伝統が断絶することを恐れて勅使を下し、勅命講和にもちこんだ。細川護貞の『細川幽斎』によると、9月12日に三条大納言実条ら3人の勅使によってもたらされた勅諚には、「古今和歌集の秘奥を伝え、帝王の御師範にて、神道歌道の国師と称す。いま玄旨(幽斎のこと)、命をおとさば、世にこれを伝ふる事なし」とあった(『京都新聞』2003年6月30日付朝刊)。ここには、古今伝授と神道歌道の関わりが示されている。
 そもそも、和歌と言霊の緊密な関係を示す例を挙げることは決して難しいことではない。例えば、大本の出口王仁三郎の祖母は和歌に通じ言霊にも深い造詣があった。歌人の佐佐木幸綱は、古歌にしばしば用いられた歌枕を例にあげ、日本語における固有名詞は、単に物を識別する記号ではなく、対象に対する敬意や愛情の表現でもあり、古くは、ものに優れた名前を付け、繰り返しうたうことによって、言霊を発揚することこそが、和歌を詠む本来の目的でもあったと説いている(『北海道新聞』2002年11月20日付夕刊)。
 神社本庁教学研究所の茂木貞純研究室長は、「言霊の篭った大和言葉こそ神の心に通じることができるからだ。その精神は和歌の伝統の中にも生きている」という(『産経新聞』1996年1月26日付夕刊)。また、万葉の代表的詩人で、天智、天武の両天皇に愛された額田王は、言霊を自在に繰る才女だったとされている。

紀貫之は古今和歌集の仮名序で、「力を入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ云々」と書いている。

 ところで、1990年代以降、古今伝授を見直そうという気運も出てきている。1993年7月には、東常縁が住んでいた岐阜県郡上市大和町に「古今伝授の里フィールドミュージアム」が完成した。和歌文学館、東氏記念館、短歌図書館などが設置されている。また、2000年には、1600年に幽斎が八条宮智仁親王に古今伝授を伝えたとされる熊本県の「古今伝授の間」で記念イベントが開催されている。

坪内隆彦

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