丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第八編以降を見ていく。
〈第八編は「日本の歴史」である。「我が国の上代は野蛮であつたなどゝいふけれども、野蛮では出来ないことが幾つもある」「元来野蛮といふことは不足といふことゝ全く意味が違ふ」「天皇様は孝あつて忠なしと言はんが如きものである、臣民は忠を重もに説きて孝に持ち込めば、孝の中で一番の孝は君に忠を尽すことである」「抑我が国の歴史は、時運の変遷社会の状態を記せるに止るが如き単純無味ならものにあらずして、世界の元始と共に存在せる徳教の真理を闡明し、白然の道義を説示せる経典なり」「我が国の成立は決して彼れ蛮族の占領、酋長の奪略に基けるが如きものあらず、厳乎たる体相、自然に出づ」「維新以来諸の詔勅常に皇祖皇宗の宏猷によりて云々と宜ふもの、見るべし我が皇徳の大綱、万世一旨、只祖宗の宏猷を崇敬し給ふに在ることを、夫れ孝は道の大本にして万善の由りて生ずる所なり」「我が日本人民、万姓の祖、之を窮むれば即ち天神に出づ、忠孝二致なし」「我が神聖にして宇内無比なる古事記、日本書紀以下の歴史は、天地開闢の初に源せる道義の教典なり。忠孝の明鑑なり、人倫の大綱を事実に明示して万世に垂るゝ天道の遺範なり」など〱ある〉
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玉木正英口述「神学大意」─神籬(日守木)
玉木正英口述の「神学大意」(松岡雄渕筆記)には、以下のように書かれている。
「扨神籬と云ことは、皇天二組の霊をきつとまつり留められて、皇孫を始め奉り、万々世のすめみまを守護することの名ぞ。日と云は禁中様のこと、日つぎの御子で御代々日ぞ。其日様を覆ひ守らせらるる道の名ぞ。去によて代々御日様の御座る処はどこぞと云へば、禁裏の皇居が代々日様の御座所ぞ。(中略)とかく日本に生れたからは、善悪の別なしに朝家を守護しをほひ守ると云ことを立かひやり(ママ)、以て朝家の埋草ともなり、神になりたらば、内侍所の石の苔になりともなりて、守護の神の末座に加はるやうにと云ふことが、この伝の至極也」(カタカナをひらがなに改めた)
『維新と興亜』第2号刊行
令和2年4月、崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌『維新と興亜』第2号が刊行された。
目次は以下の通り。
【巻頭言】グローバリズム幻想を打破し、興亜の道を目指せ
歴史から消された久留米藩難事件
尊皇思想と自由民権運動─愛国交親社の盛衰②
金子彌平―興亜の先駆者④
新しい国家主義の運動を起こそう!②―津久井龍雄の権藤成卿批判
江藤淳と石原慎太郎②
金子智一―インドネシア独立に情熱を捧げた男
重光葵と「大東亜新政策」の理念―確立すべき日本の国是を問う
田中角榮の戦争体験
『忠孝類説』を読む
若林強斎先生『絅斎先生を祭る文』
菅原兵治先生『農士道』を読む⑤
首里城の夢の跡
書評 拳骨 拓史『乃木希典 武士道を体現した明治の英雄』
書評 浦辺 登『勝海舟から始まる近代日本』
表紙の写真─片岡駿の生涯と思想
活動報告・行事予定
柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」百周年記念研究会のお知らせ
大正9(1920)年6月、民藝運動を起こした宗教哲学者である柳宗悦は「朝鮮の友に贈る書」を『改造』に発表し、日本の朝鮮統治を厳しく批判しました。
欧米列強の植民地支配に反発しながらも、日本も朝鮮文化に無理解な態度をとっているではないか…!朝鮮にも素晴らしい文化、芸術はある。日本がそれを理解しないでどうする。そうした自己反省の書が、「朝鮮の友に贈る書」なのです。
「朝鮮の友に贈る書」が書かれて百年。いまふたたび柳宗悦の熱き思いをひもといていきましょう。
記
日 時 令和2年5月23日(土) 午後3時~5時
形 式 Skype を利用した研究会(参加希望者は、お名前と Skype IDを下記アドレスに送信ください)
テキスト 「朝鮮の友に贈る書」(各種復刊もされていますし、青空文庫では無料公開もされています。ご自身でテキストをご準備ください。)
主 催 大アジア研究会
https://greaterasia.webnode.jp
連絡先 greaterasia0630@gmail.com
副島種臣『精神教育』④
丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第六編以降を見ていく。
〈第六編は「仁智」である。「常に智を弄すると仁は無くなる、智の極からいふときには君父なきに至るものであらう」「藤房卿とか西行とか皆智者である、己を潔うするに止まるのみである、楠公に至ては真に仁者であらう」「世界の終極を思ふやうになると、国家といふ念慮も、君父といふ念慮もないことになつてしまふ、天壊無窮、万世一系と思へばこそ、亡魂になつてゞも尽したいといふ一念が立つといふもの、これを世界の終迄考ふるやうになると、七生人間といふやうな意念がなくなつてしまふ」「人が勉強して誠を養ふと、念々皆神ならざるはなしの所まで進むこと出来る」「如何なる人と雖も平日と大平の時とは別のものである、それは心の出様から差ふ、坂上田村麿も平日家居の時には、小児と同じやうな心になつて、遊んで居つたであらうけれども、此の戦に臨んだ時には、百万の敵も睨んだばかりで辟易した」「誠の極といふものは、己の泣く時には天も泣き、己の喜ぶ時に天も喜ぶものである」「一以貫之といふ語は人によりて色々と見様が差ふけれども、天の御心を我心としで居るといふ心もちで、所謂天一致の意味であると拙者は思ふて属る」など。
第七編は「利義」である。「魂には其の師匠として差図をなさる神が止つて在らせらるゝ、即ち、魂が良知良能を作り出すにはそのお師匠さんがある筈である、このお師匠さんといふは、即ちいたゞきに来住める神である、人といふ語を日止と解した説もある、日は即ち神である」。など。〉
副島種臣『精神教育』③
丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第五編以降を見ていく。
〈第五編は「良知」である。「人の念々の動くのは多くは皆慣習であるものだから、忠孝の習慣の厚いものは常にその念が動き、又忠孝といふ者を常に思はぬものは其の念は決して動かぬ、そこが習相違である」「中庸に天命之謂性、率性之謂道(天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い)とある、率性とは即性のまゝといふことである、性のまゝなるが道なれば、道と性とは同一なるもので、差つたものでないといふことが分るであらう」「中庸にも君臣也。父子也、夫婦也、昆弟也、朋友之交也、五者天下之達道也とある通り畢竟五倫といふものより外に道といふものはない筈のものである」「伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神が生れましたといふは、夫婦の義であらう、其れからだん〲と多くの神々が生れましたといふは、即、父子の義であらう、葦原千五百秋之瑞穂国是我子孫可王之地、宜爾皇孫就而治焉とあるは君の義であらう、臣下よりいふときには、臣の道が其れから生ずるものであるから、やはり君臣の意味である、庸佐夜芸互阿理祁理といふ場合からだん〲と万民が相輯睦するといふのは、即、朋友の交がそれから教へらるゝのである、それから先づ兄なる皇子より即位に即かせられて、次に弟の皇子に及ぶといふのが経である。間々その時によつて弟が先立たれたこともあるけれども、それは権である。これから長幼の道も明になつて居る、かやうに五倫の道といふものは決して支那から教へられたのでなく、自然に備てゐる」「すべて君父には不較といふて、何であらうが是非曲直を較ぶるといふことをせぬが、臣子たる者の道である」「道といふ字は首に辵すなはち首が走ると書てある、即、頂に来住める神が走るの意味であらう」「貴といふ字は一中が貝(タカラ)なりと書てある」「一文字を作つた蒼頡といふ男はなか〱えらいものであつた」など〉
副島種臣『精神教育』②
丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第三編以降を見ていく。
〈第三編「日本の教育」には「日本の教育といふは他ではない、老人も小児も、男も女も、皆ひとしく吾等は先祖代々、万世一系の天皇さまの下に居るものであれば、この一系の天皇さまの御為には、何時でも身命を擲て御奉公申上げるといふの心を養ふことである」「この大なるものが立てば、其余の小なるものは随て立つのである」「兵隊が平日は日本帝国万歳といつて空に教へられて居るのが、愈々戦争の時になつて遼東とか旅順とかにて絶叫する時は 天皇陛下万歳と言つて帝国万歳とは言はぬ、そこが自然と一天万上の君を戴きて居る所を顕はしたといふものである」「不得已といふことはどうしてあるものだ、不得已といふことの証拠は荒魂である、已に荒魂則勇の魂を享けて居る以上は、我に敵するものに打勝たなければならぬ」「養ふべきは大勇である、爾後に大仁を天に施し得るのである」などなどある。
第四編は「道徳」である。「孔子の書に道徳と二字接続してこれを言ふものあるを見ず而して接続して之をいへるは史記の老荘申韓伝に出でたり」「孔子の書に単に道と云ひ徳と言ふも、皆善道善徳を称する者にして決して悪道悪徳を称するものに非ず」「孔子の道を論ずるや夫婦の愚可知矣といへり、失婦の愚、豈天下の達道、天下の達徳なる者を逃れ得んや、老子が云ふ如き空言無実なるものゝ比すべきに非ず、徳をノリとす、即ち乗り行ふべき者の謂なり。出言為度の度なり、乗も同義なり」などなどある〉
副島種臣『精神教育』①
丸山幹治の『副島種臣伯』に「先生の日本主義」という一節がある。
これは、副島の『精神教育』から丸山が抜き書きしたものである。『精神教育』は副島の門人、川崎又次郎が編纂し、同佐々木哲太郎が校閲した。
〈第一編「教導」には、「教ふる時は半分は自分の学問するといふ心あひで教へねばならぬ」「師たるものは言々語々言葉に注意していはねばならぬ」「人を教ふゆるには愛を表にしてゆかなければならぬ。智の方は以心伝心でゆくがよいものである」「孔子の出門如見大賓といふのは、一口にいはゞ人を慢らぬといふまでゞある、人を呵る時は此者の顔にも神は宿つてござると思ふ所である」「凡天下に志あるものは何時で靄然として仁天下を蓋ふものがあるによつて、天地と度を合するものである」。などなどある。
第二編「感化」には「彼の楠氏の時代には、武蔵相模の兵は、日本中寄つても之に当る者が無いといふ程強かつたが、五畿内の兵は、鞭で打たれても直ぐに斃れるといふ程弱い者として有つた、然るに其の鞭で打つても斃れる弱い五百人の兵士を楠が率ゐると、楠の義勇の精神は、直に五百人の兵士の心となり、日本中の兵を引受けて宜いといふ武蔵相模の兵と戦ふて、彼は散々逃げても、楠の兵は一人も逃げたといふ事はない」「楠、児島の精神を知るに依つて万劫末代、志士仁人を起して行く、足利尊氏の為めに奮ひ起つたといふものは一人も無い」「智慧と智慧で来る時は互に相欺くばかりである」「楠の死んだ時でも其首を賊兵が楠の郷里に送つて遣つたと云ふ様な伝へがあるものである、賤までが感ずる」「高山彦九郎の日記と云ふものがある、信濃の人で林康之といふが其日記を持つて来て見せられた事がある。粗末な紙に書いてある、其に高山が伏見を通つた時、伏見に戦気が見える、他日事の有るならば、伏見から始まらうと言つた事が書いてある、然るに御維新の際、伏見の戦争が第一着であつた」「感応とか、感招とか、感化とか、自然と天地人相通ずる所の者がある」「感招の理は信長が一人、尾張に起ると秀吉とか蒲生とか誰とか言ふ様な有名な人は悉く尾張から起つた、家康一人三河から起ると、天下を定むるに足る伎倆の輦が矢張三河から起つた」「富士山も平にすれば何にもならぬ。横幅を利かさぬから高くなる」「孔子等は其人の長ずる所に依つて、一方に長じた人に、一方を長じさする、何もかも利かすと平くなつて何処も利かぬ様になる」などなどある〉
第47回(令和2年度)大夢祭のご案内
以下、大夢舘告知を転載する。
合掌 昭和七年五月十五日、三上卓先生を始めとする先達は、昭和維新を目指して蹶起しました。それから八十八年の歳月が流れました。ところが、わが国は真の独立を恢復できないまま、内外の危機が深刻化しています。蹶起の二年前、「民族的暗闇を打開し、開顕しうるものは、青年的な情熱以外にはない」との確信に基づき三上先生が佐世保の軍港で作ったのが「青年日本の歌」(昭和維新の歌)です。現在の危機を打開するために、今ほど青年的情熱が求められる時代はないと、我々は信じております。
維新の精神の発揚を目指し、花房東洋が昭和四十九年に始めて以来、四十七回目となる令和二年度 大夢祭を、以下の通り開催致します。「大夢」とは三上先生の号です。
敗戦によって占領下に置かれたわが国は民族的自覚、國體に対する誇りを喪失し、植民地的属領国家の様相を呈しました。この状況を打破せんとして、昭和維新の精神を継ぐべく、多くの先覚者たちが身を挺して立ち上がって参りました。
昭和三十五年十月十二日に浅沼稲次郎を誅し、同年十一月二日に自決した山口二矢烈士。昭和四十五年十一月二十五日に自衛隊決起を呼びかけた末、自決した三島由紀夫烈士と森田必勝烈士。平成五年十月二十日、朝日新聞の報道姿勢を糾さんとして、壮絶な自決を遂げた野村秋介烈士。さらに多くの先達が維新運動に挺身して参りました。
本祭祀を、五・一五事件で斃れた犬養毅、官邸護衛の警視庁巡査・田中五郎の両英霊、昭和維新を願って蹶起した三上先生はじめ、これに連なる多くの先輩同志同胞にとどまらず、維新運動の先覚者の御霊をお祀りし、その志を受け継ぐ場にしたいと存じます。
当初、『五・一五事件─海軍青年将校たちの「昭和維新」』(中公新書、四月一八日発売)を上梓される、帝京大学文学部史学科教授の小山俊樹先生をお招きして記念講演会を開催する予定でしたが、都合により勇進流刀技術大阪支部長の田中耕三郎氏らによる演武を奉納いたします。どうか、一人でも多くの方にご参列いただけますよう、心よりお願い申し上げます。
再拝
令和2年4月
記
日 時 令和2年5月15日(金) 受付 午前11時半
第1部 大 夢 祭 正午 岐阜護国神社本殿(岐阜市御手洗393)
第2部 奉納演武 12時半
勇進流刀技術大阪支部長 田中耕三郎氏
第3部 直 会 午後2時 大夢舘(岐阜市真砂町1-20-1)
神 饌 料 6,000円[記念品『五・一五事件』(小山俊樹先生著)]
*ご参列の場合には、info@taimusai.com宛てにご連絡いただければ幸いです。
大夢舘
代表
坪内隆彦(愚斎)
副代表
鈴木田遵澄(愚道)
執行役
雨宮輝行(愚蓮)
小野耕資(愚泥)
坂本 圭(愚林)
菅原成典(愚骨)
中川正秀(愚山)
花房 仁(愚元)
宮本 進(愚遊)
後見役
奥田親宗(愚城)
長谷川裕行(愚門)
服部知司
藤本隆之(愚庵)
「王命に依って催さるる事」─田中惣五郎『綜合明治維新史 第二巻』
田中惣五郎は『綜合明治維新史 第二巻』(千倉書房、昭和十九年)において次のように書いている。
〈尾州藩主義直の尊王心は著名であり、大義名分に明かであるとされて居るが、水戸義公の大日本史編纂もこの叔父義直の啓発によるところ尠しとしないと言はれて居る。従来この藩のことは閑却され勝であつたから少しく筆を加へて置かう。義直の著「軍書合艦」の巻未には「依王命被催事」といふ一筒条があつて、一旦緩急の際は尊王の師を興す意であつたと伝へられる。しかしこれは恐らく群雄の興起した際のことであつて、本家の浮沈に当つては、水戸同様いづれにも与せぬ方針と解すべきであらう。そしてこの事は文書に明確にすることを憚り、子孫相続の際、口伝に依て之を伝へた。そして四代の藩主吉通が二十四歳で世を去り、其の子五郎太が尚幼少であつたから、忠臣で事理に通じた近臣近松茂矩に命じて成長の後に伝へしめたものが、所謂「円覚院様御伝十五条」の一で、御家馴といはれるものである〉