『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『維新と興亜』第3号)

 『維新と興亜』(崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌)令和2年8月号に、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』の書評を載せていただきました。評者は、大アジア研究会の小野耕資代表です。

 〈尾張藩にとっての明治維新―。それは一言では語りつくせぬほどの苦悩の歴史である。尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面では当然幕府側についてもおかしくないだけの存在であった。だが、結果的に尾張藩は新政府側につき、徳川幕府に相対する側となった。それはなぜか? それを理解するためには、初代藩主義直が残した「王命に依って催さるる事」の言葉とその背景、そして徳川幕府との暗闘の歴史を見なければならない。そんな隠された歴史に迫ったのが本書である。

 好学であった義直は尊皇斥覇の朱子学を学び、朝廷に仕えることを美徳とした。もちろんその背景には、幕府がうまくいかないようならば取って代わってやろうという思いも抱えていた。そんな義直の遺訓が、「王命に依って催さるる事」である。この言葉の意味は、「事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきこと」を強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
 義直の尊皇精神は楠公顕彰に繋がり、覇道による統治の批判につながった。それらの思想を支えたのは、崎門学、国学、君山学派などの豊かな学派であった。それらは好学であった義直が支えた土壌の中で育まれたものであった。
 このような遺訓を残された尾張藩と幕府は常に緊張関係にあり、歴代藩主の中には幕府に暗殺された疑惑を持つ者までいた。第七代将軍家継が亡くなり徳川宗家に後継ぎがいなくなったとき、後継将軍は尾張家からではなく、紀伊徳川家から選ばれた。徳川吉宗である。このとき尾張側の後継候補だった第六代藩主継友こそ、暗殺疑惑のある藩主の一人なのである。また、その跡を継いだ第七代藩主宗春は、徳川吉宗の統治を批判。表面上は経済政策に対する論争ではあったが、「尾張(宗春)は勤皇倒幕の義旗を掲げて立つに違いない」といわれるような緊張関係が背後にはあったのである。
 そんな尾張藩であったが、寛政年間以降は幕府による押し付け養子を受け入れざるを得ない状況に陥り、尾張藩の自立性は危機に瀕していた。そんな中で擁立されたのが、支藩である岐阜高須藩出身の慶勝であった。慶勝擁立に動いたのも、義直の尊皇精神を支えた各学派の高弟たちであった。こうして尾張藩は義直以来の尊皇斥覇の精神を取り戻し、幕末の激動に突入したのである。もちろんたとえ藩祖の遺訓だとはいえ、御三家である尾張藩が「王命に依って催さるる事」の精神を幕末まで伝えるのは簡単なことではなかった。そこには「王命に依って催さるる事」の精神の尊さを理解した者たちが、命がけでそれを守り、伝え続けたからだったのだ。そうした「魂のリレー」を描くことが、本書の主眼である。
 近年明治維新を薩長による権力奪取ととらえる歴史観が横行している。たしかに薩長が維新を目指した理想を忘れ藩閥政治に堕したことは厳しく批判されなければならないが、尊皇斥覇の思想は薩長が権力を握るために幕末になって突如持ち出したものではない。江戸時代初期から、その種火は準備され、先人の苦闘によって伝え続けられ、幕末になって発火した。その中心には、尾張藩の姿があった。こうした精神的、思想的連続性を視野に置いたうえで明治維新史、そして江戸時代の歴史は考えられなければならない。
 著者は三年ほど前から尾張藩ゆかりの地を少しずつ訪れ、「尾張学」の世界を追体験し、尾張藩の歴史に対する確信を深めていった。その成果が本書である。
 知られざる歴史が、いま開封される。〉

坪内隆彦