『維新と興亜に駆けた日本人』の書評(2011年11月7日)─「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」

国学の源流は契沖、本居宣長、平田篤胤、それが江戸には山鹿素行、山崎闇斎、大塩平八郎、そして、その正気の爆発は、西郷隆盛、乃木将軍、特攻隊、三島由紀夫へと繋がる。
思想の一連の系譜は連綿としている。
本書は幕末から明治維新を経て、昭和維新へといたる過程で思想運動と絡み合いながら祖国のために挺身した志士群像の物語である。
これらの志士に象徴される、おのれをすてた、命がけの行動があってこそ、我が国は救われた。
今日の日本の政治的精神的混迷は志士の不在にある。
政治家に思想性が希薄になり、理想は希釈され、グローバリズムに汚染され、いや国学的原点がまったく失われ、売国や買弁行為をしている政治家自身がそのことに気がつかない。
この愚かな状況を克服するには、国学に励んだ志士の軌跡をたどることから始めなければならないだろう。
本書で坪内氏が取り上げたのは西郷南州から始まって副島種臣、大井憲太郎、頭山満、岡倉天心、権藤成卿などと多彩だが、杉浦重剛、荒尾精、杉山茂丸、宮崎滔天ら、比較的無名に近い人々も混ざり、まとめが内田良平である。
西郷からはじまって内田良平でおわるという編集方針には隠された意図がある、のではないかと思いながら読み進めた。
宮崎滔天は『三十三年の夢』を残し、アジアの革命にかけて疾駆した青春を回顧しながらも民衆の望んだアジアの平和を語る。
日本に亡命してきた康有為は、宮崎滔天の胡散臭い存在を疑い、自分を暗殺するために「孫文がおくりこんだ刺客」と信じて、滔天を疑った。
それもそのはずで康有為は当時の清朝末期を代表する知識人兼文化人、どこの馬の骨かわからない孫文などまったく評価していない。
後世の史観から視れば孫文が基軸に誤解しがちだが、孫文は当時の革命状況の中では「馬の骨」だった。康有為の動向に人々の関心はあった。清朝を内部から改革できる最大のホープだったからである。
その後、孫文の名声を高めたのは、じつは滔天の『三十三年の夢』であった。浪曲師として糊口をしのいでいた滔天をたずねて支那からも多くの革命家がやってきた。彼の楽屋には宋教仁も泊まり込んだことがあるという。宋教仁の研究は、我が国においてもちっとも進んでいないが、かれを暗殺したのは袁世凱のはなった刺客。その黒幕は孫文であっただろうというのが、こんにちに歴史家の通説である。
孫文が異様に高く評価された原因が宮崎滔天にあったというのも何かの皮肉だろう。
それを本書はさりげなく挿入している。
巻末の内田良平は、はやくから孫文のペテン性に気がつき、革命同志会の結成には自宅を開放したほどの理解者だったのに、晩年は急速に孫文から離れた。内田良平は最終的に日本の脅威はロシアだとして、シベリア鉄道に乗ってモスクワからペテルブルグまでをつぶさに観察した。
なにはともあれ、こうした志士伝がひろく人口に膾炙され、とりわけ若者に読まれることを望みたい。
本書はその入門編である。
(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成23(2011)年 11月7日(月曜日)通巻第3474号)
『三島由紀夫の総合研究』平成23年12月25日号掲載。

 

坪内隆彦