一方、慶応元(一八六五)年九月には、尾張藩士表御番頭・丹羽佐一郎が、東区山口町神明神社境内に楠公を祀りたいと寺社奉行所に願い出て、許可を得た。こうして、神明神社に湊川神社が設けられた。慶応三年には、佐一郎の子賢、田中不二麿、国枝松宇等、有志藩士発起の下に改築されている。
その勧進趣意書は次のように訴えている。
「夫れ人の忠義の事を語るや、挙坐襟を正し汪然として泣下る。是れ其の至誠自然に発する者、強偃する所有るに非るなり。楠公の忠勇義烈、必ずしも説話を待たず、其の人をして襟を正し、泣下せしめるものは則ち、唱誘の力なり。今公祠を修し、天下の人と一道の正気を今日に維持せんと欲す。あゝ瓶水の凍、天下の寒を知る。苟も此に感有るもの、蘋繁行潦の奠、その至誠を致し、以て氷霜の節を砥礪すべし」(原漢文、『湊川神社史 景仰篇』)。
こうした藩内の楠社創建を経て、慶應三年十一月八日、尾張藩藩主・徳川慶勝は、楠公社造立を建議した。将軍徳川慶喜が大政奉還を願い出てから二十日あまりのタイミングである。
謹而奉上言候、方今
皇道一新之初、群賢輻輳之砌、臣慶勝闇劣駑鈍之性、謝罪脩省之余を以、彼是子細奉建言候仕、誠に以恐懼戦慄之至に奉存候得共、鄙懐之一事難忍黙止敢而奉汚
天聴候、臣慶勝誠恐誠惶、頓首頓首、臣慶勝窃に思惟仕候に、培養能根柢に至れば枝幹自ら栄に向ひ、恩恤深泉骸に及べば人心随て和を感ず。是必然之理と奉存候。謹而古典を考候に、労を以て国を定むる者は祀る、死を以て事を勤る者は祀る共相見え申候。先臣楠正成一門之者共、忠節を 皇家に尽し、武功を古今に顕し、其終一死を以て殉国候段、誠に以臣子之亀鑑、祀典に被列相当之者と奉存候。然るに未御旌表之御沙汰も不奉伺、遺憾奉存候。何卒新に神号を降賜り、祀典に被列、皇都之内可然地を相し、一社御建立被為在候様仕度、且又近古以来国事之為に身を亡し、未御収恤を不蒙者、其数不少、一念爰に及ぶことに測憺悽愴之至に不堪奉存候。是等の幽魂托する処なく、自然天地の和気を破候より、邦内之不静謐引出候儀共奉存候間、仰願くは此者共之精霊をも被慰、合祀して一之摂社と存し、右楠社境内に安置被為在候様仕度奉存候。左候得ば特一時之 御盛典のみならず、万載洪基之
御守とも相成、且は敵愾仗義之風尚ふも乍左、感発作興之一助とも可相成、是賎位多年の宿願に付、伏而奉上言候。万一愚者之一元、御聖択をも奉蒙候はゞ、感恩之至に不堪奉存候。臣慶勝 誠恐惶頓首
十月十一日、尾張藩の京都留守居・尾崎忠征(八右衛門)が、左大巨近衛忠房を訪ね、建議の意図を告げた。忠房は父忠煕と協議し、建議を約束した。十八日、忠征は慶勝に会い、楠公社造立の建白書を武家伝奏に致し、その写を摂政・二条斉敬以下、国事掛・朝議参与に致す旨届け出た。こうして、朝廷において尾張藩の建白書の可否が下問され、二条摂政はこれを許すことに決めたのである。
これを受け、二十六日忠熙は尾崎忠征に指示を出した。摂社祭神の「近古為国事ニ身ヲ亡し未御収恤を不蒙者」とはいかなる者か、詳細を調査するとともに、社地の候補地についても調査し、報告するよう命じた。これを受けて、慶勝は再度上書し、皇国には忠節の士枚挙に遑なく、その事蹟も一朝に調査して遺漏なきを期することはできない。強いてそれを行なおうとすれば、玉石混淆、遺漏誤脱の虞があるので、「天下更始の時に方って、身を国歩の難に殉じた忠魂義魄を祭祀し、褒賞の典を明示するように朝議いただきたい」とした。また、造立の場所として京都神楽岡辺りがふさわしいと上申した。
しかし、事は進展を見せず、慶勝は翌慶應四年三月に、三たび建白した。こうした尾張藩の動きを知った薩摩藩は、巻き返しを図る。薩摩藩は、すでに文久三(一八六三)十一月に、藩士折田要蔵(折田年秀)が島津久光に付き添って上京した際に、楠社創建を建白していたのである。
尾張の建白が、神社には楠公のみを祀り、その摂社において、国家に殉じたものを広く合祀するとしていたのに対して、薩摩の建白では護良親王など南朝忠臣などを合祀するとしていた。また、場所についても尾張が京都に設けるとしていたのに対して、薩摩は湊川に設けるとしていた。
薩摩藩は、慶勝が三度目の建白をした慶應四年三月、薩摩藩士・岩下方平(岩下佐次右衛門)らが兵庫裁判所総督・東久世通禧に楠社創建の請願した。この際、薩摩藩は、楠社は一藩に任すのはよろしくなく、政府によって建てられるべきだとの考えを示していた。
三月二十四日、東久世は大阪に赴き、大阪行幸で大阪に滞在されていた明治天皇に奏上、ただちに聴許された。四月二十一日に政府(太政官)は、神祇事務局に楠社創建を命じた。尾張藩は、その後も京都に楠社を創建することを献言したが、明治二年三月、最終的に京都での創建は退けられた。そして、明治五年五月二十四日、湊川神社が創建された。