『各務原市史 通史篇 近世・近代・現代』(322、323頁)には、自由民権運動と坪内家の関わりを示す資料(少林寺文書の中にある「本国・加州富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒」)が引かれている。
〈一 同十三庚申 旧二月廿六日 新四月五日、尾州愛国交親社ニ入社、其後美濃幹事長也、社員凡二千五百人ナリ、同十七甲申 旧二月三日 新二月廿九日 ヨリ本部尾州愛知郡名古屋社長庄林一正自由党ト喧嘩一件ニ付名古屋裁判所ニ呼出シ、後トケイ(徒刑)人ト成ル、又 旧閏五月廿七日 新七月十八日、名古屋警察署ヨリ廃止ニ相成候本社愛国交親社ヨリ 旧閏五月廿九日 新七月廿日 到着、尤即刻出ナリ、美濃国厚見郡加納町六町目[ママ]浄土宗西方寺ニ於テ取締所明治十四辛巳年 旧五月廿五日 新六月廿一日 初会日也、尤三日以前ニ御届済也、毎月届跡ニテ撃剣也、毎月新暦一日十一日ハ撃剣計リ也、是ハ初ニ届置申候テ一々不届也
同年 旧九月卅日 新十二月廿一日 迄ニテ、翌月ヨリ岐阜誓安寺エ転ズ、尤門前ニ大看板立ツ、愛国交親社ト書ス、□五尺五六寸 巾一尺二三寸位ナリ
同年 旧十月廿日 新十二月十五日ヨリ岐阜桜町 稲葉ナリ 壱番地浄土宗西山派誓安寺、俗ニ藤ノ寺ト云、今日ヨリ愛国交親社支店集会ノ始メ也、毎十五日跡ニテ剣術有之、毎月三日前ニ御届、表ニ高張大挑灯[ママ]交親社四半幟立、毎月五日廿五日ハ撃剣計リ、是ハ初ニ一度届置也
同十五壬午年 旧五月廿三日 新七月八日 端書ニテ岐阜警察署ヨリ村戸長ヨリ相違ス 旧五月廿九日付 新七月四日付 来ル六日午前第八時出頭之趣キ也、高国三州留守ニ付、帰邑後 旧五月廿三日 新七月八日 岐阜稲葉入口、北門警察署ニ出頭、柴田正直ニ面会、今般集会条例改正追加布告ニ付、条例ニ触ル廉往々有之候間、岐阜支社ノ儀、今明両日ノ中ニ解散取払可申上旨御受申上候也、前顕交親社之廃止ハ明治十七甲申年 旧閏五月廿日 新七月十二日 美濃組社中監督伊藤初治郎、東美濃ニ於テ暴動ノ叛デ在風聞、依テ新加納村交番所エ届、翌日名古屋エモ届ル、本社附東ミノニ魁首有之由右ニ付廃止ナリ、届ク捕縛ニ成ル、未ダ暴動ニハ不相成、併押カリ等アル由是本社ニ背キタル也〉