『日本人名大辞典』には、「天文7年生まれ。美濃(岐阜県)松倉城主。織田信長につかえ、美濃攻略の先鋒をつとめる。のち徳川家康のもとで関ケ原の戦いに功をたて、美濃羽栗・各務郡で6500石をあたえられ、旗本となった。慶長14年2月13日死去。72歳。通称は喜太郎」とある。一方、「戦国大名探究」には次のように書かれている。
「二男が利定で、信長に属して佐々木六角攻め、小谷城攻め、本願寺攻めなどに参陣して活躍している。さらに、利定は織田軍の鉄砲同心を率い、播磨国高倉城攻め、武田攻めのときには織田信忠に属して信濃高遠城攻めに配下を指揮して活躍、みずからも鉄砲をもって敵を討ち止めている。信長死後は豊臣秀吉に属したが、やがて秀吉と不和になり、長久手の戦に際しては森長可に属して出陣。この戦で長可が討死して森勢が退散するとき、追いかける家康軍に対して、馬上より鉄砲を討ち掛けて森勢の退却を援けた。
天正十八年(1590)、徳川家康に召されて、上総国山口村などに二千石を与えられて以後徳川氏に仕えた。慶長五年の上杉征伐には、男子四人も引き連れて従い、下野小山に至った。関ヶ原の戦には、鉄砲隊五十人をあづけられ、井伊直政に属して活躍した。戦後、加増を受けてすべて六千五百三十余石を領した。家督は嫡男の家定が継ぎ、子孫は大身旗本として存続した」
ここで、注目されるのが、利定と鉄砲の関係についてである。松田之利氏は「史料解説 旗本坪内氏の宗家と内分家」において、以下のように書いている。
「…坪内氏は、美濃三川の運輸に深いかかわりがあったと想像されるのである。その点で信長に属した喜太郎(利定)が鉄砲を駆使していたということが注目されるのである。
彼は永禄八年(一五六五)には信長から、天正九年(一五八一)には信忠(信長の嫡子)から「鉄砲にて鹿・鳥打候事」を許可する旨の判物を下付されているし、天正十年の武田勝頼との戦いでは、信州高遠の攻略に鉄砲隊を率いて参加したという(『各務原市史』以下ことわらない限り同市史による)。こうした事柄は、坪内氏が当時鉄砲の生産や流通の中心地であった堺と何らかの繋がりがあったこと、また根来や雑賀の鉄砲足軽を率いて活躍したということは、紀州と繋がりがあったということであるから、木曽川や長良川を通して、堺・紀伊半島・伊勢湾を結ぶ海上交通と結びついていたと想像してもおかしくない。そしてこうした坪内氏の交通の範囲と、当時の一向一揆のそれとほぼ重なっていたと考えられる。一向宗の門徒たちは、瀬戸内海の島々から大坂の本願寺、紀州(の根来や雑賀)から伊勢長島へ、そしてさらに河川を伝って内陸部と繋がりをもっていたことは周知の事実である。当然門徒には海川の運輸業者や商人・職人たちが多かったから、坪内氏はこうした人々と何らかの関係をもっていたものと推測される」