〈明治二年十二月、長州藩諸隊による「脱退騒動」と呼ばれる反乱事件が勃発した。反乱諸隊の中心は、元治元年禁門の変以来赫々たる武勲を建て、藩の内外に勇名を轟かせた奇兵・遊撃の二隊で、その首領は大楽源太郎、富永有隣等であつた。
直接的な原因は、兵部大輔大村益次郎によつて着手せられた諸隊解散を前提とする兵制改革に対する反感で、十一月、藩政府が諸隊に解散を命じ、新らたに常備軍四箇大隊の編成を布令した直後に爆発した。大楽直系の神代直人らによつて決行された明治二年九月の大村暗殺は、その前提だつたのである。しかし、その根本は新政府の変節的文明開化路線に対する長州尊攘派の総反撃にほかならなかつた。したがつて、その蹶起に当つては、単に藩兵制の改革に対する反対だけでなく、藩政全体に対する再維新の要求が強く主張されて居た。この意味に於ては、明治七年から十年にかけ全国的に続発した第二維新諸事件への先駆事件の一つであり、明治九年十月、前原一誠を中心として勃発した萩の変の前提でもあつた〉(『明治の尊攘派』)