幕末の久留米藩士として先駆けて水戸に遊学したのは、木村三郎だった。天保12(1841)年、彼は水戸に遊んで「南街塾」で学び、久留米に戻ると私塾「日新社」を開いて子弟の教育に当った。この木村と刎頸の交りがあったのが、真木和泉である。
真木は木村から『新論』を示され、正志斎の真価を聞くにおよび、水戸遊学への思いを募らせ、弘化元(1844)年7月に水戸に赴いた。 実は、真木に先立つ天保13(1842)年に水戸に学んだ久留米藩士がいた。それが、村上量弘(守太郎)である。木村、村上、真木の三人は天保学の三尊とも称せられていた。ところが、村上と真木は対立するに至り、嘉永5(1852)年には久留米の水戸学派は弾圧されるにいたる。いったいに何が起こったのか。
『久留米人物誌』の「村上量弘」の項を引く。
〈世子弥作君も村上・木村・真木から水戸学を学んだ。弘化元年六月、弥作君が十代藩主頼永となると、村上は納戸役格に進み、旧制調役を仰せ付けられ、藩祖豊氏以来の藩制規則をことごとく編集した。この書はそののち藩制の標準となった。頼永の信任に感激した村上は、納戸役の今井義敬(栄)ご侍読野崎平八(教景)と共に、常に君側にあって腹心として、事大小となく進言して補佐した。真木和泉守以下天保学の同志は、村上が君側に侍することに成ったのを大いに喜び、天保学の主義主張は、村上から直接に君公に進言され、藩政が改革されるに違いないと大いに期待していたが、一向に自分達の期待するような改革が現われなかった。これを村上に責めると、「野にあって自由に学問的に事を論議する時と、政庁にあって事を処理する場合とは、自らその間に相違がある。水戸学風は、かえって為政者にとって邪魔だ」と言うに及んで。その期待はずれはいつしか、真木・木村一派と溝が出来た。また余りにも君公の信頼が深いため、村上・野崎らに対して反感を抱く者も多くなった。村上はこれを憂え、自分故に君徳に禍することを恐れて、要職より退くことを願うに至った。慧敏な頼永もこの情勢を察知し、村上は御先手物頭格郡上奉行にし、野崎は江戸に行かせて、自分の身辺から遠ざけた。弘化三年六月、頼永の病状が重態となった時、郡奉行にあった村上は、主君の病気を心配して、真木・木村以下の天保学派の人々を自分の家に招き、主君の医師について色々と相談した。話が終わり、酒が出た。酒に酔った村上と野崎は主君万一の場合の継嗣について、ひそひそと私語した。寝たふりしてこれを耳にした真木は、この場合継嗣問題を口にするとは、不謹慎であり、けしからぬ事であると、憤がいした。真木は木村を自宅につれて帰り、「守太郎、平八は、今後事を共にする人物ではない」と語った。この日のこの事が、真木派と村上派との二派に分かれる決定的動機となった。これから村上派(野崎平八・今井栄・不破孫一ら)は内同志又は内連と呼ばれ、真木一派(木村三郎・水野丹後、稲次因幡・池尻茂左衛門ら)は外同志又は外連と呼ばれ、頼慶(頼咸)が十一代藩士になると、真木派は尊王攘夷を主張し、野にあって討慕運動に走り、村上一派は親幕開港を主張し、政府にあって富国強兵の進歩的政策を実施するに至り、両派激しく対立した。頼永没後、村上は弘化四年三月江戸に出て、四月に側物頭に転じ、参政に任ぜられて、藩政にたずさわった。嘉永三年(一八五〇)三月には「海防治標」を著し、軍艦建造・海軍強化を説いた。その六月十四日、江戸藩邸において、家老有馬飛騨(知一)と対談中の参政馬淵貢(直道)を、突然その背後より刺して失敗し、身は飛騨に取り押えられ、有馬主膳に刺殺された。何故にこの挙に出たか、その原因については区々の説があって一定していないが「久留米小史」には「頼咸公新ニ立チ、末ダ幾クバクナラズ。幕府ヨリ精君夫人婚嫁ノ議アリ。殿宇ノ新築、大礼ノ用途費ス所鉅万。国財殆ンド支へ難シ。参政馬淵直道、江戸藩邸ニ居リ、首トシテ其事ニ任ズ……………量弘大婚ノ命下ルヲ聞キ、深ク財用ノ給セズ。先公ノ遺法、或ハ壊レン事ヲ懼レ、日夜憂慮ス」とあり『久留米藩一夕譚』には「斯くては用途支へず、国計遂に窮乏を告げ、節倹の徳を変じて奢侈の風に流れ、先公(頼永公を言ふ)の遺志は是に於て断絶せりとて、深く馬淵を恨みたりし」とあってこの馬淵を憎悪する一念と、頼永危篤の折りに野崎と語り合った継嗣問題のことがからみ合って、精神が錯乱し、ついに刃傷沙汰になったろうと推定されている〉