篠原正一氏の『久留米人物誌』に基づいて、明治四年の久留米藩難事件の全貌に迫っていく。小河真文に続いて古松簡二の人物録を引く。
●筑波山挙兵に参加
〈古松簡二(清水真郷)
上妻郡(八女郡)溝口村の医師清水濳龍の次男、母は儒者今村竹堂の長女。初めは清水真郷と称し、文久三年三月脱藩上京して後に古松簡二と称した。名は淵臣、宇は子滋、蕉牕と号し、また紫隠・終隠等の別号がある。高橋嘉遯の塾「会補堂」に学ぶこと数年、その名声は郡中に高くなり、安政元年十月、米藩が俊秀の士二十名を選んで、藩校明善堂の居寮生とした時、それら藩士に伍して、田舎医の子すなわち庶民から唯一人、真郷が選ばれた。時に二十歳。当時、士庶の区分が厳しかった事もあり、間もなく辞して父の命により肥後の村井洞雲の塾に入って医を学んだ。つづいて友人樋口真幸と江戸に出て、安井息軒の塾に入り、三ヵ年経学を学んだ。文久二年、帰郷して兄濳庵(後ち寿老)と医業に従った。真郷はかねがね勤王の志を抱いてひそかに勤王有志と交を結んでいたが、天下いよいよ騒しく成ると座し居るに堪えず、文久三年三月、池尻岳等と脱藩上京し、国事に奔走した。水戸の武田耕雲斎の筑波山挙兵に参加して敗れ危地を脱しのがれ、九十九里浜の漁家に身をよせた。漁業に従うこと一年の後、京都に潜伏し、姓名を古松簡二と改めた。慶応二年徳川幕府が長州を討つ時、密かに長州に入ろうとして広島にて幕兵に捕えられ、三年間獄につながれた。明治元年、王政復古と共に赦されて京都に出た。時に大久保利通の大阪遷都論の出た折りで、古松はこれに反対し木戸孝允と激論し、大久保・木戸らの政府要人に不満を抱いて同二年に帰国した。米藩は古松を中小性格に登庸して藩校明善堂の教官に任用した。古松の講義は章句にとらわれず、気節を尚ぶべきを説き、その論は人の意表に出たが、生徒はすべて古松の気慨に心服した。政府要人に対する不満の心は政府転覆の思想にいつしか凝まり、小河真文と密議をなして、その計画をめぐらすに至った。〉
☞[続く]
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