昭和39年2月に刊行された岩井産業編『岩井百年史』に祖父川瀬徳男の名前が出て来る。第6章「岩井産業株式会社時代」「海外よりの引揚事情」の漢口支店を扱った部分だ。
〈戦時中の同支店の主要取扱商品は塗料、顔料、写真材料、紙類、セメント、金物類、繊維類、建築材料等の移輸入、米、穀類、食油類、油脂類、胡麻、豚毛、獣骨、茶、皮革類、麻等の移輸出等であったが、大戦末期には移輸出入は不可能となり、官納の米雑穀、皮革、食油、油脂類の集買が主たるものとなって、武漢周辺、湖北省、湖南方、九江などに出張員を出し、これに当っていた。移入品も殆んど官が輸送に当り、統制組合を通じての配給版売となっていたのである。また戦災による製材不足のため、官民の要望により漢口支店は製材工場の経営に当り、原材の収集より製材まで実施していた。
終戦当時、社員は遠く湖南省、朱河(長沙と衡陽の中間)、湖北省、天門、潜江及び九江等に蒐買のため出張しており、終戦後漢口へ集結した社員ならびに家族は一〇八名に及んだ。終戦後、中国側に日徳僑民管理処ができて在留民はここに集められ、居留民は夫々登録番号を貰い、「漢口市日徳僑民集中区日僑臂」と記された腕章をつけさせられたのである。
昭和二十一年五月、三井、三菱、日綿、昭和通商、児玉機関等十三社の支配人が抑留せられたが、当社漢口支店長高岡光男もその一人であった。すなわち国民政府軍事委員会より経済戦犯容疑で起訴せられ、その結果、同市所在の戦犯拘置所に拘置せられたのである。当時残留してこの援護に当った漢口支店の川瀬徳男は生活費も尽き果して、最後まで居残ることはできなかった。結局各社十三名の戦犯容疑は晴れ、昭和二十二年三月無罪の判決が下り、一年近い冤罪の拘置生活をあとに高岡支店長も同六月無事帰国するを得たのである〉