「後醍醐天皇はただちに京都に帰り、光厳天皇を廃して新しい政治を始めた。翌1334(建武元)年、年号を建武と改めたので、天皇のこの政治を建武の新政という。……天皇中心の新政策は、それまでの武士の社会につくられていた慣習を無視していたため、多くの武士の不満と抵抗を引きおこした。また、にわかづくりの政治機構と内部の複雑な人間的対立は政務の停滞や社会の混乱をまねいて、人びとの信頼を急速に失っていった。このような形勢をみて、ひそかに幕府の再建をめざしていた足利尊氏は、1935(建武2)年……新政権に反旗をひるがえした」
果たして、このような説明は妥当といえるだろうか。平泉澄先生は、『建武中興の本義』(至文堂、昭和九年)において、建武中興失敗の過程を論じた上で、次のように結論づけた。
「是に於いて建武中興失敗の原因は明瞭となつた。即ちそれは天下の人心多く義を忘れて利を求むるが故に、朝廷正義の御政にあきたらず、功利の奸雄足利高氏誘ふに利を以てするに及び、翕然としてその旗下に馳せ参じ、其等の逆徒滔々として天下に充満するに及び、中興の大業遂に失敗に終つたのである。こゝに我等は、この失敗の原因を、恐れ多くも朝廷の御失政、殊には後醍醐天皇の御失徳に帰し奉つた従来の俗流を、大地に一擲しなければならぬ。否、我等の先祖の、或は誘はれて足利につき、或は義を守りたにしても力乏しくして、遂に大業を翼賛し奉る能はざりしのみならず、却つて聖業を誹謗し奉る事六百年の長きに旦つた罪を懺悔し、陳謝し奉らねばならぬ。建武中興の歴史は、まことに懺悔の涙を以て読まるべきである。しかも懺悔の涙を以て読むといふを以て、単なる追想懐古と誤解することなかれ。建武の昔の問題は、実にまた昭和の今の問題である。見よ、義利の戦、今如何。歴史を無視して、己の由つて来る所を忘れ、精神的放浪の旅、往いて帰る所を知らず、國體を閑却し、大義に昧く、奸猾利を求め、倨傲利に驕る、これ何人であるか。滔々たる世の大勢に抗して正道を求め、真の日本人としで己の分をわきまへ、一意至尊を奉戴してその鴻恩に報い奉り、死して大義を守らんとする、果して何人であるか。問題はこゝに、六百年前の昔より、六百年後の今日に、急転直下し来る」
いま改めて建武中興失敗の原因を考え直す必要がある。そして、「天下の人心多く義を忘れて利を求むる」という言葉に照らして、明治維新の理想が貫徹されず、再び昭和維新運動が起こった理由、さらには今日に至るまでの保守派の堕落の理由についても考える必要があるのではないか。