崎門学継承に人生を捧げた岡次郎(彪邨)先生については、『次なる維新の原動力」『月刊日本』平成25年7月号)で以下のように書いた。
前列右が岡彪邨先生
〈内田先生とともに崎門学継承に人生を捧げたのが、岡次郎(彪邨)先生です。
岡先生は、元治元(一八六四)年六月十二日、肥前平戸の松浦侯の藩士岡直温の次男として生まれました。号の「彪邨」は、二十歳代までいた日宇村に因んだものです。
父が、楠本碩水の兄端山に学んでいたため、岡先生も端山・碩水に学ぶようになりました。『楠本碩水伝』を著した藤村禅は「彪邨の学問の態度は単に教養を積むことや博識を求めることではなく、どこまでも真剣に人間の魂の依據となるべきものを朱子学に求めんとしたのである。そのために心性の理を自得体認すべく自ら工夫を凝らしたのであった」と書いています。
明治二十二年に上京、川田甕江の門に入りましたが、間もなく荒尾精の日清貿易研究所に入るべく上海に赴き、やがて明治二十七、八年の戦役には通訳として従軍しています。
明治三十一年には海軍省に訳官として奉職しましたが、大正八、九年の頃退職し、早稲田大学の高等学院に聘せられて教授となりました。師碩水が亡くなったのは、これより先、大正五年十二月二十三日のことです。
碩水は生前にほとんど自著を刊行しませんでした。唯一、明治三十六年に詩文草を百部出版しただけでした。碩水は門弟の協力を得て、『崎門学脈系譜』と『日本道学淵源録』の校訂を重ねていましたが、その完成を後人に期待して、自ら出版しようとしなかったのです。
そこで、岡先生は昭和三年頃から、碩水の遺稿刊行を終身の事業と定め、内田先生の協力のもと作業を推進しました。昭和六年十一月、岡先生は碩水の子息、楠本正脩に宛てて、『道学淵源録』が計画通りに進まない状況を伝えた上で、次のように書いていました。
「去れど是は小生大に衣食を節約して、必ず其の目的を達成の積りに御座候、且つ此にて碩水先生に対する奉公は結了の次第に御座候間、結了すれば何時死んでも心置きなく安眠出来る次第に御座候」
『道学淵源録』はついに昭和九年七月に完成しました。『崎門学脈系譜』も、昭和十五年に東京晴心堂から発刊されました。さらに、『強斎先生雑話筆記』『強斎先生遺艸』『南狩録』『碩水先生遺書』『朱王合編』などを刊行しました。崎門の学風を鮮やかに描き、それをいまに伝える、若林強斎の廣木忠信を祭る文(本誌二月号)もまた、『強斎先生遺艸』の中に収められていたものです。
岡先生はこれらを自費で刊行し、有志の学者に頒布し、書物の代償を受けようともしませんでした。そして、碩水の遺著を悉く刊行し終えた後、昭和十五年五月六日、初めて自身の文集『彪邨文集』を刊行したのです。
平泉澄先生は、岡先生の努力によって崎門の重要文献が継承されたことは「感謝して止まぬ所である」とし、さらに「衣を縮め食を節して」この出版を成し遂げた苦労を思う度に「ほとんど涙なきを得ない」と書いているほどです〉
ここに平泉先生が『続々山河あり』に収めた「岡彪邨先生」を紹介しておきたい。
「早稲田高等学院に漢文を教授する事十九年、老を以て職を辞して後は、花を植ゑて自らたのしまれた。
その家は、当時渋谷区幡ヶ谷本町一丁目五十五番地、新宿から京王電車に乗つて、たしか幡ヶ谷本町で下り、右手に入つた所に在つた。粗末な家で、床も低く、失礼ながら陋巷ともいふべきであつたが、しかし屋敷の広さはかなりゆつたりとした感じであつたし、何よりも家一杯に積みかさねられた漢籍に、いふべからざる威厳があつた。
先生は此の家を名づけて虎文斎といはれた。虎文は彪邨のちなみによるものでもあらうか。そして数多くの書物を、自費で出版せられたが、その書目は、自雀録の末尾にあげてあるも
の、二十数部に上つてゐる。
碩水先生遺書十二巻 南狩録三巻 朱王合編四巻 日本道学淵源録八冊 強斎先生遺艸四巻 強斎先生雑話筆記十二巻 中臣祓講義二巻
等、その主なるものである。前にあげた強斎の廣木忠信を祭る文の如きも、遺艸の中に収めてあるもので、我々が之を読み得るのは、実に虎文斎出版のおかげであり、また、雑話筆記といひ、道学淵源録といひ、学者を益する事は甚大であつて、私共の感謝して止まぬ所である。
虎文斎出版の功績は、感謝してやまぬ所であるが、同時に私は之を思ふごとに、殆んど涙なきを得ないのである。考へても見るがよい、海軍軍令部に勤めたといつても、判任待遇である、俸給は何程の事もあるまい。早稲田に教鞭をとるといつても、高等学院の先生である、謝礼は知れたものであらう。即ち収人は漸く一家の生計を支へる程度でありながら、虎文斎は数多くの書物を出版するのである。すべては自費出版である。自費出版でも、売れゆきがよければ、支出する所を回収する事も出来やう。売れる気づかひは更に無いのである。いや、それを百も承知で、出版しただけは、有志の士に快く贈呈して、一銭も代価を受ける事を肯んじないのである。日本道学淵源録の跋は、昭和八年の暮に、先生の書かれたものであるが、それを見ると、先生が幼年の日より碩水先生につかへ、その教を受けた為に、その学恩に報じようとして、恩師の遺著を出版し、遺書、朱王合編、及び淵源録(以上を合せて二十四巻に上る。)を印行し、是に至つて恩師の遺著は全部世に出た事を述べ、さて次に、
「先生畢生貧に安んじたまふ。弟子其の書を公にせんと欲するに、富人の門を叩かば、則ち先生必ず之を喜びたまはじ。直養(岡先生の諱)因りて衣を縮め食を節し、わづかに以て之を成し、しばらく以て其の罪の万一を償はんと欲す。他日面目ありて、先生に九京(泉下と同義)に謁するを得ば、我が願足れり。」
衣を縮め食を節すといふ句、幡ヶ谷本町の寓居を知らずしては、誇張と疑ひ、修飾と看過しやすいであらう。先生にあつては、それは事実の直叙に過ぎないのである。虎文斎出版の書物を手にするごとに、私は胸の痛む思がし、今は報謝の途なき事を悲しむのである〉