「全体の調和」と「万物の連動」
アジア的価値観は、欧米の普遍的価値とも調和する。決してアジアにしか存在しない価値観ではない。キリスト教徒が多数を占める社会も含め、宗教が生活の中に生きていた時代には、ことさらにアジア的と名づけて意味のある独自の価値観は成立しなかったさえいえるだろう。ただし、アジア的価値観は、近代以降の欧米社会の根底にある価値観とは異なる部分が多い。
その中核にあるのは全体の調和、万物の連動である。そこからは、人間と自然、個と全体、精神と物質の関係についての独自の考え方が生まれる。万物の生命を重視する思想は、西洋近代の極端な人間中心主義を否定し、人間と自然、人間と動物の調和のとれた考え方をとる。行き過ぎた個人主義、責任を伴わない権利の主張は否定される。物質のみに価値を見出す思想も退けられる。
アジア的価値観に全体主義、精神主義への傾きを感ずるのは、大きな間違いである。アジア的価値観は、個人の自由を否定する全体主義に反対し、物質的な価値を否定する極端な精神主義にも反対する。つまり、民主主義とも生活スタイルの近代化とも調和する。むしろ、個人の自由に偏重したアメリカ型デモクラシーを補い、より普遍的な民主主義思想を構築する上でアジア的価値観は極めて有効である。
にもかかわらず、アジア的価値観は個人の自由を否定する独裁体制、権威主義体制を擁護するための方便に使われているに過ぎないといった誤った指摘が繰り返されてきた。
このような批判に反論する小倉和夫氏は、「新しいアジアの創造」(『VOICE』1999年3月号)で次のように指摘している。
「たとえば、人権や民主という基本的価値は西欧文明特有の価値ではない。中国における陽明学、韓国の東学党の思想、あるいは江戸の町人階級の考え方と行動のなかには、多分に今日の人権、民主といった価値が(言葉こそ違え)脈々と流れていたともいえるのである」
アジアには神道、仏教、儒教、道教、イスラーム、ヒンドゥー教をはじめ、全体の調和、万物の連動という宇宙の真理を把握する宗教的伝統が受け継がれてきた。そこには、より均衡のとれた民主思想を生み出すだけでなく、西洋近代思想の弊害を克服し、より普遍的な文明を築く力が備わっているのではなかろうか。