『本居宣長』を著した村岡典嗣は、大正十四年に「垂加神道の根本義と本居への関係」と題して次のように書いている。
「……文献学を離れて神道一途について見ると、本居のその方面の言説や思想や態度には、垂加神道と多少の類似や共通が認められる。まづその神道信仰の要素であった、神代伝説中の神々や神々の行動の記事に対する解釈を見ると、記紀その主としたところは異ったが、例へば造化神を人体神と見る事、二神の国生みをさながらに事実と見る事、天照大神を日神にして同時に皇祖神と見ること等、いづれも相同じい。而して、かくの如きは、概ね神典の記事に対する信仰的態度の自然の結果と考へられるが、而もその態度の源である神道信仰の宗教的情操そのものに於いて、両者頗る相通ずるものがある。本居は儒教神道を攻撃するとて、体ある神を尊み畏れないで、天を尊み畏れ、高天原を帝都で天でないとし、天照大神を太陽でないとし、神代の事をすべて寓言として説かうとし、又不思議の存在を知らないですべて理論を以て説かうとする類ひを、漢意として挙げて攻撃したが、これらはいづれも、新井白石等の史学派の神典解釈や、熊沢蕃山等の寓意的解釈や、更にまた多少とも惟足や延佳の説にも当るが、ひとり垂加神道の説に対しては、そのいづれも当らぬ。神を人体とし、高天原を一方に天上と解し、天照大神を太陽とし、神代紀の記事を事実と見、又不可思議の存在を認める等、いづれも宣長と同じく、垂加神道に見た所である。斯く考へてくると、垂加神道から、儒意即ち太極図説的哲学を除去したもの、やがて本居の神道であるとも考へ得る如くである」
村岡は以上のように述べ、さらに本居と垂加神道の歴史的関係について考察する。村岡が注目した事実は、本居の近親村田全次が浅見絅斎の門で垂加流の人であったこと、本居大平が記した彼の学統図のうちに、垂加が宣長学の源流の一つとして挙げられたことである。
村岡は、これらの事実を指摘した上で、本居が文献学的立場から垂加派を攻撃しつつ、その神道信仰の態度や情操において、不知不識のうちに垂加派に影響されたと考えることも、決して不可能でないと書いている。
ただし、村岡は一方で、本居神道と垂加神道はそれぞれ別個の本質において存在し、それぞれ独立の個性からの発展の結果として、同種の信仰内容に達したとの考えも書き添えている。