作田荘一─「産霊」の経済を唱えた皇道経済論の魁

以下は、『月刊日本』平成21年6月号に掲載された「作田荘一」(日本文明の先駆者)です。

修業で体得した「我も彼もない境地」
アメリカ流の金融資本主義の限界が指摘される中で、近代経済学の在り方自体を見直そうという気運が出てきている。その際、重要になるのが各民族の伝統思想を基盤にした経済学である。
戦前の我が国では、近代経済学の流入に抗い、皇道経済学、日本主義経済学を構築しようという試みがあった。
出口王仁三郎らの宗教的運動や民族派・維新派の運動の一環として皇道経済論が唱えられる一方、学界でも皇道経済学構築の動きがあったのである。学界における先駆的試みを代表するのが、今回取り上げる作田荘一の経済学である。
作田荘一は、明治十一年十月十一日、山口県佐波郡で生まれた。父親は神道に対する信仰が篤く、家には神棚が三つ設けられ、子供たちは毎夕灯明を上げるならわしがあった。また、作田は幼少期から、地元の大元宮によく参拝していたという(作田荘一『道を求めて』(道の言葉 第六巻)道の言葉刊行会、昭和三十八年、十五頁)。
高等小学校に入学すると、彼は心の悩みを懐き、初めて学校を休み、独り山中や河原で瞑想にふけった。これが、後日瞑想に打ち込む彼の修行の先駆けになったようである。その後、山口高等中学校、山口高等学校を経て、明治三十四年に東京帝国大学の前身、法科大学に入学する。明治三十八年に法科大学を卒業したが、就職に失敗し、郷里の三田尻に帰省した。そして、彼自身が振り返るところによれば、子供のときに時々参詣していた宮市天満宮と呼ばれる、菅公を祀る松崎神社で魂鎮めの行を続け、神秘的な体験をする。これが、作田の求道修行の入門となった。
結局、作田は就職せず、大学院に残ることにした。すでにこのとき、学問的関心は経済学に移っていたが、法律科出身だったため、経済学専攻の希望は叶わず、法律学科の中でも最も法律学らしくない国際公法を選択したという。指導教官は、日露主戦論を唱えた「七博士」の一人、寺尾亨教授だった。作田はときどき寺尾の自宅を訪れたが、法律論よりもアジア問題について聞いたことが面白く、有益だったと振り返っている(前掲書二十四~五十九頁)。
作田は、明治四十年春、逓信省の通信局規格課長、坂野鉄次郎の紹介で同省に入省したが、仕事に打ち込むことができず、まもなく転職を考えるようになる。そんなとき、彼はまたとない機会を得た。明治四十一年五月、東大教授の梅謙次郎の推挙を得て、清国・武昌の湖北法制学堂に経済学の教員として赴任することになったのである。法制学堂とは、官吏養成のために設けられた高等専門学校程度の新型学校である。
彼は、武昌の地で、行に没頭するにふさわしい環境を得た。冬の間、小高い建物の一室に篭れば、夜などは全く人声も聞こえないからである。彼は、ひたすら魂鎮めの行を続け、次のような特別な境地に到達したという。
「いつしか我が身体の存在も意識から消えて行く。身体の存在が影も形もなく消えて了えば、身体に即する『個体』も忘却され、我と彼とを区別する世間人の面が暫く影を隠くす」(前掲書九十八頁)
三年三カ月に及ぶ武昌滞在を経て、明治四十四年七月に日本に帰国、翌年二月に山口に戻り、山口高等商業学校の経済学担当教授に就いた。作田を推薦したのが、中学、高校、大学時代の同窓、河上肇であった。
山口時代に作田は東亜経済への関心を強めた。大正五年、山口高等商業学校に東亜経済研究会が設置され、紀要として『東亜経済研究』が刊行されるなど、活発な東亜経済研究が展開されるようになったからである。『東亜経済研究』には、後に建国大学教授となる中国・朝鮮史学の稲葉岩吉や満鉄調査課の天野元之助ら、錚々たるメンバーが論文を寄せていた。山口時代に作田が古事記や日本書紀などの古典を反復熟読していたことも見逃すことはできない。この熟読による変化を、彼は次のように振り返っている。
「それらの古典を読み返せば、その都度にその中に含蓄されて居る深遠なる意味がだんだんと通じ来たり、隠れたる奥の世界が次第にその幕を開けるかの観を覚えた」(前掲書百七十三頁)
こうして、彼は我が国独自の道の真髄を理解し始めたのである。彼は、「神の道」の道業の中で最も特徴的なものが、「神祭り」と「神参り」だと述べ、次のように書いている。
「『祭り事』が伸びて『政治』となり、『経済』の実務も農事を始めとして、あらゆる産業や商業にまでも神祭りの行事を伴わしめ、『文化』の諸方面にも広範なる感化・影響を与えて居る」(作田荘一『神の道』十三頁)

皇道経済学の樹立へ
作田は、日本の歴史は「神の道」を措いて全く了解し難いと確信するようになっていた。ここに、作田の皇道経済学の着想は生まれたのである。
作田の皇道経済学の根底には、歴史を異にする各民族は、それぞれ異なる存在と発展の理念を持つのが当然だという考え方がある。そこから、彼は「国民科学」、「邦国科学」の創設を志し、独自の経済学として皇道経済学を唱えた。遡れば武昌時代から、彼は日本独自の学問の樹立への野心を持っていた。湖北法制学堂で中国人に経済学の講義をしながら、そこに挙げる人物がケネー、スミス、リカード、ミル、リストといったヨーロッパ人の名前ばかりで、日本人の名が一つも挙げられないことを心苦しく、気恥ずかしく感じるようになっていた。しかも、中国人学生たちが、試験答案に「中国には古よりこれ有り」といった文句を頻繁に書いているのを見て、なおさら自分が西洋の学説の受け売りに甘んじ、日本として独自のものを何一つ教えられないことを歯がゆく感じていたのである(『道を求めて』八十五、八十六頁)。そして、作田は二宮尊徳や佐藤信淵らの先覚の唱えた経済観に、普遍的な価値があることに気づいていた。
一方、作田は山口時代に国家についての研究に着手、国家を重点とする国民経済に関心を強めていた。国民経済の発想から、彼は「神の道」に基づいた日本独自の学問体系としての皇道経済学確立に邁進していくのである。大正十年五月、作田は、京都帝国大学経済学部助教授に就いた。このとき作田を招聘したのも、河上肇であった。
河上の思想は変転したが、大正四年頃の講演「現の世より夢の国へ」においては、次のように皇道経済学に通ずる主張を展開していたことに注目しておきたい。
「……私ハ此ノ天下ノ生産力ヲ支配スル全権ヲバ、凡テ天皇陛下ニ帰シ奉ルコトニシタイト思フ。恰モ維新ノ際諸侯ガ封土ヲ皇室ニ奉還シタヤウニ、今日ノ経済界ニ於ケル諸侯ガ其ノ事業ヲ国家ニ奉還シテ、世俗ニ謂フ三菱王国ノ主人モ、三井王国ノ主人モ、其ノ他一切ノ事業家資本家ガ悉ク国家直属ノ官吏トナリ、カクテ吾々六千万ノ同胞ハ億兆心ヲ一ニシテ働ク、悉ク全力ヲ挙ゲテ国家社会ノ為ニ働ク、其代リ其レゾレ天分ニ応ジ必要ニ応ジテ国家ヨリ給与ヲ受ケテ、何人モ貧困線以上ノ生活程度ヲ維持スルト云フ、サウ云フ世ノ中ニシタイモノト私ハ切望シテオリマス」
牧野邦昭氏は、河上の思想に、右の講演に示されたような面があったことを考えると、河上がマルクス主義者になった後も最後まで作田らと親しかったことは不思議なことではないと主張し、さらに河上を「日本経済学」の源流とみなすこともできるとさえ書いている(牧野邦昭「開発経済学としての河上肇『貧乏物語』」京阪経済研究会、平成十五年六月十六日参考論文、十四頁)。
河上は、京都大学への作田招聘を決めたが、山口高等商業学校の校長は作田を手放そうとしなかったので、わざわざ山口まで出かけ、校長に直談判して、作田の招聘の許可を得た。作田と河上は信頼し合っていたのである。作田は、河上について「道を求める生涯においてどこか相通ずるものがあった」と述べ、さらに、純真の性格が世人の敬愛を集めたという点において、河上は吉田松陰、西郷南洲という二偉人と共通しているとまで高く評価している(作田荘一『時代の人 河上肇』開顕社、昭和二十四年、百八頁)。
さて、京都大学に移った作田は、皇道経済学の樹立を目指して研究を推進した。ところが、彼が「日本経済学」と言うと、そんなものがあるのかと、怪訝な顔をする人も少なくないという状況であった。そのため、京都大学時代には、ある程度自らの立場を抑制せざるを得なかったようである。
作田の皇道経済学樹立は、西洋近代の経済学を根底から見直すことでもあった。
彼は、「近代の社会経済の発展は自然的であり、国家はこれに対し支持助長策を行ったに過ぎない」とする見解は、近代国民経済の実相を見失っていると喝破し、昭和四年六月には、『自然経済と意志経済』を刊行、自らの考えを鮮明にした。ここでいう「自然経済」とは、世界的な景気変動のように、個々人または国民・国家の意志から離れて、独立的に変動する経済現象のことを指す。これに対して、個々人または国民・国家等がその意志を以て制御し得る経済のことを、作田は「意志経済」と呼んだ。そして彼は、近代国民経済に自然性が濃厚に現れていることを認めながらも、そこには意志性があると主張し、経済国策の必要性を説いた。注目すべきは、彼が「実践国策論は術であつて学でないと言つてこれを軽んじた父・ケインズの直後に、国策の為には理論を都合よく活用すると批評される子・ケインズが登場してゐることは、邦国経済道にとつては速度の早い進歩であらう」と書いていることである(『道を求めて』十五頁)。

「むすび」の道に則った経済
作田にとって我が民族の「存在と発展の理念」の基盤は、「神の道」に根ざした大和開化である。「大和」とは、全員が親和し、和合し、大和一体となって歓喜労働に励むことである。「開化」について、彼は「開発・生育・創造・昇化の階程」、「貧しい生活の間にも心の余裕を持たせ、かつ貧しい生活を克服し得る人生至上の生活道」と説明している。
すでに、彼は武昌時代に人生の帰趨は開化であることを確認し、経済生活の本領は人と土に対する開化の業であることに気づいたという。
彼は、西洋の経済学説が依拠する功利主義的人間観を否定しようとしたのである。後に彼は、功利主義の経済は、一時の栄華をもたらしても、やがて永久の没落をもたらすと指摘し、「創造主義の生活」こそが、永久に新しいものに進んでいくと説いた。そして、我が国民経済の道は、「むすび」の道を進み行くことだと主張したのである(「我が国民経済の特質」文部省教学局編『教学叢書 特輯第一篇』昭和十四年、百八十三、百八十四頁)。また、『経済生活に於ける創造者としての国家』(昭和十年三月)においては、次のように書いている。
「創造そのことを以て生活の宗旨となし、『むすび』の道を以て万事を統べ貫き、而も斯の道を行ふものが億兆心を一にする全体であることは、我等の古ながらの変りなき尊い伝統である。この伝統は今や現代的意義を帯びて国民経済に顕現し始めた。『むすび』の道に随ふとき、始めて労働神聖の意義が明らかとなり、その実現が保証される」
「むすび」、「開化」の哲学に基づいて、作田は「生産」、「消費」における日本の道を唱えた。彼は、「生産」とは心が自我の一部である物を造り出すことだとし、「消費」とはその物を摂取して心の一段の向上を来たすように心身の裡に消化させることだとした(作田荘一『経済の道』 弘文堂書房、昭和十六年、四百十二頁)。精神性を重視するこのような主張は、むしろ出口王仁三郎らの宗教系皇道経済論と通ずる部分が大きい。例えば、友清歓真の思想的影響を受け、『皇道経済論』を著した高橋輝正もまた、作田と同様、「人間は消費によって根源的生命と合体し、絶対者の意志を遂行し得る」と主張していた(高橋輝正『皇道経済論』奉天大坂屋號書店、昭和十七年、四十四、四十五頁)。
作田の主張には、物質と精神とを一体のものとしてとらえる皇道思想がはっきりと示されていたのである。
彼は、昭和五年に前出の『自然経済と意志経済』で経済学博士号を取得した。後に笠木良明とともに大雄峰会を設立する中野琥逸が、大正十五年六月に結成した京都大学猶興学会は、『自然経済と意志経済』を研究会のテキストとして使用することを決めていた(『国家主義運動 二』みすず書房)。
作田は、昭和五年十一月には教授に昇格、昭和六年十一月には経済学部長に就いた。時代は、作田の経済学を必要としていたのである。

満州建国大学での実践
昭和七年八月、文部省は、国立大学、特に文科系が西洋思想のヒューマニズムの思想に傾き、我が国独自の思想を阻害する傾向が強まることを憂慮し、国民精神文化研究所(精研)を設立した。研究所設立と同時に、作田は粟屋謙文部次官から経済学担当の研究員を兼務するよう依頼される。
我が国独自の思想の復興を志向していた作田が精研研究員に任命されたのは、必然でもあった。彼は後に、帝国大学の前身の一つで、洋書研究のために設けられた蕃書取調所に関して、「『蕃書』が『原書』に変化し、『取調べ』が『拝読』に移行して、だんだんと我が道統を阻害する学風を生じ」たと批判している。
また、彼は明治十九年に帝国大学が発足した年、明治天皇が大学を行幸され、親しくその施設を視察された直後に、唯一の国立最高学府の教学が我が国の道統を研鑚し教授する何の施設をも備えて居ないことを認められ、元田侍講を召されて、大学の在り方について下問されたことに言及した上で、「帝国大学の教学方針は少しも改まらず、寧ろ意識的に無意識的に、いやましに『人の道』(ヒューマニズム)を主とする教学に向って進んだ」と書いている(『道を求めて』二百一、二百二頁)。
作田は、昭和十二年五月には満州建国大学の創立委員を委嘱され、大学創立後には副総長に就いた。宮沢恵理子氏が指摘する通り、建国精神を基礎とした学問体系の構築、知行合一の実践教育を目指す点で、精研の教育精神は建国大学に引き継がれていた。人的にも精研の主要メンバーだった作田のほか、筧克彦、平泉澄、西晋一郎が建国大学東京創立事務所委員に就いていた(宮沢恵理子『建国大学と民族協和』風間書房、平成九年五十七~五十九頁)。
京都大学で、ある種の抑制を強いられた作田にとって、建国大学は自らの学問的理想を実践する新天地にほかならなかった。
実は、この時代になって、日本の学界でも皇道経済学への関心が強まりつつあった。昭和十三年十月には、日本諸学振興委員会第一回経済学会が開催されるなど、日本経済学構築の動きが見られた。例えば、東京帝国大学経済学部教授の土方成美は、それぞれの「分限」を重視する独自の皇道経済学構築に邁進し、昭和十三年十一月には、『日本経済学への道』を刊行していた。
作田は、こうした国内の皇道経済学の台頭を横目でみながら、満州国で理想の実践を急いだ。彼は、京大経済学部出身の筒井清彦、向井章、黒松巌、石田興平、同大文学部出身の丹羽正義、宮川善造、重松信弘らを次々に建国大学に呼び寄せた。
彼は、昭和十三年五月から翌十四年二月まで、十五回に亘り「精神講話」を担当、創造開化をはじめ、彼の皇道経済学を特徴づける理論を教授した。さらに彼は、我が国の「神の道」と中国思想の「天の道」とを合流させて、「満州国学」の確立を目指したのである。「満州国学」の確立のために彼が設立を主導したのが、建国大学研究院である。その創設趣意書には、「大和民族ノ文化ヲ核心トシ諸民族ノ文化ヲ統合シテ建国精神ニ基ク新タナル文化ノ創造ヲ期ス」と謳われていた。
満州国において、五族(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人)の協和は、理想通りには進まなかったが、作田ら建国大学の指導者たちは、その理想を目指して奮闘していたのではなかろうか。例えば、建国大学では、日本人学生側の自発的処置により、政府から民族別に配給される米と高粱とを合わせて全員均等に用意し、民族間の融和に大きな効果を発揮していたとされる。
作田は、建国大学の学生の思想の自由に関しても寛容だった。だが、結局彼は副総長辞任を余儀なくされるのである。昭和十七年三月二日、反満抗日活動を展開していた漢族学生らが講義を受けていたところ、関東軍憲兵隊に逮捕され、司令部の地下拘置所に連行されたのである。このとき、作田は学生たちを守ろうと必死で動いた。建国大学で作田の指導を受け、戦後、神戸大学教授などを務めた百々和氏は、次のように回想している。
「建国人学の学生が続々と検挙される中で、先生は憲兵隊を訪れ、また関東軍司令官に対しても、『彼等は国士である。彼等に罪があるとすれば、それは私の罪である』と言って、釈放を迫られたそうである」(百々和『旅の随想』文芸社、平成十九年、九十六頁)

五大宗旨の合流から「一本の大道」へ
結局、作田は責任をとる形で副総長を辞任した。満州国から帰国した彼は、言論報国会などで活動を続け、終戦の日を迎えた。戦後、追放処分となり、社会の一線から身を引いた。追放解除後には、友人の別所孝太郎が学長を務める近江短期大学や、滋賀大学などで教鞭をとったものの、戦前のような華々しい活躍をすることはなかった。それでも、彼は自らの信ずる経済学の構築と独自の神道思想に基づいた国際秩序改造論を唱え続けたのである。
昭和三十年には、『綜合文化』に「日本経済を導くもの 上・下」を発表した。その主張は、次のように戦前からの一貫性を保っていた。
「所有欲・幸福欲に固まって、生産の為の労働を目して一概に苦痛と片づけ、手段と決めて、その苦痛を嘗める代償としての享楽を目的と見るやうな、西洋近代の経済学説は、それこそ陰惨な思想であつて、歓喜労働を旨とするわが道統に背反する」(「日本経済を導くもの 下」二十九頁)
彼は日本のためだけに、皇道経済学樹立の意志を維持し続けたのではない。それが、人類全体の文明発展に寄与すると信じていたのである。西洋近代から学ぶべき部分を学びつつも、日本の「神の道」を普遍的思想として発展させ、世界の思想の流れを変えていくことが作田の目標だったように見える。彼は西洋近代文明を世界開化とは断じて見做さなかったのである。
作田は、世界の宗教、思想を五大宗旨に分類していた。我が国に起こり伝わる「神の道」、中国に起こり伝わる「天の道」(儒教と道教)、インドに起こり伝わる「覚の道」(バラモン教、仏教、ヒンドゥー教)、西アジアに起こり伝わる「救の道」(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)、ヨーロッパに起こり伝わる「人の道」(ヒューマニズム)である。
終戦によって、興亜論の視点からの西洋近代超克の試みは頓挫し、日本の言論は一変した。作田はアメリカによる対日占領政策を、「人の道」の指針による「神の道」の封じ込めだと見ていた。戦後憲法や教育法は、「極めて肝要なる祖国魂を漸次に阻却して行く方向を執って居る」とも指摘していた(作田荘一『祖国開化の道』六百十七頁)。一方、彼は中国共産党政権の誕生を、「天の道」の放棄、「人の道」への降伏ととらえた。彼にとって、「神の道」による「人の道」の克服が差し迫った課題だったのである。
彼は、我が国の「神の道」を中軸・中位に置き、「天の道」と「人の道」とを上下に、「覚の道」たる仏の道と「救の道」たるキリストの道とを左右に配置して諸道を合流させ、その合流点から「一本の大道」を開いていくべきだと主張した(『道を求めて』三百二十二頁)。それが本当の世界開化の道であり、それを開くための標語こそが八紘為宇だと説いた。
作田の思想は、昭和三十八年に「道の言葉刊行会」によって、『道の言葉』(全六巻)にまとめられた。その十年後の昭和四十八年二月九日、作田は九十五歳で死去した。彼の経済学の価値が再評価されるようになったのは、昭和五十七年に、多田顕氏が「作田の学問・思想は、日本の経済学界において、また思想界において、忘却されてはならず、誰かが一日も早くその後を受け継ぎ発展させて行かねばならぬ」(「作田荘一の経済理論研究(序説)」『経済論集』昭和五十七年九月、六十五頁)と書いてからである。
近年では、中尾訓生氏の『日本戦時思想の研究』や上久保敏氏の『日本の経済学を築いた五十人』が作田の経済学を正面から扱っている。昭和十年代の皇道経済学には、戦時の要請によって統制色が色濃く表れていた。しかし、本来の皇道経済学の発想は作田のいう「開化」や「むすび」に基づくものであり、必ずしも統制経済を目指すものではなかった。近代経済学の混迷が深まる中で、いまこそ私たちは作田らの先駆者の意志を引き継いで、世界に通用する皇道経済学の確立を目指すときなのではなかろうか。

坪内隆彦