里見岸雄は『国体論史 上』において、近世の国体論を通観して次のように書いている。
「……江戸時代の国体論は、必ずしもひとり国学派にその発達の頂点を見るべきものではない。それは大体、江戸時代前期に於ける御用儒学中心の国体論、中期に於ける国学の拾頭、後期に於ける水戸学的実践と次第したものと思ふが、国学派と水戸学派とは、学問的方法論に於て対立し、或る意味では氷炭相容れざるが如き論難攻撃をすら相互に応酬したが、そして、水戸学の採用した儒教的方法が、国学派から曰はせれば、不純なものであり未だ真乎国体に徹せざるものとして斥けられはしたが、然かもその水戸学から、大義名分王覇の峻別は絶叫し出され、封建社会の矛盾の激化と伴うて革新的、戦闘的、実践的国体論が指頭し来り、幕末に到っては更に国際的新情勢の附加に伴ふ攘夷論と結びついて、つひに、国体論は、観念的信仰的陶酔、机上的書斎的学問から一躍、政治的、実践的性格を獲得して、維新の精神的推進力となったのである。
内なる天皇親政への革新、外なる矛盾撃滅たる攘夷といふ二大目標の下に戦ひとられた実践的国体論こそは、かの純粋を呼号しつヽも専ら粛壇的態度に限定し、本居宣長の如く表面飽く迄徳川幕府に追蹤阿附して妥協的態度に陥つてゐた国学派の異端視した神儒一致的水戸学派によつて、勇敢にそして決定的に導き出されたものである。ここに水戸学派の持つ極めて大きな意義が存するのであつて、近世国体論の実践的頂点を成せるものと日はざるを得ない。
惟ふに、近世国体論に於て一方には国学派によつて示された一つの頂点と、他方には水戸学派によつて示された一つの頂点とは、その各々が更に掘りさげられ近代化せられ、而してその上で両者の綜合せられるところにこそ、次代以後の国体論の大成的にあるべき姿でなければなるまい」(221~222頁)