「最後のアメリカ軍機がわが領空から飛び去り、最後のアメリカ戦闘艦がわが水平線から姿を消す情景は、われわれを大いに奮い立たせるだろう。自らの運命を自らの手にする時がついにくるのだ」
ウィグベルトの父で、一貫して在比米軍基地撤去のための運動を続けてきたロレンゾ・タニャーダ(以下、L・タニャーダ)元上院議員は、93歳という高齢で透析を受けていたが、「透析などいつでもできる。私はこの歴史的瞬間に立ち会いたいのだ」と、妻の反対を押し切って、車椅子で議場に現われた。
こうして、フィリピンのスービック基地とクラーク基地から米軍は撤退した。対米追従派が強調しているように、その後中国はスプラトリー諸島(南沙諸島)など、この地域でのアメリカのプレゼンスの後退を埋める形で、そのプレゼンスを拡大したかに見える。しかし、在日米軍基地があるにもかかわらず、尖閣諸島問題は起きた。
いずれにしろ、民族自決を尊重する立場に立てば、在比米軍基地をそのまま置いておいた方がよかったとは言えない。
ここで、フィリピンの民族自決・対米自立を一貫して主張したL・タニャーダの歩みを振り返っておきたい。
彼は、早くも1940年代末から対米従属を批判してきたナショナリストのクラロ・M・レクトらの主張を引き継ぎ、1950年代から民族自決を主張してきた。
マルコス政権下の1983年7月、L・タニャーダに率いられた正義・自由・民主主義のための民族主義者同盟(NAJFD)が結成され、1983年末には在比米軍基地撤去を主張する多数の民族主義者グループを結集して、活発な運動を展開した。
そして1984年11月にコラソン・アキノ、ハイメ・オンピン、L・タニャーダを主要な指導者として結成された「盟約グループ」(CG)の政策綱領には、在比米軍基地撤去が盛り込まれたのである。
アメリカに見限られたマルコス政権は1986年に崩壊、コラソン・アキノ政権が出来ると、L・タニャーダの息子W・タニャーダらが在比米軍基地撤去に向けた運動を推進し、1991年の在比米軍基地撤去を勝ち取った。