肇国の理想は神武創業の詔勅に示されている。『日本書紀』は次のように伝える。
「我東(あずま)を征ちしより茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威を頼(かゝぶ)りて、凶(あだ)徒(ども)就戮されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ清らず、余(のこりの)妖(わざはひ)、尚梗(あれ)たりと雖も、中洲之地(なかつくに)(大和地方=引用者)復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都を恢(ひろめ)廓(ひら)き、大壮(みあらか)を規摸(はかりつく)るべし。而るに、今運(とき)此の屯蒙(わかくくらき)に属(あひ)て、民(おほみたから)の心朴素(すなお)なり。巣に棲み穴に住み習俗(しわざ)惟常となれり。夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。苟も民に利(さち)有らば、何にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且当に山林を披(ひらき)払ひ、宮室を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮め、上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし德(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(ただしき)を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為むこと、亦可からず乎。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か、可治之(みやこつくるべし)」
この詔勅の重要性を、民族派指導者の中村武彦は三つの観点に整理し、以下のように書いている。
「第一に民生本位の原則、日本的民主主義とでもいおうか。国政の運営、制度の改廃が、民の利福を主として大胆になさるべきであり、時の変化にしたがい維新が行われなければならぬという闊達な民本思想の表明である。
第二に国家統治の基本原理は、もっぱら祖宗の遺訓を奉じ、天業を弘めるにある。もろもろの神勅や神器にこもる、神秘なる御教訓のすべてを綜合して『授国之徳』『養正之心』を奉じ、地上に神ながらの道義国家を建設して行こうとされるのである。ここに国民のことを『元元』と記し『おほみたから』と読ませることにも、注目を要する。
そして第三に堂々たる八紘為宇(はっこういう)の宣言である。まず神意が日本の国に実現したならば、『然る後に』進んで国の外に向っても、この真理と正義を広め、人類を友とし、家族としなければならぬ。四海同胞、世界一家。侵略でも何でもない世界平和の宣言である」(『現代維新の原点』古神道仙法教庁、昭和五十一年、百十頁)
『維新と興亜に駆けた日本人』には、この肇国の理想を体現した人物の列伝を収録。