書籍
著者 | 書籍写真 | 書名 | 出版社 | 出版年 | 備考 |
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岩本真一 | 超克の思想 | 水声社 | 2008年12月 | ||
子安宣邦 | 「近代の超克」とは何か | 青土社 | 2008年5月 | ||
廣松渉 | 廣松渉著作集 第14巻(近代の超克) | 岩波書店 | 1997年 | ||
矢野暢 | 近代の超克 : 世紀末日本の「明日」を問う | 光文社 | 1994年 | ||
福田和也 | 「内なる近代」の超克―日本人として、如何に自らを語るのか | PHP研究所 | 1993年 | ||
花田清輝 | 近代の超克 | 講談社 | 1993年 | ||
難波田春夫著、経済学研究会編 | 近代の超克 | 行人社 | 1992年 | ||
廣松渉 | 「近代の超克」論 : 昭和思想史への一視角 | 講談社 | 1989年 | ||
竹内好 | 近代の超克 | 筑摩書房 | 1983年 | ||
廣松渉 | 「近代の超克」論 : 昭和思想史への一断想 | 朝日出版社 | 1980年 | ||
河上徹太郎他著 | 近代の超克 | 冨山房 | 1979年 | ||
花田清輝 | 近代の超克 ; もう一つの修羅 (花田清輝著作集 / 花田清輝著 ; 4) | 未来社 | 1964年 | ||
河上徹太郎他著、知的協力会議編 | 近代の超克 | 創元社 | 1943年 |
雑誌
著者 | タイトル | 雑誌名 | 巻・号 | 発行日 |
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桶谷 秀昭 | 思想と思想者─回想の人々(第1回)近代の超克 | 『澪標』 | 6(3) (通号 59) | 2009.秋 |
代田 智明 | 竹内好『近代とは何か』『近代の超克』再読 | 『中国研究月報』 | 63(7) (通号 737) | 2009.7 |
遠藤 浩一、櫻井 よしこ、田久保 忠衛 他 | 8人ラスト大座談会 諸君!これだけは言っておく─気鋭の論客が一堂に会して繰り広げる平成版「近代の超克」、火花散る五時間半の大激論! | 『諸君!』 | 41(6) | 2009.6 |
田中 貴子 | 近代知識人の見た〈中世〉(17)「近代の超克」と実朝への道 | 『一冊の本』 | 14(5) (通号 158) | 2009.5 |
保阪 正康 | ナショナリズムの昭和(第41回)「近代の超克」が問うた「大東亜戦争」 | 『諸君!』 | 41(4) | 2009.4 |
菅原 潤 | 保田与重郎と三木清におけるロマン主義─「近代の超克」再考(その5) | 『長崎大学総合環境研究』 | 11(2) | 2009.3 |
丸川 哲史 | 竹内好「近代の超克」論、あるいは第三世界の主権(談話) (特集 田母神論文の批判的考察) | 『情況 第三期』 | 10(2) (通号 81) | 2009.3 |
梅森 直之 | 書評 『「近代の超克」とは何か』(子安宣邦著) | 『社会思想史研究』 | 33 | 2009 |
Cardonnel Sylvain | Nishida avec Numa: le Japon et les demons de la modernite (1/4) | 『国際文化研究』 | 13 | 2009 |
神山 睦美 | 小林秀雄と「近代の超克」─太平洋戦争下の文学思想状況とその意義 | 『アジア太平洋レビュー』 | 6 | 2009 |
田中 等 | 「近代の超克」を超克せよ!─〈東/西〉二項図式へのグリンプス (特集 猪飼野どまりの生涯を知るまい。) | 『リプレーザ』 | 5 | 2008.Win. |
山田 祐一郎 | 近代の超克とは何か (特集 会津研究報告会) | 『澪標』 | 5(7・8) (通号 54・55) | 2008.10・11 |
岩田 温 | もうひとつの『近代の超克』論─H・ハルトゥーニアン『近代による超克』の衝撃 | 『新日本学』 | 9 | 2008.夏 |
菅原 潤 | 中島栄次郎と保田与重郎の「不安」─「近代の超克」再考(その4) | 『長崎大学総合環境研究』 | 11(1) | 2008.9 |
松本 健一、中島 岳志 | 中国とインドは「近代の超克」の轍を踏むか 対談 (ナショナリズムの近代に学ぶ) | 『中央公論』 | 123(9) (通号 1493) | 2008.9 |
子安 宣邦 | 中公読書室 著者に聞く 子安宣邦『「近代の超克」とは何か』 | 『中央公論』 | 123(8) (通号 1492) | 2008.8 |
岩田 温 | 『近代の超克』はいかに読まれてきたのか | 『新日本学』 | 8 | 2008.春 |
染谷 武彦 | 書評 小林敏明『廣松渉─近代の超克』 | 『情況 第三期』 | 9(2) (通号 71) | 2008.3・4 |
菅原 潤 | 亀井勝一郎におけるニヒリズム─「近代の超克」再考(その3) | 『長崎大学総合環境研究』 | 10(2) | 2008.3 |
子安 宣邦 | 近代の超克(最終回)アジアによる超克とは何か─「方法としてのアジア」をめぐって | 『現代思想』 | 36(3) | 2008.3 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第11回)アジア主義という近代日本の対抗軸─日本近代史と戦争の二重性 | 『現代思想』 | 36(2) | 2008.2 |
キム テギョン | 『旅愁』試論─「近代の超克」としての建築 (特輯 横光利一) | 『比較文學研究』 | (通号 92) | 2008.11 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第10回)「近代の超克」と戦争の二重性─竹内好と「永久戦争」の理念 | 『現代思想』 | 36(1) | 2008.1 |
阿部 守利 | 近代の超克─バイオライフタウン構想の実践 | 『社学研論集』 | 12 | 2008 |
前田 雅司 | 近代の超克とポスト・モダンのパラドックス | 『年報人間科学』 | (29) (分冊2) | 2008 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第9回)ドレイ論的日本近代批判─竹内好と二つの魯迅 | 『現代思想』 | 35(16) | 2007.12 |
小林 敏明 | 「近代の超克」とは何か─竹内好と丸山眞男の場合 (「日本論」への視角) | 『Ratio』 | 4 | 2007.11 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第8回)たとえ戦争が無償に終わっても─保田與重郎の戦時と戦後 | 『現代思想』 | 35(14) | 2007.11 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第6回)東亜と「日本的平和(パックス・ニッポニカ)」の構想─帝国の冀求は東亜永遠の安定にあり | 『現代思想』 | 35(11) | 2007.9 |
菅原 潤 | 「世界史的立場と日本」との対比─「近代の超克」再考(その1) | 『長崎大学総合環境研究』 | 9(2) | 2007.9 |
菅原 潤 | 超克論の原点としての生田長江─「近代の超克」再考(その2) | 『長崎大学総合環境研究』 | 特別号 | 2007.8 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第5回)詩は世界秩序を変革する─日本浪漫派と文学的叛乱 | 『現代思想』 | 35(10) | 2007.8 |
小林 敏明 | 干渉する影『廣松渉─近代の超克』によせて | 『本』 | 32(7) (通号 372) | 2007.7 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第4回)「世界史の哲学」の時─座談会 世界史的立場と日本 | 『現代思想』 | 35(8) | 2007.7 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第3回)事変の現実と理論との間─座談会 大陸政策十年の検討 | 『現代思想』 | 35(7) | 2007.6 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第2回)なぜ「近代」とその超克なのか─「近代の超克」と三つの座談会 | 『現代思想』 | 35(6) | 2007.5 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第1回)「近代の超克」論の序章─昭和イデオロギー批判 | 『現代思想』 | 35(5) | 2007.4 |
田村 伊知朗 | 近代の超克に関する理論的考察─知的協力会議編『近代の超克』(創元社、1943年)の近代思想史的位置づけを媒介にして | 『人文論究』 | 76 | 2007.3 |
位田 将司 | 横光利一「純粋小説論」と「近代の超克」─「第四人称」という「戦争」 (特集 横光利一と〈戦争〉) | 『横光利一研究』 | 5 | 2007.3 |
子安 宣邦 | 近代の超克(第7回)宣戦になぜかくも感動したのか─「支那事変」と「大東亜戦争」との間 | 『現代思想』 | 35(12) | 2007.1 |
阿部 守利 | 近代の超克─インド社会から見えるもの | 『社学研論集』 | 10 | 2007 |
島田 智子 | 歴史家としての鈴木成高─戦後の著作における「近代」の「超克」 | 『関西大学西洋史論叢』 | 9 | 2006 |
竹内 裕 | 近代の超克とヘブライ思想─他者在りゆえにわれ在り (アニマへの根源的アプローチの諸相) | 『UTCP研究論集』 | 4 | 2006 |
宮本 久雄 | 石牟礼文学と近代の超克─アニマのくにをめぐって (石牟礼文学から始める) | 『UTCP研究論集』 | 4 | 2006 |
序文 たましい(魂・anima)への旅─天草プレアニミズムと近代の超克・石牟礼文学から始める | 『UTCP研究論集』 | 4 | 2006 | |
佐藤 圭一 | ヴェーバーとシュミット─近代の超克(上) | 『国学院大学栃木短期大学紀要』 | 40 | 2005年度 |
古田 博司 | 東アジアの近代の超克 (シンポジウム 東アジアをいま再考すること) | 『中国』 | 20 | 2005.6 |
荒 岱介、いいだ もも、古賀 暹 | 近代の超克とマルクス主義─『近代の超克論者 廣松渉理解』をめぐって | 『情況 第三期』 | 6(3) (通号 50) | 2005.4 |
荒 岱介 | 廣松渉没後10周年 近代の超克は今こそ必要な問題意識だ (特集 大政翼賛の社会はイヤだ) | 『理戦』 | (通号 77) | 2004.Sum. |
情況 | 特集 近代の超克─アジア主義 | 『第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
丸川 哲史、米谷 匡史 | アジア主義、「近代の超克」論、そして脱冷戦─尾崎秀実と竹内好 | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
宇波 彰 | 現代思想から見る廣松渉の哲学 (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
星野 智 | 「東亜の新体制」と東アジア共同体─廣松渉の東北アジア論 (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
山本 耕一 | 二つの≪近代の超克≫論─廣松渉と京都学派 (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
古賀 暹 | 日本ナショナリズム批判序説(3)京都学派および西田幾多郎への廣松渉の視座─「東亜新体制」論が投げかけるもの (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
荒 岱介 | 東北アジアを歴史の主役に─近代の超克論者として廣松を読み返す (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
仲正 昌樹 | 戦後左翼にとっての「アメリカ」 (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
大越 愛子、中原 道子、井桁 碧 | 戦後思想をジェンダーと一国主義を超えた視点から問い直す (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
孫 歌、陳 光興、阿部 幹雄 訳 | 文化「間」実践の可能性(上) (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
緒形 康 | 書かれなかった「近代の超克」 (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
花森 重行 | 歴史に抗する”歴史”へ─堀田善衞における上海体験と「第三世界」 (特集 近代の超克─アジア主義) | 『情況 第三期』 | 5(8) (通号 43) | 2004.8・9 |
キム ハン | いまここの、あるいは、すでに過ぎ去った近代─廣松渉著『近代の超克論』(民音社)の訳者後記 (特集 哲学者としての廣松渉─その出発点) | 『情況 第三期』 | 5(6) (通号 41) | 2004.6 |
福田 和也 | 近代の超克について (特集:柄谷行人の哲学・トランスクリティーク) ─ (批判吟味の諸相2─近代文学の終わり) | 『國文學 : 解釈と教材の研究』 | 49(1) (通号 706) | 2004.1 |
木村 友彦 | 『旅愁』と<近代の超克>─近代超克の原理 | 『横光利一研究』 | 2 | 2004.02 |
山本 耕一 | 「近代の超克」が遺したもの─高山岩男『哲学的人間学』をよむ (特集 戦後日本の思想を通してみる現代) ─ (戦後への架橋) | 『アソシエ』 | 12 | 2004 |
山本 直人 | 戦時期龜井勝一郎の宗教的思索─『親鸞』と自力の超克 | 『東洋学研究』 | (通号 41) | 2004 |
佐藤 泉 | 外国文学研究者の「近代の超克」─河上徹太郎の西欧/竹内好の中国 (特集 「一九四〇年代文学」は可能か) | 『日本文学』 | 52(11) | 2003.11 |
佐藤 正則 | セルゲイ・ブルガーコフにおける近代の超克とマルクス評価 | 『ロシア史研究』 | 72 | 2003 |
山口 直樹 | 紹介 小野清美『テクノクラートの世界とナチズム─「近代の超克」のユートピア』 | 『科学史研究』 | 41(224) | 2002.冬 |
高杉 公望 | 「近代の超克」とポスト・モダン─廣松渉『〈近代の超克〉論』をめぐるメモ (特集 今、なぜ廣松思想なのか(1)廣松哲学と現代思想) | 『情況 第三期』 | 3(6) (通号 20) | 2002.7 |
木村 友彦 | 神保光太郎─<詩>/<近代>の<超克>への視線 (特集=日本浪曼派とその周辺) ─ (日本浪曼派の人々とその周辺) | 『国文学 : 解釈と鑑賞』 | 67(5) | 2002.5 |
桶谷 秀昭、松本 健一 | 真珠湾奇襲!「暗雲が晴れてスキッとした気がした」 あの「解放感」は何だったのか─泥沼化した支那事変を打開した十二月八日を巡る知識人の発言は「近代の超克」に始まる | 『諸君!』 | 34(1) | 2002.1 |
いいだ もも | <近代の超克>ふたたび(3)河上徹太郎「結語」と三好達治・高村光太郎の「詩的精神」 | 『情況 第三期』 | 2(4) (通号 8) | 2001.5 |
情況 | 第二特集 近代の超克を考える | 『第三期』 | 2(3) (通号 7) | 2001.4 |
今井 弘道 | 現代における政治の脱国家化と〈近代の超克〉 (第二特集 近代の超克を考える) | 『情況 第三期』 | 2(3) (通号 7) | 2001.4 |
いいだ もも | <近代の超克>ふたたび(2)京都学派ならびに不参加の国粋右翼の場合 | 『情況 第三期』 | 2(2) (通号 6) | 2001.03 |
川勝 平太 | 歴史の交差点(298)「近代の超克」の弁証法 | 『週刊ダイヤモンド』 | 88(4) (通号 3818) | 2000.01.29 |
Augustin Berque、有馬 善一 訳 | 特別寄稿 通態的理性と近代の超克 | 『現象学年報』 | (通号 16) | 2000 |
Augustin Berque、廣瀬 覚 訳 | 風景と近代の超克─宗炳の原理 | 『思索』 | (通号 33) | 2000 |
野田 裕久 | 『近代の超克』における少数意見について | 『愛媛法学会雑誌』 | 26(2) | 1999.11 |
小林 昌人 | マルクスと「近代」の超克 (特集 マルクス・今) | 『理想』 | (通号 662) | 1999.01 |
川勝 平太 | 歴史の交差点 「近代」の超克は「アジア」の超克 | 『週刊ダイヤモンド』 | 86(44) | 1998.11.07 |
桶谷 秀昭 | 「近代の超克」論─昭和精神史・戦後篇(11) | 『文學界』 | 52(11) | 1998.11 |
高沢 秀次 | 近代の超克とアメリカニズム (特集 ヨーロッパから学びうるもの) | 『発言者』 | (通号 52) | 1998.08 |
清水 多吉 | 『啓蒙の弁証法』と『近代の超克』 (特集 フランクフルト学派の新潮流) | 『情況 第三期』 | 9(4) | 1998.05 |
黒田 秀高 | 「近代の超克」と「日本への回帰」─大戦前夜における日本の文化・思想の混迷を省みて | 『日本及日本人』 | (通号 1630) | 1998.04 |
服部 裕 | 近代なき「近代の超克」─「世界史的立場と日本」の意味 | 『秋田大学教育学部研究紀要』 | (通号 53) | 1998.03 |
大平 剛 | 吉満義彦の「近代の超克」論─遠藤周作の初期のテーマを理解するために | 『国語国文研究』 | (通号 103) | 1996.05 |
高沢 秀次 | 丸山真男と近代の超克 | 『諸君!』 | 27(11) | 1995.11 |
佐藤 瑠威 | カール・レーヴィットと戦後日本の「近代主義」─近代の超克問題をめぐって | 『別府大学紀要』 | (通号 36) | 1995.01 |
座談会 吉本 隆明、座談会 梅原 猛、座談会 中沢 新一 | 日本人は思想したか-5完-「近代の超克」から現代の「超克へ」 | 『新潮』 | 91(9) | 1994.09 |
川村 湊 | <書評>西田勝著『近代は否定できるか』 : 「近代の超克」の超克 | 日本文學誌要 | 49 | 19940315 |
佐藤 瑠威 | 日本における<近代の超克>問題 | 『別府大学紀要』 | (通号 35) | 1994.01 |
清水 太郎 | 「歴史的形成作用の論理」の光と影─西田幾多郎の「近代の超克」論再考 (西田幾多郎<特集>) | 『現代思想』 | 21(1) | 1993.01 |
緒形 康 | 書かれなかった「近代の超克」 (日中復交20周年記念特集号) | 『愛知大学国際問題研究所紀要』 | (通号 97) | 1992.09 |
多田 真鋤 | 「近代の超克」の思想─高山岩男教授の所説をめぐって | 『横浜商大論集』 | 25(1・2) | 1992.03 |
伊豆 利彦 | 「近代の超克」の周辺─林房雄「勤皇の心」と『青年』〔含 討論〕 (日本文学協会第45回大会報告(文学の部・総会)<特集>) ─ (日本文学における<他者>と<天皇制>・文学の部) | 『日本文学』 | 40(3) | 1991.03 |
桶谷 秀昭 | 昭和精神史のこころみ-14-日米開戦と近代の超克 | 『文學界』 | 44(11) | 1990.11 |
富岡 幸一郎 | 「近代の超克」とポスト・モダン (戦後派世代が読む福田恒存<特集>) | 『諸君!』 | 20(1) | 1988.01 |
山科 三郎 | 国民意識統合の思想と論理─「近代の超克」論と臨教審答申 | 『文化評論』 | (通号 316) | 1987.07 |
小林 道徳 | 「近代の超克」とは何か-下- | 『自由』 | 29(7) | 1987.07 |
小林 道徳 | 「近代の超克」とは何か | 『自由』 | 29(6) | 1987.06 |
吉田 傑俊 | 「近代の超克」哲学の諸問題─”広松哲学”の批判的考察 (現代哲学の諸問題) | 『季刊科学と思想』 | (通号 64) | 1987.04 |
中村 雄二郎 | <近代の超克>と<ポスト・モダン>─西田幾多郎への一視点 | 『現代思想』 | 15(1) | 1987.01 |
小林 憲二 | ポスト・モダニズムから<近代の超克>へ─トマス・ピンチョンそしてトニ・モリスン | 『英語青年』 | 132(9) | 1986.12 |
猿渡 重達 | 「吉満義彦全集」垣花秀武ほか編─近代の超克めざして | 『ソフィア』 | 34(4) (通号 136) | 1986 |
鰺坂 真 | 広松渉氏の「近代の超克」論─非合理主義的観念論への追随-下- | 『前衛』 | (通号 518) | 1985.02 |
鰺坂 真 | 広松渉氏の「近代の超克」論─非合理主義に追随する現代の観念論-上- | 『前衛』 | (通号 517) | 1985.01 |
佐藤 静夫 | 「近代の超克」と現代文学─「浪曼主義」再評価のイデオロギー的役割 | 『前衛』 | (通号 504) | 1984.03 |
多田 量平 | 竹内芳郎「近代の超克」の立場-下- | 『前衛』 | (通号 500) | 1983.11 |
吉田 熈生 | 戦時下の評論文学─「近代の超克」をめぐって (戦時下の文学<特集>) ─ (戦時下の文学界) | 『国文学 : 解釈と鑑賞』 | 48(11) | 1983.08 |
吉田 傑俊 | 戦後否定論の「論理」と心理─江藤淳氏における新「近代の超克」論批判 | 『文化評論』 | (通号 267) | 1983.06 |
中馬 清福 | 中曽根史観と「近代の超克」 (中曽根政権の一〇〇日─岐路に立つ自民党政治) | 『中央公論』 | 98(4) | 1983.04 |
多田 量平 | 竹内芳郎「近代の超克」の立場-上-近代諸科学に敵対する特異な文明論 | 『前衛』 | (通号 498) | 1983.1 |
武田 友寿 | 唐木順三・その「近代の超克」の思想 (唐木順三と反近代-2-(人と思想-4-)<特集>) | 『心』 | 33(12) | 1980.12 |
橘川 俊忠 | 昭和思想史の可能性を開く─広松渉「<近代の超克>論─昭和思想史への一断想」(思想と潮流) | 『朝日ジャーナル』 | 22(30) | 1980.07.25 |
南坊 義道 | 保田与重郎における反近代の思想─その「近代の超克」論批判 (転形期の思想─三〇年代からのメッセージ<特集>) | 『現代の眼』 | 21(3) | 1980.03 |
宮内 豊 | 「近代の超克」を見直す(文学は開かれる) | 『すばる』 | 2(2) | 1980.02 |
柴田 庄一 | リルケにおける<近代の超克>─「見えないもの」への変容をめぐって | 『ドイツ文学研究』 | (通号 12) | 1980 |
田村 正勝 | 社会科学方法論考─近代の超克と社会科学の新生のために | 『早稲田社会科学研究』 | (通号 19) | 1979.1 |
西田 照見 | 「近代の超克」への批判の覚え書 (近代を越える視点<特集>) | 『現代の理論』 | 13(12) | 1976.12 |
河原 宏 | 「近代の超克」と科学・技術 (ファシズム部会特集) | 『社会科学討究』 | 21(2) | 1976.01 |
中村 完 | 近代への疑い─「近代の超克」へ(知性と主体) (日本文学の1930年代─彷徨と混迷のなかで<特集>) ─ (日本文学のなかの1930年代) | 『國文學 : 解釈と教材の研究』 | 20(9) | 1975.07 |
三上 治 | 竹内好論─国家死滅への視座─過渡期と「近代の超克」 (超国家と流民の論理(特集)) | 『現代の眼』 | 14(3) | 1973.03.00 |
塚本 康彦 | 座談会「近代の超克」 | 『日本文学』 | 20(8) | 1971.08.00 |
対談 中村 光夫、大岡 昇平 | 回想の「文学界」─「純粋小説論」と「近代の超克」 | 『文學界』 | 25(6) | 1971.06.00 |
山田 慶児 他 | 近代の超克めざす中国 土法の思想を中心に(座談会) (「中国」土法の思想と実践と(特集)) | 『科学朝日』 | 31(1) | 1971.01 |
碧海 純一 | 近代合理主義の復権─「近代の超克」の愚をくりかえさぬために | 『自由』 | 12(5) | 1970.05.00 |
近代の超克の意味するもの (近代と反近代(特集)) | 『国文学 : 解釈と鑑賞』 | 34(12) | 1969.11.00 | |
大久保 典夫 | 戦時下『文学界』の近代の超克 (近代と反近代(特集)) ─ (近代の超克の意味するもの) | 『国文学 : 解釈と鑑賞』 | 34(12) | 1969.11.00 |
村松 剛 | 戦後における近代の超克─覚書として (近代と反近代(特集)) ─ (近代の超克の意味するもの) | 『国文学 : 解釈と鑑賞』 | 34(12) | 1969.11.00 |
谷崎 昭男 | 「近代の超克」について─「超克」ということばの問題 | 『史潮』 | (通号 102) | 1968.02.00 |
小笠原 克 | 「近代の超克」試論 (近代文学評論史の問題点(特集)) | 『日本近代文学』 | (通号 7) | 1967.11.00 |
古林 尚 | 「近代の超克」批判 | 『國文學 : 解釈と教材の研究』 | 10(7) | 1965.06 |
宮川 透 | 近代日本哲学史における<近代の超克>─われわれの思想における東と西の問題 | 『比較文化研究』 | (通号 2) | 1961 |
荒 正人 | 「近代の超克」-6- | 『近代文学』 | 15(8) | 1960.08 |
浜田 新一 | 「近代の超克」論議のむなしさ | 『新日本文学』 | 15(7) | 1960.07 |
荒 正人 | 「近代の超克」-5- | 『近代文学』 | 15(7) | 1960.07 |
古在 由重 他 | 「近代の超克」をめぐる問題(座談会)-続- | 『多喜二と百合子』 | 8(7) | 1960.07 |
佐古 純一郎 | 自我と「近代の超克」 | 『新日本文学』 | 15(5) | 1960.05 |
佐々木 基一 他 | 「近代の超克」をめぐって(座談会) | 『新日本文学』 | 15(5) | 1960.05 |
瓜生 忠夫 | わたしの”ミュージカル”─「近代の超克」を否定し肯定する | 『新日本文学』 | 15(5) | 1960.05 |
荒 正人 | 近代の超克-3- | 『近代文学』 | 15(5) | 1960.05 |
竹盛 天雄 | 「近代の超克」再評価への疑問 | 『日本文学』 | 9(5) | 1960.05 |
山田 宗睦 | 思想史の方法規定への試み─竹内好「近代の超克」をめぐって-下- | 『歴史評論』 | (通号 116) | 1960.04 |
谷川 雁 | 近代の超克─私の解説 | 『新日本文学』 | 15(6) | 1960.04 |
重雄 誠子 他 | 「近代の超克」をめぐる問題(座談会) | 『多喜二と百合子』 | 8(6) | 1960.04 |
相馬 庸郎 | 座談会「近代の超克」の一つの教訓─「職人」の論理 | 『日本文学』 | 9(4) | 1960.04 |
小松 摂郎 | ふたたび近代の超克について─唐木順三と竹内好 | 『理想』 | (通号 322) | 1960.03 |
荒 正人 | 「近代の超克」-1- | 『近代文学』 | 15(3) | 1960.03 |
山田 宗睦 | 思想史の方法規定への試み─竹内好「近代の超克」をめぐって-上- | 『歴史評論』 | (通号 114) | 1960.02 |
小松 摂郎 | 近代の超克─吉本隆明と花田清輝 | 『理想』 | (通号 321) | 1960.02 |
小田切 秀雄 | 「近代の超克」論について | 『文学』 | 26(4) | 1958.04 |
奥野 健男 | 再版「近代の超克」 | 『群像』 | 11(7) | 1956.07 |