中古天皇政治の意義を語るに当たり、佐藤清勝は中古の時代を次のように区分した。
(1)第三十六代の孝徳天皇(在位:西暦六四五~六五四年)から第五十五代の文徳天皇(在位:西暦八五〇~八五八年)に至る親政時代、(2)第五十六代の清和天皇(在位:八五八~八七六年)から第七十二代の白河天皇(在位:一〇七三~一〇八七年)に至る藤原氏の摂政時代、(3)第七十三代の堀河天皇(在位:一〇八七~一一〇七年)から第八十一代の安徳天皇(在位:一一八〇~一一八五年)に至る上皇・法皇の院政時代──。
それぞれの時代によって変化は生じたが、佐藤は、中古全体について、その天皇政治の第一義は「大政の総攬」であると説く。大化の革新によって、官制、法令が整備され、左右大臣の下に八省百官を置いて政務を分掌させることになった。この結果、政治の細務は臣僚に委ねられることになったが、天皇は政治の大綱を総攬されたと、佐藤は述べる。さらに、次のように続ける。
「天皇は精勤治を励まし、屡々民意暢達、下情疏通の詔を発せられて、権臣勢吏の梗塞に拘はらず、愛人撫民の政治を施されたのである、而して、是の天皇の仁慈、寛恕の大御心は、中間の梗塞如何に拘はらず、下民に慈雨の如く、春風の如く霑ほひ、是によりて人民は安泰に生活したのである」(二百二十頁)
佐藤が指摘する通り、歴代天皇の大御心は常に国民の上にあり、天皇が任命した官吏がその権力を使って国民を虐げたり、私利私欲を逞しくしたりすれば、しばしば貪官汚吏を戒める詔を発せられた。例えば、孝徳天皇は大化の改新に先立ち、大化元(六四五)年の詔で、連、伴造、国造などを戒められた。元明天皇(在位:七〇七~七一五年)は和銅五(七一二)年の詔で国司郡司を戒められた。聖武天皇や桓武天皇も官吏を戒める詔を発せられている。
歴代天皇はまた、民意を暢達すべき詔を下された。例えば、元正天皇(在位:七一五~七二四年)は養老五(七二一)年に、淳仁天皇(在位:七五八~七六四年)は天平宝字三(七五九)年に、それぞれ下情通達の詔を下されている。淳和天皇、崋山天皇などによる下情通達の詔も残されている
中古天皇政治の第二義として佐藤が挙げるのは、「敬神崇祖」である。中古の時代は仏教全盛の時代であったが、歴代天皇の敬神崇祖は全く衰えなかった。歴代天皇は常に内侍所において皇祖天神を祭り、祖宗の神霊に仕えられた。また、各地の神社が奉幣、祭祀を怠っているのを見て、しばしば祭祀を廃してはならないとする詔を下された。例えば、第四十九代の光仁天皇(在位:七七〇~七八一年)は、宝亀七(七七六)年に次のような詔を出されている。
「神祇ヲ祭祀スルハ国ノ大典ナリ、若シ誠敬ナラスンハ、何ヲ以テカ福ヲ致サン、聞クナラク諸社修メス、人畜損穢シ、春秋ノ祀モ亦多ク怠慢ナリト、茲ニ因ツテ、嘉祥降ラス災害荐リニ臻ル、言ニ、斯レヲ念ヒテ情深ク慙惕ス、宜シク、諸国ニ仰セテ、更ニ然ラシムルコト莫ルヘシ」
佐藤は、中古天皇政治の第三義は「仁慈愛民」であると述べ、これが、政治の大権が武門武士に移った後もなお、国民が皇室の恩恵を忘れることができなかった理由であり、同時に皇祚が無窮である理由だと主張する。
そして佐藤は、中古天皇政治の第四義は「崇文卑武」であったとする。彼は、中国やインドからの文化流入によって、上古の「質実剛健」の気風が一掃され、次第に「崇文卑武」の風に推移したと見るのである。ここで佐藤が注目するのは、外敵に対する天皇の姿勢である。上古においては、天皇自ら出陣されたが、中古においては、天皇は将軍を派遣して征討させたと説く。具体的には、安倍比羅夫、文屋綿麻呂、坂上田村麻呂らである。やがて兵権は武門武士の手に帰したが、廟堂においては彼らを賤しむ風潮が強まったと見る。佐藤は、「崇文卑武」が大権を武門に委ねることになった真因だと説き、「崇文卑武」さえなければ、天皇の仁慈、愛民の聖徳がますます輝いて、臣民はさらに長く皇恩に浴すことができたであろうと悔やむ。