中国の覇権への警戒論や日米関係への影響といったファクターが優先されがちな外交論においては、日本と東アジアの緊密化に水を差すような議論が少なくない。しかし、東京発の外交論とは別次元で、経済だけでなく文化面における日本と東アジアの緊密化が着々と進行している。その拠点こそ、福岡県をはじめとする九州である。
糸島半島と海ノ中道の両腕で囲まれた、天然の良港として知られる博多津は、古くから大陸との交流の窓口として機能していた。博多津沖の志賀島からは、一世紀頃、光武帝から奴国王へ贈られた金印が発見されている。
その後も、九州は大和朝廷による統一まで、独自性を維持していた。継体二一(五二七)年には、筑紫君磐井が大和朝廷が準備していた朝鮮遠征軍の派遣を妨害し、戦いを挑んでいる。『日本書紀』は、反乱の理由を新羅が磐井に賄賂を送り、派兵の妨害を要請したためとしているが、立命館大学名誉教授の山尾幸久氏は、乱の背景に「九州独立王国」への志向を読み取る。
いずれにせよ、その地理的な近さゆえに、福岡は朝鮮半島の政治動向の変化を最も敏感に感じる地域であった。近代日本の興亜思想の源流となった玄洋社が、この福岡の地に誕生し、早くも明治一七年に、朝鮮近代化に奔走していた金玉均を支援し、アジアの志士との連帯の先鞭をつけたことは決して偶然ではない。
そして、現在も続行中の鴻臚館跡の調査事業は、福岡とアジアの深い交流の歴史を持続的に意識させる役割を担っている。筑紫館(つくしのむろつみ)を前身とする鴻臚館は、唐、新羅からの外交使節のほか、遣唐使、遣新羅使を接待、宿泊させる施設であった。鴻臚館は福岡以外にも、難波(大阪)、平安京(京都)に置かれたが、場所が確認されているのは福岡だけである。
鴻臚館遺跡が考古学的に確認されたのは、およそ二〇年前の昭和六二年のことである。平和台球場(当時)の外野スタンド改修工事の際、多くの陶磁器が出土したのがきっかけだった。その後、遺跡からは中国、朝鮮、さらにはペルシャ製の陶器など、国際色豊かな遺物が大量に出土した。
平成二年五月に文字が読みとれる木簡が見つかったことで、鴻臚館と断定された。木簡を井戸の横で水洗いしているうちに、文字が浮かんできたのである。木簡は酸化が進んで黒っぽくなり、最初の「肥」の文字がかろうじて肉眼で判読できたという。やがて「肥後國天草郡志記里」の文字がつらなって浮かび上がってきた。この木簡は荷札だと推測される。鴻臚館跡地では、大量の陶磁器にまじって、タイやイワシの骨が見つかっている。熊本県天草郡がタイやイワシなどの海産物で知られることと併せて推測すると、木簡は荷札として用いられていたものだと考えられる。鴻臚館では、九州各地の特産物を集めて外国の賓客をもてなしていたのであろう(『朝日新聞』一九九〇年五月一五日付夕刊)。
その後約七〇点の木簡が発見され、うち一〇数点に文字が残っていた。文字には、肥前国、筑前国、豊前国と九州各国の名称がみられ、遠くは讃岐国の木簡もあった。この事実は、この場所が国の施設であることを雄弁に語っており、遺跡が鴻臚館跡であることを、より明確に証明することになる(『朝日新聞』一九九五年三月二九日付 朝刊)。
そしていま、九州はアジアとの経済交流の拠点としての役割を改めて認識しているように見える。平成一七年二月、九州経済産業局は九州の産業界・学界等の有識者からなる懇談会「九州経済活性化懇談会」を設置、その報告書は「九州が我が国の中で最もアジアと交流が盛んな圏域である『アジア一番圏』を目指す」と謳っている。
一方、平成一六年一一月には、日本、中国、韓国の一〇市と地元商工会議所が「東アジア経済交流推進機構」を設立している。日本からは北九州、福岡、下関の三市、中国からは天津、大連、青島、煙台の四市、韓国からは仁川、釜山、蔚山の三広域市が参加している。企業間の技術供与、各都市間での企業誘致の推進や、「環黄海イヤー」設定による観光客誘致に取り組む方針である。
九州は、アジアとの経済交流の窓口であると同時に、文化交流の最前線でもあった。例えば、宋の時代、博多には聖福寺、承天寺など巨大な宋風の禅寺があいついで建設され、中国の禅文化受容を先導した。
平成二年には、福岡市が福岡アジア文化賞を創設している。彼らの思いは「この賞を通じてアジアの学術・芸術・文化に貢献した人々に敬意を表し、アジアの固有かつ多様な文化の価値を、都市の視点でアジアに、世界に伝えていきたい」との言葉に示されている。
平成一七年に設立された九州国立博物館は、「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」という視点を持っている。西洋近代の価値観が行き詰まる中で、かつてのようにアジア諸国が文化交流を深め、相互の伝統文化の普遍性を改めて発見し合うことが、いま極めて重要な課題なのではなかろうか。
かつてアジアは、そうした交流を続けていた。アジアが守るべき重要な価値観の一つは共生であり、共に相違を認めて交流すること自体が、共生の実践にほかならない。 平成一六年四月には、自然との共生にとどまらず、文化・宗教など、あらゆる面での「共生」を目指して、「アジア共生学会」が、九州の地に発足した。発起人代表の小林慶二・九州国際大学アジア共生学科教授は、次のように語っている。
「九州は古くからアジアと交流があった。共生は、九州の生き残る道でもある」
(2006年8月12日)