記事内容

茂木氏に最優秀「佐藤栄作賞」(消息)
『日本経済新聞』1991年3月21日付朝刊、34ページ
 第七回「佐藤栄作賞」(主催=佐藤栄作記念国連大学協賛財団、後援=外務省、文部省、日本経済新聞社)論文の最優秀賞、優秀賞四編、佳作一編が決定、二十日に発表された。最優秀賞には賞状と副賞五十万円、優秀賞には賞状と副賞二十万円、佳作には賞状と副賞五万円が贈られる。今回のテーマは「最近の世界秩序の急激な変貌(ぼう)に際しての国連のあり方と国連大学の役割」。授賞式は二十六日、東京都渋谷区の国連大学で。
 最優秀賞=東京大学大学院生、茂木健一郎氏(28)
 優秀賞=聖ボナベントゥーラ大学経営学部助教授、アパ・ラオ・コルコンダ氏(41)▽ペンブローク州立大学社会学・社会福祉学・刑事司法学部学部長、フランク・シュマレガー氏▽広島大学大学院生、先崎健氏(35)▽フリージャーナリスト、坪内隆彦氏(26)
 佳作=無職、河合圭二郎氏(74)




佐藤栄作賞に茂木さんら
『朝日新聞』1991年3月24日付朝刊、30ページ
 第7回佐藤栄作賞(佐藤栄作記念国連大学協賛財団)の受賞者が、このほど次の通り決まった。授賞式は26日、東京都渋谷区の国際連合大学で行われる。(敬称略)
 【最優秀賞=賞金50万円】東大大学院生、茂木健一郎【優秀賞】聖ボナヴェントゥーラ大助教授、アパ・ラオ・コルコンダ▽米ペンブローク州立大学学部長、フランク・シュマレガー▽広島大大学院生、先崎健▽フリージャーナリスト、坪内隆彦【佳作】無職、河合圭二郎




議論呼ぶマハティール構想――米欧に反発するアジアの声代弁(時の本)
『日本経済新聞』1994年10月16日付朝刊、21ページ
 経済で自信をつけたアジア諸国が発するメッセージが世界を揺さぶっている。欧米の人権、環境問題に関する圧力に反駁(ばく)するマレーシアのマハティール首相が代表例である。その政治的意志の実現を目指す東アジア経済協議体(EAEC)構想は米国の強い反発も招いた。
 このマハティール構想に日本も割れている。安全保障面も含め現実的に世界を動かす米欧との友好関係を重視し、マハティール構想を退けようとする欧米派と、アジアの一員として日本はアジアの立場にもっとくみするべきだというアジア派の論争である。
 欧米派がEAECに反対する論拠は、地域貿易ブロックに結びつく危険がある、というものだ。だが、マハティール構想の主眼は、米欧諸国の力を背景にした価値観の押し付けや、小国の利益を無視しがちな昔ながらの先進大国の姿勢を戒めることで、経済ブロックの形成ではない。
 坪内隆彦著「アジア復権の希望 マハティール」(亜紀書房)はそうした経緯を一九八一年に首相に就任したマハティール氏の生い立ち、思想形成の過程、そして発展途上小国の置かれた国際環境も踏まえて、その論理をやや思い入れを込めながらもうまく説明している。
 「小国は結束しないと理不尽な米欧の圧力に対抗できない」とのマハティール首相の考えは、米国が大国である中国に対して経済関係を重視、人権問題の押し付けを断念したことで、説得力が増している。欧州連合(EU)も欧米論理の押し付けに反発する東南アジア諸国連合(ASEAN)に歩み寄り、経済関係強化を優先する姿勢に転じた。
 問題は、日本ではマハティール構想の理念が十数年前から発せられながら無視されてきたことである。マハティール首相の言動が日本で注目を浴びているのも欧米の反発がきっかけだった。
 米欧派も心情的アジア派も日本の針路を考える上で、マハティール首相に限らず、発言を始めたアジアの行動の真意、背景などをよく知る必要がある。それで初めて日本が、真のアジアの時代を語る資格が生まれる。(翠)




森谷正規評 アジア復権の希望マハティール 坪内隆彦著(亜紀書房・一九〇〇円) 本と出会う─批評と紹介(3)
『毎日新聞』1994年10月31日、11ページ
日本よ、マゴマゴしていると…
 つい、村山、河野、小沢の姿を思い浮かべてしまう。政治家として、何と違うことか。
 マレーシア首相のマハティール・ビン・モハマドは、信念を貫き通し、大国米国とも闘う政治家である。
 「アジアはアジアの意志でやっていくのだ」というのがその強固な信念であり、EAEC構想を強く提唱し続けている。これは東アジア経済圏を築くという構想で、九〇年十二月にマハティールが提案した。
 アジア・太平洋にはAPECという経済協力会議があるが、ここには米国、カナダも入っていて、非アジア先進国主導になる。そこでアジアはアジアだけでと、EAECを提唱するのだが、はずされた米国は経済ブロック化だと強く反発して潰そうとする。
 だがマハティールは一歩も引かない。米国はNAFTA(北米自由貿易協定)を作り、欧州にはEUがあり、アジアにもアジアだけの経済連合があっていいはずだと主張するのだ。
 中国、ASEAN諸国はEAEC構想を支持しているのだが、米国に逆らえない日本の政治家、官僚の態度は煮え切らない。アジアで仲間はずれにされても大いに困る。かといってアジアのビジョンを描こうともせず、リーダーシップはとらず、アジアの力強い政治家たちと比べて、じつに影が溥いのだ。
 マハティールは、経済発展のみを目指しているのではない。欧米的価値観が支配する現代はさまざま面で限界にぶつかっており、アジア的価値観を復興させて、経済、社会を再生させようというのだ。
 庶民の家に生まれたマハティールは医師となったが、農村診療を通してマレー人の貧困に直面し、政治家を志した。三十八歳で下院議員になり、マレー人優先策を強く主張して時の首相に反抗し、与党から除名されるが、マレー系と中国系の人種暴動を契機に政権が変わり復帰する。
 やがて能力が認められて、教育相、副首相を経て、八一年に首相に就任した。
 すでに十四年間も、国民の強い支持を得て確固たる政権を維持しているのだが、連合与党による連立政権なのだ。偉大な政治家がいれば、連立政権はかくも安定する。
 そのマハティールに強い思い入れを持つ著者はフリーのジャーナリストで、いま二十九歳ととても若い。若いから元気いっぱいで、マハティールを熱く支持する文を素直に綴っている。少しも恰好をつけることなく、爽やかだ。
 私もマハティールに何がしかの思い入れがある。「ジャパニーズ・テクノロジー」という私の著書の英訳本をマハティールが読んで、国の工業化発展に必読の書であるとして千冊も購入して政府幹部に配った。その縁で十年ほど前、クアラルンプールでお目にかかった。穏やかな人であった。
 当時、「ルック・イースト」を掲げて、日本や韓国に学べと工業化を導いていたマハティールは、いまも日本に強い期待をかけている。
 アジアはこれから急速に発展していく。中でも巨大な中国の工業発展は恐ろしいほどの影響をアジアに与えるのは確かで、アジア諸国の政治家たちはそれをいかに受けとめるべきか、懸命に模索している。アジアの経済と政治が激しく渦をまく時代だ。マゴマゴしていたら日本は、金と技術を出すだけの国になる。そして経済も衰退していく。
 日本にも、政治家が欲しい。




いま一番注目の政治家、マレーシア首相「マハティールという男」 米日おくせず批判
『毎日新聞』1994年11月15日付夕刊、2ページ
 ◇アジアの誇りを持つ、言行一致を守る人
 マハティール・マレーシア首相が日本の政財界人らの注目を集めている。き然とした物言い、欧米におもねらずアジアの復権、自立を目指す一貫した政治姿勢が政治家不在ともいわれる日本に刺激を与えているようだ。マハティール本が相次いで出版され、十五日にインドネシアのジャカルタで開かれたアジア・太平洋経済協力会議(APEC)の非公式首脳会議でも動向に関心が集まる。最近の発言を基に人気の人物像に迫った。
 ◇「直言居士」
 マハティール首相は欧米を中心とした価値観をかなぐり捨て、文化的、経済的にアジアの復権、自立を目指そうと訴え、積極的に発言し、行動している。
 その象徴が一九九〇年十二月に打ち出した東アジア経済会議(EAEC、当時はEAEG)構想だ。東南アジア諸国連合(ASEAN)六カ国と日本、中国、韓国、香港、台湾など東アジア諸国・地域が手を組み、経済協力を積極的に進めようとするもの。ところがこの構想から排除された欧米、特に米国が強く反発、日本などアジアの関係各国にEAECには参加するな、と圧力を掛けている。
 だがマハティール首相は「EAECは貿易ブロックでも自由貿易圏でもない話し合いの場。我々は人種差別主義者ではない。もし、そういうなら、欧州連合(EU)や北米自由貿易協定(NAFTA)をつくった欧米の方が人種差別的だ」と言い返した。
 発言だけでなく、行動でもき然としたところを見せる。昨年十一月、米シアトルで開かれた初のAPEC非公式首脳会議にただ一人、欠席した。この会議がアジアを中心とするAPEC加盟国の合議に基づいて開催されるのではなく、クリントン米大統領の個人的提案で開かれることへの批判の意思表示だった。
 この行動を豪州のキーティング首相が「頑固者」と批判したが、マハティール首相は「私の欠席についてなぜ豪州が米国より怒るのかわからない。子供だったらたたくところだ」とやり返し、結局キーティング首相が謝罪した。
 中国に対する西側の人権外交にも批判の矛先を向けた。今年五月の中国・北京での講演では「最悪なのは西側民主国家が非民主的な手段で彼らの原則を押し付けることができると考えていることだ」と米国を批判している。
 <関連本もブームに>
 ◇期待と注文
 マハティール首相は親日家として知られる。副首相時代から公式、非公式を含め年数回の来日を続けている。その経験を基に日本や韓国に学べという「ルック・イースト(東方)」政策を打ち出した。だが「日本が東アジアのリーダーに」という期待を見せる一方、厳しく注文もつける。
 八月末にマレーシアを初訪問し、第二次世界大戦での日本の行為を謝罪した村山富市首相に「過去の謝罪を続けるのは理解できない」と述べたうえで、「過去は教訓にすべきだが、未来を考えるべき。アジアの平和と繁栄のために役割を担うべきだ」と進言した。言葉による謝罪ではなく、EAECでアジアのリーダーとしての役割を果たすことが真の償いという主張だ。
 だが、村山首相は「関係各国の理解と支持を得ることが大変重要」と答えるにとどまった。米国を気遣う発言にマハティール首相は失望、十月に大分県別府市で行った講演で「日本は米国に負うところがあるように、もしくはそれ以上にアジア諸国に過去ばかりでなく現在も負うところがある」と厳しい姿勢を示した。
 <米日をおくせず批判>
 ◇日本からは
 この秋、マハティール本ブームが起きている。
 マハティール首相との共著「『NO』と言えるアジア」(光文社)を出版した衆院議員、石原慎太郎さんは「残念ながら、二十一世紀に日本が果たすべき役割についてマハティール首相の方が日本の政治家よりも的確にとらえている」と評価する。石原さんは「米国をイライラさせているのは、EAECが意味のある構想であることの証明」と語り、日本も積極的に参加すべきだと主張する。
 「アジア復権の希望マハティール」(亜紀書房)を著した坪内隆彦さんは「アジア的手法や価値観と欧米的なものの見方の両方を尊重すべきだと主張する点に注目する」と語る。「五月、シンガポール政府はクリントン大統領の中止要請にもかかわらず、米国人青年にむち打ち刑を科したように、経済発展を背景にアジア人は自信を持ち始めている。その最も先鋭的な代弁者がマハティール首相。欧米、アジアにどっちつかずの態度を取っている日本は、いずれ双方から不審の目で見られかねない」と警告する。ただ「日本の国連常任理事国入りを積極的に支持するマハティール首相を利用し、軍事大国化を推し進めようという覇権主義的な動きもある」と憂慮する。
 マハティール首相の自宅に招かれたという関本忠弘NEC会長は「マハティール首相は、アジア人としての世界観を持ち、日本や米国にも正論を言う一流の政治家。心臓病の手術も、自国の技術を信頼して自国で受けるなど言行一致している」と称賛する。
 言行一致など遠い昔に忘れ去られた日本の国民にはマハティール首相は大いなる魅力に包まれた政治家に見えるのかもしれない。
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 マハティール首相は1925年生まれの68歳。大学卒業後、開業医を経て65年に政界入りし、81年7月に第4代の首相に就任した。マレー人でイスラム教徒。就任直後に、勤務中のティータイム廃止、政府幹部のゴルフ自粛など植民地統治の残滓(ざんし)一掃を図り、アジア主義に基づくマレー人の意識改革を進めた。




【書評】「『NO』と言えるアジア」マハティール、石原慎太郎著
『産経新聞』1994年12月1日付朝刊、15ページ
 『「NO」と言える日本』から六年。石原慎太郎氏は本書で、ついにアジアの一員としての日本のアイデンティティーを明確にした。「日本人はやはりアジアの民です」「日本文化も本質は歴然としてアジアに属している」と。
 討論の相手は石原氏がその「透徹した歴史観」を称えるマレーシアのマハティール首相である。今年のAPECでも、スハルトやクリントンの必死の説得を退け、最後まで「NO」を貫いた信念の政治家である。
 アジアの大物政治家二人が、ついに手を結び勢いよく放った「欧米支配の国際秩序への異議申し立て」の書である。ただ両氏が「NO」と言うのは、単に欧米に抵抗するためではない。反欧米の書ではなく、欧米近代の限界を超えてアジアが果たしうる文明史的役割の大きさを主張したものである。
 両氏は、「時代の波が再びアジアに戻ってきた」という歴史観を共有し、新しい歴史をアジアがつくりうると、わかりやすくその主張を展開する。
 マハティール首相は、欧米近代を超えてもっとすばらしい時代をアジア人の手で築こうという壮大な夢を語る。「アジアが、その文化的価値観を存続させつつ欧米の各種産業を凌駕することができるなら、世界史にもかつて例がないほどの偉大な文明圏の創出が可能となるであろうと思うのです」と。石原氏は「欧米近代のパラダイムに代わる新しいパラダイムをアジアがつくる時代だ」とこたえる。
 両氏は欧米的人権の限界を鋭く指摘し、「家族や友人に囲まれた生活」「和を優先する社会」などアジア的価値観の役割の重要性を堂々と唱える。しかも「東洋文明の特性を優位性として欧米にぶつけるつもりはない」という石原氏の発言には、文化相対主義的な健全さが保たれている。
 クリントン率いるアメリカ外交とそれに追随する日本外交への厳しい批判となっているだけに、内外で大きな論争を呼び起こすことは間違いない。
 (光文社・一一〇〇円)
 ジャーナリスト 坪内隆彦




【書評】アジア復権の希望 マハティール 坪内隆彦
『産経新聞』1994年12月18日付朝刊、10ページ
 マハティールはとにかく話題づくりの人である。最近のAPECをめぐる米国とのやりとりやEAEC(東アジア経済会議)の強硬な主張は、かつてのスカルノやナセルを彷彿とさせる。明らかな違いはアジア、特に東アジア地域が当時とは比べものにならない経済的実力とダイナミズムをもってしまったことだろう。マハティールは、この変貎するアジアの躍動を背景に、西欧の覇権や論理をだまって受容することを拒否し、価値観や文明理解においても、独自の軸を打ち立てようと確信と執念に満ちている。
 この本はマハティールのこういった側面を際だたせつつ、その生い立ちや政治活動を縦糸に、現代のマレーシアの抱える経済・社会問題、特に人種間のバランスや緊張関係の中で近代工業国家を築き上げようとするマレーシアの政治・経済発展の戦略、アジアの主張を浮き彫りにしようとしたものといえる。
 第一章がアジア的価値観についてマハティールの考え方の敷衍(ふえん)、第二章が「マレージレンマ」を生み出した生い立ちと思想、第三章では二十一世紀のマレーシアにおける国づくりの戦略を示した「ビジョン二〇二〇」が紹介され、第四章以下、EAEC、マハティールを取り巻くブレーンと組織、日本へのメッセージ、最終章では二十一世紀のアジア主義の行方について、と興味ある論述からなっている。
 これらによって、マハティールが単なる啓蒙家や戦略政治家でなく、確信に満ちた思想家、同時に冷徹なオルガナイザーであったことが明白になる。また、EAECやルック・イーストにしても、単なる思いつきでなく、深い洞察に基づくアジアの開発戦略によっていることがわかるのである。日本としても、氏の唱えるメッセージにどう応えるかの責務が問われているといえるだろう。筆者の日本の政治のありようやアジア外交に対するいらだちが、アジア的価値観を現代に覚醒させようとするマハティールへの共感とともに直(じか)に伝わってくるようである。
 (亜紀書房・一九〇〇円)
 アジア経済研究所主任調査研究員 井草邦雄




【書評】「キリスト教原理主義のアメリカ」 坪内隆彦
『産経新聞』1997年4月20日付朝刊、14ページ
 アメリカが先端工業国、大量消費国のよそおいの一方で、強固な宗教国家であることは、つとに多くの識者の指摘するところだ。
 本書は、キリスト教原理主義といわれるものの動きを、主として政治とのかかわりの中で、具体的に跡づけてゆく。キリスト教原理主義とはキリスト教の一つの宗派ではない。南部バプテスト(洗礼派)にも、エヴァンジェリカル(福音派)、ペンテコスタルにも宗派横断的に見られる信仰態度(運動)で、一言でいうなら、聖書の教えを文言どおりに信じ込んで、たとえば神の天地創造をそのまま疑おうとせず、人間はサルから進化してきたという進化論を決して認めまいとする態度である。
 フリーセックスやサブカルチャー運動の六〇年代リベラリズムへの反動として現れたということもあって、家族の重視などアメリカ的諸価値の復権、エリート主義に対するポピュリズム(大衆主義)、政治的には保守、白人中心主義に傾きやすい一種のレイシズム(人種主義)……と位置づけられる彼らは「宗教右翼」とも呼ばれる。その動きを無視して、現代アメリカ政治は語れないといわれるほどだ。特にレーガン政権は、彼らを取り込み、彼らの主張とパラレルだったといわれる。
 その後、さしもの原理主義も下火になったかに見えたが、じつはソフト路線への転換にすぎず、大衆への影響力はむしろ増しているというのが著者の見方で、そのことを「キリスト教徒連合」などの動きに即しながら論証する。「リベラル対保守、民主党対共和党」などとは異なる新たな視線が、アメリカ政治を分析するのに必要となってきたようだ。
 (亜紀書房・一六〇〇円)




ブック「キリスト教原理主義のアメリカ」 坪内隆彦
流通サービス新聞、14ページ
 日本のマスメディアの米国政治報道の質は決して低くない。
 「しかし、エスタブリッシュメントに属する政権内部、議会の動きに関する報道がほとんどで、そこからは社会の底流の動きや少数派、異端者たちの声の政治的意味を十分に知らせることは難しい」と著者は言う。
 若年層、低所得層、非白人層への浸透に本腰を入れ始めた米国キリスト教徒連合─米国の政治を完全に牛耳るところまで力を伸ぱす可能性もあり得るその団体を分析。民主党対共和党、リベラル対保守の図式は時代遅れで、産業・ビジネス優先のエスタブリッシュメントに対抗する政治勢力としてキリスト教原理主義の影響力を重視せよという。(亜紀書房刊=03・5280・0261=四六版、二七一ページ、一、六〇〇円)




IT'S REALITY-CHECK TIME FOR APEC MEMBERS AT ANNUAL MEETING
Asahi Evening News
September 7, 1999, TUESDAY
Business
BYLINE: JUN SAITO
This is the first of a two-part series on the prospects for key meetings of the Asia-Pacific Economic Cooperation forum, which got under way Tuesday with high- level working meetings in Auckland, New Zealand.
TOKYO Ministerial and summit meetings of the Asia-Pacific Economic Cooperation (APEC) forum, scheduled for Sept. 9 through Sept. 13 in Auckland, New Zealand, are expected to face a major test in terms of the organization's political purpose and identity.
Skeptics say they doubt the regional body actually benefits its 21 members. Others say the APEC is a failure.
This year, the meetings are overshadowed by such major regional political concerns as the instability in East Timor, the missile problem with the Democratic People's Republic of Korea (North Korea), tension between Taiwan and China, and delicate U.S.-China relations.
Voices of frustration have been heard even from within APEC participants. The Asia-Pacific trading partners are moving too slow to meet their own free-trade targets, the APEC Business Advisory Council (ABAC), a group of business leaders from APEC member economies, said in a letter sent in late last month to New Zealand Prime Minister Jenny Shipley, who will chair this year's meetings.
''Like all processes that move by consensus and which are subject to the pressure of domestic politics, APEC has, at times, lost sight of its own goals,'' ABAC Chairman Philip Burdon said.
His remarks were in sharp contrast to the enthusiasm and high expectations that embraced APEC just a few years ago. The group seemed to be at its zenith in 1994 when APEC leaders pledged, in a declaration issued in Bogor, Indonesia, to liberalize trade and investment in the region by 2010 for developed members and by 2020 for developing members.
''APEC meetings have been unable to come up with any effective measures and plans for realizing market liberalization,'' a Foreign Ministry official said.
''This year's APEC meetings will be a touchstone in terms of the question on whether it can move to meet its original market-opening goal, now that the Asian nations hit by a financial crisis in 1997 are recovering,'' the official said. The financial crisis was no doubt a major reason why the APEC has lost its momentum to move toward the goal.
''The process of conflicting interests over the Early Voluntary Sectoral Liberalization (EVSL) initiative in 1998 made people label APEC as something that can do nothing,'' said JiroOkamoto, researcher at APEC Study Center of Institute of Developing Economies in Tokyo.
Japan has been held responsible for the initiative's failure because it rejected the idea of liberalizing commerce in regards to fish and forestry products two of the nine items designated for the initiative in APEC meetings in 1998.
Okamoto takes a dim view of the forthcoming APEC meetings, judging from the prevailing atmosphere at an annual international meeting of researchers and scholars from APEC nations, also in Auckland, in May.
''The atmosphere was totally different from our meeting in Tokyo in 1995,'' he said. ''This year, the participants have shared the view that APEC is at a deadlock with no new ideas to reinvigorate the group.''
Helmut Sohmen, chairman of Pacific Basin Economic Council, an association of business leaders from the Pacific region based in Honolulu, was more dramatic in his assessment of the organization. At a symposium on APEC in June in Yokohama, he said, ''We should consider other options.''
Views skeptical of APEC's raison d'etre have been expressed the loudest in the United States. For example, the Brookings Institution, a U.S. think tank, issued a report in late 1997 that proposed APEC be transformed ''from a feel-good chat forum into one where significant steps toward greater trade and investment openness become a reality.''
No discussions on such reform have ever taken place.
Japan, an APEC founding member, seems to take the organization's current sorry situation seriously, although it does not have any grand design for the group's future direction.
''Japan should try by all means to reinvigorate APEC as an effective regional cooperative organization,'' said a senior official at the Ministry of International Trade and Industry.
However, he wrote off the notion that APEC has lost its meaning. ''It is one of the important regional bodies for Japan. It should be remembered that APEC has another important function as an economic cooperative body.''
Along this line of thinking, Japan will offer more technical cooperation and education programs to workers in developing nations, the official said.
''Most of the people who say APEC hit a deadlock are from developed nations such as the United States and Canada,'' he said.
Philippine President Joseph Estrada said at a symposium on the Asian economy in June in Tokyo, ''APEC continues to be a major vehicle for expanding economic collaboration in various fields.''
The United States is apparently more interested in the trade and investment liberalization side of APEC than its role as an economic cooperation entity.
''APEC has been a sort of battlefield between developed and developing nations,'' said Takahiko Tsubouchi, director of political and economic affairs at the Japan-Malaysia Association.
This is exactly why Japan is in a unique position in APEC.
Japan has two faces in APEC the world's second-largest economy that is required to promote free and open trade and investment, and an Asian power required to play a leading role in helping create a framework for economic cooperation between APEC members.
''This two-face identity has sometimes left Japan with no choice but to be noncommittal in such key APEC matters as trade liberalization,'' Tsubouchi said.
''Japan can contribute to the regional body as a nation that can bridge the different perceptions between developed and developing members,'' a MITI official said.
Japan's biggest challenge will be to translate those words into reality, observers said.




岡倉天心内外で再評価――ボストン美術館が展覧会、福井で「サミット」(文化)
『日本経済新聞』1999年11月13日付朝刊、40ページ
 「アジアは一つ」の言葉で知られる明治の思想家、岡倉天心(一八六二―一九一三)を再評価する動きが広がっている。ボストン美術館勤務時代の活動を初めて体系的に紹介する展覧会が始まり、福井などゆかりの地でも研究会の開催が続いている。時代の風向きによって様々な解釈がなされてきた天心の全体像を、国際的視野からとらえ直そうという狙いがある。
日米協力、実績に光
 名古屋ボストン美術館では「岡倉天心とボストン美術館」展(二〇〇〇年三月二十六日まで)が開催されている。米ボストン美術館の姉妹館として今年四月にオープンした同館が、全力をあげて取り組んだ企画だ。一九〇四年に渡米、ボストン美術館で最初の日本美術部長だったフェノロサの後を受け、中国・日本美術部の部長として活躍した十年間の業績に様々な角度から光をあてた。
 「所蔵している数多くの資料を、天心という軸でボストン美術館が今回初めて調査、研究した成果です」。企画を担当した名古屋ボストン美術館の山脇佐江子学芸部長は強調する。
 この展覧会では、ボストンでもほとんど公開されたことがなく、表装もされずにあった横山大観の「海図」、菱田春草の「月の出図」等の名作の日本初公開という話題だけでなく、天心のボストンでの実績を明らかにした点に意義がある。
 米国ではこれまで、米ボストン美術館草創期の収集家、ビゲローやフェノロサに比べると、天心の役割は忘れられがちだった。それが日米の協力による調査の結果、手紙や覚書、ボストン美術館の発行する「紀要」などの発見もあり、見方が変わった。天心は美術館での日本及び中国の芸術の地位を引き上げ、「多くの人々に東洋と西洋が、この美術館で出会うということを確信させた」(米ボストン美術館のアン・ニシムラ・モース日本美術課長)。
 日本が海外から文化を受け入れる一方の時代に、積極的に日本を米国に押し出した。「孤独な戦いだったろうが、これこそ現代に求められている国際人の姿ではなかったか」と山脇学芸部長は言う。
 現代美術の紹介で実績をあげてきたワタリウム美術館(東京・渋谷)は、昨年から「岡倉天心研究会」の名で年間を通じた講演会を開催している。今年は特に欧米、アジアを転々と巡った足跡をたどり、世界の中の天心をテーマに据えた。
 今年五月の研究会で講師をした岡倉古志郎氏は天心の孫で、アジア・アフリカ研究所の所長。非同盟運動の研究者としても知られる古志郎氏が強調するのは、インドとボストンで培った天心の国際的な人脈だ。
 インドの詩人でアジア人初のノーベル文学賞受賞者でもあるタゴールとその一家やインド独立運動家たちとの出会い。また、大富豪で美術収集家として知られたイザベラ・ガードナー夫人など、ボストンの知識人階層との交流が、「東洋の理想」「茶の本」といった英文による日本紹介書の執筆と刊行に大いに貢献したと古志郎氏はみる。
平和主義と矛盾せず
 天心が創設、昨年百周年を迎えた日本美術院が一時期本拠を置いた茨城県・五浦(いづら)、天心が亡くなった別邸のあった新潟県・赤倉、岡倉家発祥の地である福井県には、それぞれ「岡倉天心顕彰会」があり、九六年から「天心サミット」を持ち回りで主催している。今年の第四回は、十月末に福井県芦原町で開催され、顧問として画家の平山郁夫氏が就任した。
 サミットでは、機関誌の発行や資料収集といった一年間の活動を報告後、「第四回天心サミット福井宣言」として、「次代を担う国際人青少年の育成」「インド・タゴール国際大学などとの国際・国内交流の実施」など四項目の課題をまとめて閉幕した。
 天心再評価の動きについて、昨年「岡倉天心の思想探訪」(勁草書房)を刊行した、拓殖大学日本文化研究所付属近現代研究センターの坪内隆彦客員研究員は「天心のアジア思想は本来、平和主義、国際主義とは矛盾せず、普遍的な価値を持ちうる」と説く。
グローバル化で意義
 アジアは一つである――。「東洋の理想」の冒頭に掲げたこの一句のために、天心は死後、大東亜共栄圏の先導者にまつりあげられた。その背景には、一九三五年ごろから始まる国粋主義、なかでも復古的ロマン主義を唱えた日本浪曼派による、第一次とも呼ぶべき「天心復活」の動きがあった。その反動もあり、戦後は、天心の思想は厚い雲で覆われてしまった。
 天心の長男、岡倉一雄の回想録「岡倉天心をめぐる人びと」(中央公論美術出版)によると、天才、あるいはスキャンダラスといった世間の風評に反し、本人は「派手にもてはやされることの嫌いな人間であった」という。特に経済面で顕著なグローバル化の流れは、世界各地で摩擦を生み、民族主義的な感情を呼びおこしている。経済、政治など各方面で、再び日本がアジアに根をおろす姿勢を求められる今日、欧米とアジアに同時に通じた天心の可能性を、冷静に見つめ直す必要があるようだ。
(文化部 松岡弘城)




果たせぬ国家貢献への思い、東方政策
『NNA経済情報』2003年10月29日付
マハティールが首相就任早々に打ち出した東方政策。欧米への強い反発心から、アジアに日本という経済発展の成功モデルを見出し、自国の新しい国づくりに利用した。同政策に伴う日マ関係の緊密化は、「東アジアの奇跡」を結果としてマレーシアにもたらし、マハティールをASEANの盟主に担ぎ上げた。後継者のアブドラは同政策の継承を表明しているが、解決すべき課題も多々ある。日マ新時代の幕開けとともに、東方政策にも新機軸を打ち出すことができるのか。アブドラの手腕が試される。(玉井諭)
1981年7月、首相に就任したばかりのマハティールは首相官邸に有田武夫・駐マレーシア大使(当時)を招きこう告げた。「わが国は、日本と韓国に学ぶルック・イースト政策を採る。協力を願いたい」(坪内隆彦著『アジア復権の希望マハティール』)。日本とマレーシアの2国間関係の象徴となった東方政策の始まりだった。
マハティールは戦後の日本に経済成長をもたらした原動力が、個人の利益よりも集団の利益を重んじる価値観と規律・忠誠・勤勉といった労働倫理にあると信じていた。マハティールの考えは、これらを日本から直接学び取ることで、自国の開発独裁型の経済発展に活かすことだった。
日本政府はマハティールの唐突ともいえる提唱に戸惑ったが、マハティール政権を支援することで日マ関係を強化し、さらには東南アジアでのプレゼンスを高めることにつながると判断。要請の受け入れを決定した。

■「国家の発展のために」
東方政策のもと、82年に産業技術・経営実務研修生、84年に大学・高等専門学校への留学生の1期生がそれぞれ日本に派遣された。ねらいはマレーシアの経済発展の柱となるマレー人の育成だった。
「日本で学んだことを、1人(の留学生)が5人(のローカルスタッフ)に伝えていけば、波及効果となって国民の間に広く浸透していく」。
東方政策で留学した学生の同窓会ALEPSの会長ザバ・ヨウンさんは、マハティールがこう語るのを何度となく聞いた。東方留学生・研修生の1人1人が知識や技術を国民に伝播することへの期待の表われだった。
ザバさんは84年に高専に留学した東方留学1期生。国営放送RTMの電気技術者として働いていた時、突如政府から日本行きを命じられた。「日本に特別な関心があったわけではなかったが、国家政策とあっては選択の余地はなかった」。
当時は現在のような留学前の研修プログラム(1年8カ月)も準備されていなかった。日本語がわからない不安と未知の世界への期待。「国家の発展のために」という使命を胸に、60人の仲間とともに慌ただしく日本へ旅立ったという。
マレーシア政府は国費で03年までの22年間に、1万人を超える若者たちを専門的な知識と技術を身に付けさせるため送りだした。マハティールの息子もその1人。現在もマレー人を中心に1,600人の留学生が日本各地の大学や高専で学んでいる。

■日系企業支える東方留学生
東方政策の開始を合図に、日マ経済関係は緊密化の一途をたどった。両国間の貿易は急速に拡大、日本から大量の民間投資と政府開発援助(ODA)がマレーシアに流れ込んだ。
三菱自動車工業との合弁で東南アジア初の国産車プロトン・サガの生産を手掛けたことは日マ技術協力の象徴的な事例となっている。
特に、85年のプラザ合意以後は、円高を背景とした日本企業の海外進出ラッシュに合わせ、大幅な外資規制緩和策を実施。マハティールは同政策で培った日本政府との太いパイプを利用して次々と投資の呼び込みに成功した(第3回・経済編参照)。
マレーシア進出日系企業の活動を支える「橋渡し」の役割を担ったのが、日本で文化と技術を学び帰国した東方留学生・研修生たちだった。東方政策の留学生派遣で資金協力を行っている国際協力銀行(JBIC)の青晴海・クアラルンプール駐在員事務所首席駐在員も、「日系企業にとって活動しやすい基盤を作ってくれている」と評価する。

■空振りする国家貢献への思い
国家のために貢献したいというのが東方留学生の共通した思いだ。だが、3,000人の会員を抱えるALEPSによると、東方留学生の多くがその機会が持てないことに不満を募らせているという。
彼らの8〜9割が就職するのが日系企業。単に通訳としてしか見られず、日本で学んだ専門的知識や技術をローカル・スタッフに伝える権限を持たせてもらえないことへのいら立ちがある。
技術移転も当初のねらい通りの成果をあげていないとされる。ある元留学生は「日本に留学させてくれたお礼を技術移転という形でしたいがそのチャンスがない」と不満をぶちまけた。
さらに、ALEPSの調査では、最近、日系企業にとっては人材の流出といえる現象が起きている。日本に留学後、待遇がよく昇進のチャンスにも恵まれた欧米系企業に最初から就職する例が増えているほか、日系企業に就職した者も、しばらくして欧米系企業に転職したり、自分でビジネスを始めるケースも目立っている。
会長のザバさん自身も、6年間働いた某日系電機メーカーを辞め自ら事業を興した。「技術的にも十分貢献したのに、待遇面で全く評価されなかった」とその理由を説明する。

■迫られる課題への取り組み
次期首相となるアブドラは7月、訪問先の東京で、「前の世代からの政策を継続していく。外交についても同様だ」と述べ、日本との連携を重視する立場から東方政策を堅持する姿勢を表明した。
だが、留学生を通じての技術移転がねらい通り進んでいないことにどのように取り組んでいくのか。アブドラは東方政策の織Vしい方向性については口を閉ざしたままだ。
にほんの政府関係者はこう指摘する。「マハティールが創り出し推進してきた路線(東方政策)を、アブドラは今後どのように自ら味付けし、独自色を打ち出しながら継承していくのか見えてこない」。
一方、在マレーシア日本大使館、JBIC、国際協力機構(JICA)、マレーシア日本人商工会議所(JACTIM)など日本サイドは、東方政策の新しい枠組みづくりに向け動き出した。昨年秋から今年春にかけて東方留学生の動向調査を実施。優秀な人材の確保、東方留学・研修生の人材活用、技術移転の促進に向け新機軸を打ち出すべく検討を行っている。
「人材育成でのマハティールのねらいはほとんど達成されていない」。青春を東方政策に捧げたザバさんたちの指摘は重い。日マ新時代の幕開けとともに、東方政策も大きな分岐点にさしかかっている。




【書評】『アジア英雄伝』坪内隆彦
『産経新聞』2008年12月7日付朝刊、10頁
 西欧列強に蹂躙(じゅうりん)されたアジアの国々で植民地支配からの解放に苦闘した「志士」たちを日本との関係に着目して描いた列伝。取り上げられるのは、朝鮮開化派の指導者、金玉均▽フィリピン独立運動の先駆者、アンドレス・ボニファシオ▽西洋近代を徹底批判したパキスタンの詩人、ムハマンド・イクバール▽インドの国父と慕われるチャンドラ・ボース▽ビルマ(ミャンマー)独立の父・アウン・サンなど25人。
 著者は戦前に刊行された膨大な資料に当たり、「志士」たちを歴史的な文脈の中で生き生きと描く。同時に彼らと日本の「興亜陣営」の緊密な連携に迫る。そこから、かつてアジアには西欧に対抗すべく「汎アジア・ネットワーク」が構築されつつあったことが浮き彫りにされる。(展転社・2625円)





憲法記念日:護憲、改憲の各立場から 札幌で考える集会
『毎日新聞』北海道版2009年5月4日付朝刊
 憲法記念日の3日、護憲、改憲の立場からそれぞれ憲法を考える集会が札幌市内であり、9条の是非などを巡って議論が繰り広げられた。
 市民グループ17団体が開いた「憲法を私たちの手に!5・3北海道集会」には約250人が参加。北海道大の岡田信弘教授(憲法学)は講演で「憲法は70年代に国連などで議論が始まった平和的生存権などの先駆けだ」と語った。上田文雄市長は「憲法改正が迫っているという認識をどう広めるのか議論を重ねなければならない」と呼び掛けた。
 「日本を大切に思う道民の会」は「5・3憲法記念日講演会」を開催。日本マレーシア協会の坪内隆彦理事は参加者約25人を前に「憲法9条は日本の弱体化政策だった。人権重視の欧米的価値観と共同体や責任意識を大切にするアジア的価値観には違いがある。日本には日本の国柄に基づいた学問体系や法体系があってしかるべきだ」と訴えた。【円谷美晶、大谷津統一】





「擁護」「改正」両派が主張 憲法記念日各地で集会
『北海道新聞』2009年5月4日付朝刊
 憲法記念日の三日、道内各地で憲法について考える集会が行われ、護憲派と改憲派がそれぞれの考えを主張した。
 北海道平和運動フォーラムなどが札幌市北区で開いた集会では、上田文雄市長が「九条を柱とする憲法は誇り。世界の紛争は武力では解決できない」と九条堅持を訴えた。また、同市中央区の大通公園でも、八つの市民団体が合同で街頭集会を開き護憲を主張した。
 一方、市民団体「日本を大切に思う道民の会」が札幌市内で開いた改憲派の講演会では、月刊誌編集委員の坪内隆彦さんが「押しつけられた憲法ではなく、自らの手で憲法を作るために立ち上がろう」と呼びかけた。
 日本青年会議所は「憲法タウンミーティング2009」を全都道府県で開催。道内では北見市で開かれ市民ら約五百人が出席した。
 PHP総合研究所の永久寿夫常務の基調講演の後、永久氏と武部勤、横路孝弘の両衆議院議員が討議。九条については「戦争は二度と起こしてはいけないという考えがベースにある」と改正に否定的な横路氏に対し、武部氏は「九条の精神を保ったまま改正することは容認されるのではないか」と主張した。