坪内隆彦 のすべての投稿

女神との交感とジャワ舞踊

ジャワの伝統舞踊は、マタラム王国の宮廷舞踊と密接に関わっている。王の即位記念日にしか見ることのできない秘儀として伝えられたブドヨ・クタワン(Bedoyo Ketawang)の神秘性は、「ニャイ・ロロ・キドゥル」の伝説と深く結びついている。
「ニャイ・ロロ・キドゥル」は、物質的富よりも精神的価値を追求して宮殿から追放された中部ジャワの王女デウィ・ラトナ・スウィディが、南海を護る女神となったもので、マタラム王国の初代の王、スノパティ(Senopati)王は、彼女から国家の危機を救う神秘的な力をもたらす舞踊として、ブドヨ・クタワンを伝授されたという。
ブドヨ・クタワンは、大編成のガムランをバックに、花嫁姿の9人の踊り手による神秘的な舞踊である。
王は踊り手の中央に座り、女神と交感したという。そして、女神の化身でもある9人の娘の中から側室を選んだ。戦前までは、この踊りの踊り子は幼時から王宮に隔離して育てられたともいう(『日本経済新聞』1992年7月6日付夕刊)。 続きを読む 女神との交感とジャワ舞踊

自然と儀式と音楽の関係

フィリピンの作曲家で、民族音楽学者のホセ・マセダ氏は、東南アジア音楽の特徴である「音の連続性の概念」と密接に関わる東南アジアの時間論について、次のように述べている。
「東南アジアの大部分では、一日の時間は時計の時間では測られない。太陽年は知られてはいるが、それは一年ずつ加算することはしない。惑星や恒星の動きとは別に、時間は鳥の渡りや、植物の開花、乾季の虫の声といった自然事象で測られる」(『ドローンとメロディー』新宿書房、1989年、14頁)
この自然事象で測られる時間概念こそ、リズムや反復の用法、音楽形式の長さやその終わり方、終止形に反映しているというのだ。つまり彼は、アジアにおける人間と自然の関係に注目しているのである。 続きを読む 自然と儀式と音楽の関係

「神と人間の交霊」としてのアジア舞踊

一口にアジアの舞踊といっても、極めて多様である。ジャワやバリのみならず、それぞれの地域で伝統的舞踊は様々な形で発展を遂げてきた。それでも、東南アジア、アジアの舞踊には、一つの重要な特徴が見られる。それは、神と人との交感の手段という側面にほかならない。
東南アジア史の権威アンソニー・リード氏は、「インドの影響がなかった地域でも舞踏は精霊や神々と交信し祭への参加を誘う手段であった。…ジャワの人間が王の前に出る場合またはそこを退出する場合、ブギス人が誓いを立てる場合、戦争が布告される場合、アモク(amok)をかける場合などには踊りが伴った。これらから見れば、舞踏はおそらく感情を高め、エネルギーを集中し、日ごろ劇場で表現されているような神々や精霊の力を身につける手段と見なされていたと考えられる」と指摘している(Anthony Reid著、平野秀秋・田中優子訳『大航海時代の東南アジア〈1〉貿易風の下で』法政大学出版局、平成14年、273頁)。 続きを読む 「神と人間の交霊」としてのアジア舞踊

乃木希典大将と『中朝事実』

元治元年(一八六四)年三月、当時学者を志していた乃木希典は、家出して萩まで徒歩で赴き、吉田松陰の叔父の玉木文之進への弟子入りを試みた。ところが、文之進は乃木が父希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、「武士にならないのであれば農民になれ」と言って、弟子入りを拒んだ。それでも、文之進の夫人のとりなしで、乃木はまず文之進の農作業を手伝うことになった。そして、慶應元(一八六五)年、乃木は晴れて文之進から入門を許された。乃木は、文之進から与えられた、松陰直筆の「士規七則」に傾倒し、松陰の精神を必死に学ぼうとした。
乃木にとって、「士規七則」と並ぶ座右の銘が『中朝事実』であった。実は、父希次は密かに文之進に学資を送り、乃木の訓育を依頼していたのである。そして、入門を許されたとき、希次は自ら『中朝事実』を浄書して乃木にそれを送ってやったのである。以来、乃木は同書を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行していた。 続きを読む 乃木希典大将と『中朝事実』

神武創業の詔勅

肇国の理想は神武創業の詔勅に示されている。『日本書紀』は次のように伝える。

「我東(あずま)を征ちしより茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威を頼(かゝぶ)りて、凶(あだ)徒(ども)就戮されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ清らず、余(のこりの)妖(わざはひ)、尚梗(あれ)たりと雖も、中洲之地(なかつくに)(大和地方=引用者)復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都を恢(ひろめ)廓(ひら)き、大壮(みあらか)を規摸(はかりつく)るべし。而るに、今運(とき)此の屯蒙(わかくくらき)に属(あひ)て、民(おほみたから)の心朴素(すなお)なり。巣に棲み穴に住み習俗(しわざ)惟常となれり。夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。苟も民に利(さち)有らば、何にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且当に山林を披(ひらき)払ひ、宮室を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮め、上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし德(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(ただしき)を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為むこと、亦可からず乎。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か、可治之(みやこつくるべし)」 続きを読む 神武創業の詔勅

能勢岩吉『皇道政治早わかり』読書ノート

皇道精神の普及徹底を目指して中正会を結成した能勢岩吉は、昭和十二年に刊行された『皇道政治早わかり』において、皇道政治の特徴を次の三点に要約した。
一、忠誠 皇室を奉じて国家の発展を図ること
二、民意を愛し之に満足を与へる政治でなければならぬこと
三、国民相和し、協力一致して、国家国民の幸福を図ること

第一の特徴に関して、能勢は、皇道精神の中心となる思想は、忠孝であり、これを煎じつめれば、「中」の精神であると思うと書いている。彼は、「中」という文字が不偏不倚、過不足なく、公平無私の状態を表していると同時に、物の中心を表現していると説く。そして、これをさらに遡って考えると、『古事記』において、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神が「天御中主命」であることに鑑みても、この天地の全てを造った働きが「中」であると思われると主張する。
「此の『中』こそ、此の世界に活動してゐる公平無私で、慈悲至らざる無き創造の大生命であると思ふのであります」(能勢岩吉『皇道政治早わかり』中正会、昭和十二年、十七頁) 続きを読む 能勢岩吉『皇道政治早わかり』読書ノート

藤澤親雄の皇道政治論②

法と倫理の分裂
藤澤親雄は、神武創業の詔勅に示された肇国の理想が「道義確立と徳治政治」にあったと説き、建国と樹徳とは不離の関係にあり、法と国家倫理とは不可分の関係にあると主張した(『政治指導原理としての皇道』三十五頁)。
ところが、明治維新後、西欧の自由主義的学説が輸入されるにつれて、国体論も法律的観察と倫理的観察とに分裂したと、藤澤は指摘する。
そして彼は、大日本帝国憲法第一条の解釈に関して、自由主義的法学者たちが、国体の語を倫理的観念だとして、法の領域から排斥しようとしていると批判する。
つまり、自由主義的法学者たちは、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのを、単にわが国が法律上、君主政体であり、倫理的意味の国体を示すものではないと主張していると、藤澤は批判するのだ。自由主義的法学者たちは、君主政体とは法律制度を指す語であり、そこには過去の歴史を示す意味も、国民の倫理的感情を示す意味も含んでいないと解釈しようとしていると。そして、藤澤は次のように結んでいる。 続きを読む 藤澤親雄の皇道政治論②

藤澤親雄の皇道政治論①

三権分立と「ツカサ」、「ミコトモチ」
戦前、皇道政治論を説いた藤澤親雄は、個人主義、自由主義の弊害を説くとともに、当時の政治制度に対して皇道の立場から独自の見解を示していた。
彼は、三権分立制度は決して天皇の御政治の分裂を意味するものではないと主張したのである(藤澤親雄『政治指導原理としての皇道』国民精神文化研究所、昭和十年三月、二十七頁)。彼によれば、わが国の三権分立は、欧米のように「権力的分立」や「権力的分割」ではなく、「機能的分立」だからである。
彼はこの「機能的分立」が、古代における「ツカサ」、「ミコトモチ」の思想と相通ずるとし、次のように書いた。 続きを読む 藤澤親雄の皇道政治論①

古川栄一、「いよいよEAEC発足へ」と

マハティール元首相が提唱したEAEC(東アジア経済会議)構想の実現に尽力した古川栄一は、日本国際戦略センターを主宰し、シンポジウムや交流会など、あらゆる機会を捉えてEAEC実現のための啓蒙活動を展開した。
1997年12月に第一回の「ASEAN+日中韓」(ASEAN+3)首脳会議がクアラルンプールで開催されることになった。この会議を控えた11月、古川はニュースレターで「いよいよEAEC発足へ」と書いた。
実際、産経新聞社の内畠嗣雅記者は、ASEAN+3首脳会議開催の翌日、次のように報じた。
「マハティール首相が地域の発言力強化のために提唱した東アジア経済会議(EAEC)構想が形の上で実現した格好になった」