「浅見絅斎」カテゴリーアーカイブ

「『靖献遺言』を読んで涙を落とさない人は、不忠者に違いない」(山片蟠桃)


懐徳堂出身の町人儒者・山片蟠桃は『夢の代』において、栗山潜鋒の『保建大記』と浅見絅斎の『靖献遺言』を、以下のように絶賛しています。
「日本の書籍多しと雖、世教に渉るはなし、慶長以降武徳熾んにして、文家も亦少とせず、大儒数輩著す所の書、すこぶる孝弟仁義を説くこと多し、中にも栗山先生の保建大記及び浅見先生の靖献遺言これが冠たり…靖献は……屈原以降の八忠臣を主とし、挙てその余これに類したる忠臣を褒し、又これに反したる賊臣を貶して、天下の忠と不忠を正すこと私意を以てせず、万世にわたりて議論なかるべしとす……ああ浅見氏の骨髄この書にあり、此書をよみて涕を落さざる人は、その人必ず不忠ならん、又此の書を以てその浅見氏の人となりを想像すべし、ここにおいてか、予栗山・浅見二先生のこの書をつねに愛玩すること久し、ゆえに論ここにおよぶもの也、我邦の述作においては、先この書を以て最とし読べし、自から得る所あらん必ずこれを廃すべからず、ゆえに丁寧反復す」
もともと、懐徳堂初代学主に就いたのは、絅斎の門人だった三宅石庵でした。懐徳堂には、山片蟠桃に至るまで、崎門学の流れが続いていたのでしょう。

崎門学(尊皇派)研究書の書棚より


近藤啓吾著『山崎闇齋の研究』續神道史学会、昭和61年
近藤啓吾著『續 山崎闇齋の研究』神道史学会、昭和61年
近藤啓吾・金本正孝編『浅見絅斎集』国書刊行会、平成元年
近藤啓吾著『淺見絅齋の研究 増訂版』臨川書店、平成2年
近藤啓吾著『若林強齋の研究』神道史学会、昭和54年
近藤啓吾著『續 若林強齋の研究』臨川書店、平成9年

法本義弘の『靖献遺言』研究書①

連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の二冊目(浅見絅斎『靖献遺言』)執筆のために、法本義弘による研究書と向き合っています。700頁を超える『靖献遺言精義』、そのエッセンスを分かりやすくまとめた『淺見絅齋の靖獻遺言』。


近藤啓吾先生による体系的な研究と並んで、これら法本による著作も『靖献遺言』理解に非常に役立ちます。

興亜論者・波多野烏峰と『靖献遺言』

『亜細亜合同論』、『印度独立戦争』などの著者として知られる波多野烏峰が、『靖献遺言』の訓戒を刊行していた事実は、崎門学派、特に浅見絅斎学派と興亜思想の特別な関係を考察する材料だと言える。
なぜか国会図書館には所蔵されていないが、波多野烏峰訓解『靖献遺言』大正7年の存在が明らかになった。これとは別に、波多野春房訓解『靖献遺言』文会堂書店、明治43年があり、波多野烏峰と波多野春房とは同一人物である可能性が濃厚であると考えられる。

明治期興亜論と崎門学─杉田定一の民権論と興亜論

近世国体論の発展において極めて重要な役割を果たした、山崎闇斎を源流とする崎門学派は、明治維新の原動力となった。その維新の貫徹と興亜論に崎門学派が与えた影響もまた、極めて大きい。
拙著『維新と興亜に駆けた日本人』において、明治17年8月に上海に設置された東洋学館に、植木枝盛らとともに参画していた人物として杉田定一の名を挙げた(146頁)が、杉田こそ崎門学の系譜に当たる人物として注目すべきことがわかった。
杉田は、嘉永4(1851)年6月2日に越前国坂井郡波寄村(現在の福井県福井市)で生まれた。明治8(1875)年、政治家を志し上京、『采風新聞』の記者として活動、西南戦争後は自由民権運動に奔走した。彼の自由民権思想は国体思想と不可分であったし、また彼の興亜思想もまた国体思想に支えられていたと推測される。熟美保子氏は「上海東洋学館と『興亜』意識の変化」で杉田は興亜論を、概要次のように説明している。
杉田は、東洋学館開校1年前に「興亜小言」、それを修正した「興亜策」を著していた。これらの中で、杉田は、欧米は自由を求める国といいながらも実際にはアジアの自由を奪っていると非難し、「自由の破壊者」と批判している。また、アジアの現状について、それぞれがバラバラであり、互いに助け合うという事がなく、欧米人に侵略されつつある状況を嘆いている。そして、日本と清国の関係について「唇歯相依輔車相接スル」と記述していた。
こうした主張を展開した杉田は、三国滝谷寺の道雅上人とともに、崎門学派の吉田東篁(とうこう)に師事していたのである。近藤啓吾先生の『浅見絅斎の研究』は、以下のような杉田の回顧談を引いている。
「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」

浅見絅斎邸址

2012年8月、『月刊日本』の新連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の二冊目(浅見絅斎『靖献遺言』)の取材のために、京都市中京区錦小路の「浅見絅斎邸址」を訪れました。錦小路は、かつて浅見先生の私塾があった場所です。錦小路から「錦陌(きんぱく)講堂」と名付けられていました。

弟子の稲葉迂斎による『迂斎先生学話』で描かれた状況を思い浮かべました。
「浅見先生の講釈を聞きにくる者は四十人ほどいる。講釈場の広さは二間(一間=一・八メートル)と八間ほどだ。先生は台所の方から出てこられる。入り口のところに敷物を敷き、そこにすぐ座り、大きな見台(本を読むときにのせる台)を前にしてあぐらをかいて講義なさる。先生が出ていかれるときには、みな平伏して頭をあげている者など一人もいない」
浅見先生は、はじめの名を順良といい、後に安正となりましたが、絅斎と号していました。この「絅斎」もまた、錦小路の「錦」から「錦を衣て絅(うすぎぬ)を尚(くわ)う」という教えに着想を得たものです。
『中庸』の一節「錦を衣て絅を尚う」とは、華々しい錦の着物の上に、絅(うすい上着)をはおって、その輝きを目立たなくするという意味で、自らの輝きを人に見せびらかしたりしないという戒めの言葉です。