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『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(「宮崎正弘の国際情勢解題」令和2年8月26日)

〈徳川幕府を死守せよ(会津初代藩主、保科正之の遺言)を遵守した慶勝の弟ふたり
  王権が優先すると尾張藩初代藩主は最初から家康政治とは逆さまの発想をしていた
  ♪
坪内隆彦『徳川幕府が怖れた尾張藩』(望楠書房)
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 副題に「知られざる尊皇倒幕論の発火点」とある。
それが徳川御三家の筆頭、尾張藩だという。
「えっ。?」
 幕末の黒白を決めた戊辰戦争は鳥羽・伏見から始まり、薩長の田舎侍に惨敗した慶喜は大阪を捨てて、会津藩主、桑名藩主をともない船で脱走した。みっともない、サムライの美意識にもとると痛烈な批判を産んだ。慶喜は王権の前に怯み、偽の錦旗に震えた。
 会津藩士も新撰組も幕府軍も戦場に置いてきぼりを食らった。
 それにしても、徳川御三家の筆頭は尾張藩である。八代将軍吉宗は和歌山藩から十五代は水戸藩からでたが、尾張には将軍職は廻らなかった。だからその恨みから戊辰では最初に裏切って官軍に付いたと考えるのは短絡的であり、物事には心境の変化、情勢の激変、新状況へ対応がともなう。ましてや、思想戦の趣が濃厚だった。
 こうした尾張藩の倒幕への傾斜が薩長の勝利をもたらす大きな原因となるのだが、何故か、近・現代史家たちは、この重要ポイントを軽視してきた
 その理由として坪内氏は次の諸点をあげる
 第一に薩長は自分たちが中心の薩摩史観を優先させ、徳川政治を過小評価した。
 第二に幕府と尾張藩の長い軋轢は、水戸藩ほど評判とはならなかった。
 第三に水戸は水戸学を確立していたが、尾張には尾張学がなかった。というのも慶勝が藩主となるまでの五十年にわたって幕府から押しつけ養子を強要された結果、国学が停滞した時期が半世紀のも及んだからではないか、とする。
 しかし、評者、もう一点付け加えるとすれば、武士道に悖り、侍の美意識に反すると誤解を受けたことが尾張藩の過小評価に繋がったのではないか。
 ともかく幕末の尾張藩主は徳川慶勝である。
 藩主の弟君たちは会津若松の松平容保。もうひとりは桑名藩主、松平定敬。いずれも官軍と最期まで勇敢に戦い、大砲という近代兵器に叶わずに降伏した。しかし尾張藩は徳川御三家の筆頭。その尾張藩がなぜ宗家に楯突き、西郷、木戸軍の先頭に立ったのか。長い間、維新史の謎とされたミステリーを解いた。
 著者の坪内隆彦氏は元日本経済新聞記者、マハティールとの単独会見などで知られ、現在は『月刊日本』編集長。かたわら意欲的な執筆を続け、歴史著作には『GHQが恐れた崎門学』など問題作がある。
 尾張藩主初代は徳川義直。じつは、この人物が水戸黄門様に影響を与えた。徳川義直は家康の九男である。
 幼い頃から学問が好きで尊皇思想に目覚め、「王命に依って催さるる事」という基本の政治思想確立するのだから、歴史は皮肉なのである。幕府が命じようとも勅命にしたがうことが優先するという遺訓である。
 尾張藩主の哲学は水戸光圀に強烈な思想的影響を与え、江戸の幕府とは「尋常ならざる」緊張関係になっていた。ただし尾張藩での国学は本居宣長、賀茂真淵らが読まれたが、なぜか平田熱胤は軽視された。平田学はむしろ薩摩藩で圧倒的な影響力があった。
 第14代尾張藩主・徳川慶勝は初代藩主の家訓を守る。
「王命に依って催さるる事」とは、幕府を自らが倒すことに繋がり、水戸藩の尊王攘夷派に同時並行した、基本政治哲学優先を貫いた。その結果が徳川宗家十五代の慶喜を蟄居に追い込み、電光石火のごとくに幕府を倒壊させる。
 倒幕というより御三家それぞれの自壊作用が半分ほど官軍勝利に影響したのではないのか。
 実際の倒幕に火をつけたのは水戸であり、あまりの過激さは井伊直弼を売国奴として、桜田門外の変で葬り、精鋭武士をあつめた水戸天狗党は反主流派の変節などで残酷な運命をたどった。
 若き日の吉田松陰は、この水戸へ留学し、会沢正志斉の影響を受けて攘夷思想を固めた。おなじく水戸の藤田東湖は、西郷隆盛に甚大な影響を与えた。
 水戸が維新爆発の発火点であり、尾張は最終のダメ押し、表面の事象をみれば、徳川御三家の内訌という悲劇になる。
しかし内訌は、水戸藩のなかでも、尾張藩のなかでも起きた。もっとも悲劇的な内訌は水戸藩で、「門閥派が水戸藩の実権を握り、天狗党は降伏、(中略)江戸幕府は武田耕雲斎ら二十余名を処刑、さらに諸生派が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した」
その復讐戦も後日、行われ、つまるところ水戸に人材が払底する。
 元治元年(1864)朝廷と幕府は長州征伐をきめるが、政党軍の総督に慶勝が任命されてしまった。
「そこで慶勝は西郷に籠絡されて長州藩を屈服させる機会を逃がした」と痛烈に批判されてきたが、当初から融和策の慶勝が、その構想を西郷とすりあわせ、長州藩の三家老斬で長州を許すことに決めていたのだ。
 第二次長州征伐は慶勝が下交渉をしていた越前、薩摩の反対を押し切っておこなったため、幕府征討軍の士気がなく惨敗を重ねた。かえって大政奉還へと到る。すでに公武合体論は蒸発しており、薩長は倒幕路線に急傾斜していた。慶勝は、公武合体路線論者だったし、弟二人のこともあって、いきなり倒幕に傾いたのではなく、葛藤があった。
 尾張藩では佐幕派の有力者が残っていたため偽の勅命だと言って、処断した。この「青松葉事件」によって尾張藩は倒幕で統一された。
 尾張は、家臣団四十余名を勤王誘引斑として近隣の諸藩を周り、三河、遠江、駿河、美濃、信濃、上野など東海道沿道の大名、旗本領へ派遣し、この慶勝のオルグによって、薩長などの官軍は、東海道を進軍するに、なにほどの抵抗も反撃にも遭遇せず、山梨で新撰組の多少の抵抗はあったものの、すんなりと江戸へ進んだ。
 尾張藩も、会津同様に悲運に見舞われたとしか言いようがない。
 しかし明治十年の西南戦争では、会津旧藩士が「戊辰のかたき」として官軍の先鋭部隊、斬り込み隊として闘ったが、尾張藩士には、そうした動きもなかった。
 筆圧を、その重圧を感じる一冊である。〉

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『維新と興亜』第3号)

 『維新と興亜』(崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌)令和2年8月号に、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』の書評を載せていただきました。評者は、大アジア研究会の小野耕資代表です。
『維新と興亜』(崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌)令和2年8月号
 〈尾張藩にとっての明治維新―。それは一言では語りつくせぬほどの苦悩の歴史である。尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面では当然幕府側についてもおかしくないだけの存在であった。だが、結果的に尾張藩は新政府側につき、徳川幕府に相対する側となった。それはなぜか? それを理解するためには、初代藩主義直が残した「王命に依って催さるる事」の言葉とその背景、そして徳川幕府との暗闘の歴史を見なければならない。そんな隠された歴史に迫ったのが本書である。 続きを読む 『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『維新と興亜』第3号)

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『不二』令和2年10月号)

「初代義直から幕末の慶勝まで、様々な紆余曲折を経てゐるが、本書では、徳川御三家の家格にありながら、『尊皇倒幕』路線に大きく寄与した尾張藩の知られざる一面を浮彫にしてゐる」
〈図書紹介〉坪内隆彦著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』(『不二』令和2年10月号)
『不二』(不二歌道会機関誌)令和2年10月号(10月25日発行)に、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』の書評を載せていただきました。評者は『敗戦復興の千年史』の著者・山本直人氏です。

河村たかし名古屋市長と面会─『徳川幕府が恐れた尾張藩』を通じて

令和2年9月、名古屋市役所で河村たかし市長と面会し、尾張藩の歴史などについてお話をさせていただく機会に恵まれました。名古屋城調査研究センター主幹の栗本規子氏、同主査の原史彦氏、名古屋市観光文化交流局長の松雄俊憲氏にもご同席いただきました。誠に有難うございました。
名古屋市長と河村たかし先生と

拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』で、河村先生の祖先の功績、尾張藩初代藩主・義直公の遺訓「王命に依って催さるる事」の碑など名古屋城に纏わることを書いたのがきっかけです。
以下、尊皇思想発展において河村家の果たした役割について簡単に紹介いたします。
「王命に依って催さるる事」の継承においては、垂加神道派が重要な役割を果たしました。義直の遺訓は、第4代藩主・吉通(垂加神道派)の時代に復興し、吉通に仕えた近松茂矩(垂加神道派)が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化しました。拙著では、その過程で河村先生の祖先に当たる河村家が大きな役割を果たした可能性を指摘しました。河村家の先人としては、河村秀穎(ひでかい)・秀根兄弟と秀根の二男・益根等の名前が知られています。
 尾張藩書物奉行などを歴任した秀穎は、享保3(1718)年に河村秀世の長男として生まれ、天野信景に学びました。一方、秀穎の弟・秀根は、享保8(1723)年に生まれ、将軍吉宗にチャレンジした第7代藩主・宗春の表側小姓を務めました。秀根元服の時には宗春が鋏をとって前髪を落としたともいいます。皇學館大学教授の松本丘先生が作成した「垂加神道系譜」には、垂加神道派の吉見幸和の門人として、藩主吉通、近松茂矩、河村秀穎、秀根が名を連ねています。
 秀頴は安永2(1773)年に、白壁町にあった自宅の2万余の蔵書を同好の人びとに公開することにしました。『論語』にある「以文会友」からとって、この書庫を「文会書庫」と名づけたのが、竹内式部の宝暦事件に連座した伏原宣條だったのです。伏原家(清原家)は平安時代中期の明経博士を務めてきた家であり、河村家との交流があったようです。
 一方、河村家は日本学の発展においても重要な役割を果たしています。秀根は天明5(1785)年に、『日本書紀集解』の執筆に着手、巻15までを書き上げました。ただ、秀根は寛政4(1792)年6月に未完のまま力尽きました。この仕事を引き継いだのが二男の益根であり、その成果は日本書記研究史上「不朽の金字塔」とも評されています。

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』インタビュー

令和2年9月6日に都内で開催された崎門学研究会において、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』について、同研究会の折本龍則代表にインタビューしていただいた。
★動画は崎門チャンネルで。

坪内隆彦『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』

尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面で幕府側についてもおかしくはなかった。ところが尾張藩は最終的に新政府側についた。この決断の謎を解くカギが、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」である。事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
この考え方を突き詰めていけば、尊皇斥覇(王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥ける)の思想となる。その行きつく先は、尊皇倒幕論である。

義直の遺訓は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて19世紀半ば、第14代藩主・慶勝の時代に、茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。「王命に依って催さるる事」の思想がその命脈を保った理由の一つは、義直以来の尊皇思想が崎門学派、君山学派、本居国学派らによって継承されていたからである。
実は初代義直以来、尾張藩と幕府は尋常ならざる関係にあった。幕府は尾張藩に潜伏する「王命に依って催さるる事」を一貫して恐れていたのではないか。何よりも幕府は、鎌倉幕府以来の武家政治が覇道による統治とみなされることを警戒していた。 続きを読む 『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』インタビュー

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』参考文献②

◎主要書籍

 『垂加神道』(上・下)、神道大系編纂会 昭和53年~59年
 NHKプラネット中部『写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断』日本放送出版協会、平成22年
 阿部秋生『河村秀根』三省堂、昭和17年
 井上智勝『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』講談社、平成25年
 磯前順一・小倉慈司編『近世朝廷と垂加神道』ぺりかん社、平成17年
 羽賀祥二、名古屋市蓬左文庫『名古屋と明治維新』風媒社、平成30年
 加来耕三『徳川宗春 尾張宰相の深謀』毎日新聞社、平成7年
 河合敦『徳川幕府対御三家・野望と陰謀の三百年』講談社、平成23年
 河村秀根・益根編著『書紀集解 附録 河村氏家学拾説』臨川書店、昭和63年
 梶山孝夫『義公漫筆』錦正社、令和2年
 岸野俊彦『幕藩制社会における国学』校倉書房、平成10年
 岩田隆『東海の先賢群像 続編』桜楓社、昭和62年
 岩田隆『東海の先賢群像』桜楓社、昭和61年
 鬼頭素朗『尾張学概説』奎星社、昭和15年
 亀井宏『尾張の宗春』東洋経済新報社、平成7年
 近藤啓吾『山崎闇斎の研究』神道史学会、昭和61年
 近藤啓吾『続・山崎闇斎の研究』神道史学会、平成3年
 近藤啓吾『続々・山崎闇斎の研究』神道史学会、平成7年
 拳骨拓史『兵学思想入門: 禁じられた知の封印を解く』筑摩書房、平成29年
 皇学館大学出版部『皇学論集 高原先生喜寿記念』(田辺裕「徳川義直の神道研究」所収)、昭和44年
 高橋美由紀『伊勢神道の成立と展開 増補版』ぺりかん社、平成22年
 高埜利彦『江戸幕府と朝廷』山川出版社、平成13年
 佐伯有義等編『神祇全書』皇典講究所、明治39年
 三田村鳶魚『将軍家の御家騒動』グーテンベルク21、平成26年
 山下昌也『徳川将軍家の真実』学研プラス、平成19年
 山口和夫『近世日本政治史と朝廷』吉川弘文館、平成29年
 市橋鐸『松平君山考』名古屋市教育委員会、昭和52年
 手島益雄『愛知県勤王家伝』東京芸備社、大正13年
 手島益雄『愛知県儒者伝』東京芸備社、大正元年
 出村勝明『吉田神道の基礎的研究』臨川書店、平成9年
 松永義弘『柳生一族の陰謀』富士見書房、昭和58年
 松本丘『垂加神道の人々と日本書紀』弘文堂、平成20年
 城山三郎『冬の派閥』新潮社、昭和60年
 植松茂彦編『鈴門遺草』中日出版社、昭和59年
 森田康之助『湊川神社史 中巻 景仰篇』湊川神社社務所、昭和53年
 秦達之『尾張藩草莽隊―戊辰戦争と尾張藩の明治維新』風媒社、平成30年
 水谷盛光『実説名古屋城青松葉騒動―尾張徳川家明治維新内紛秘話』名古屋城振興協会、昭和47年
 石岡久夫編『日本兵法全集 第7 諸流兵法 下』人物往来社、昭和43年
 折本龍則『崎門学と『保建大記』―皇政復古の源流思想』崎門学研究会、令和元年
 大鳥居武司『天野信景の研究』大鳥居武司、平成20年
 中部日本放送株式会社編『宮廷の雅 有栖川宮家から高松宮家へ』中部日本放送、平成23年
 中野雅夫『革命は芸術なり 徳川義親の生涯』学芸書林、昭和52年
 塚本学・新井喜久夫『愛知県の歴史』山川出版社、昭和45年
 田中善一『熱田神宮とその周辺』名古屋郷土文化会、昭和43年
 田辺裕『尾張藩と真清田神社』真清田神社社務所、平成13年
 渡辺博史『幕末尾張藩の深慮遠謀―御三家筆頭の尾張が本当に何もしていなかったのか』ブックショップマイタウン、平成27年
 藤田覚『江戸時代の天皇』講談社、平成30年
 徳川義親『最後の殿様―徳川義親自伝』講談社、昭和48年
 徳川義直著、尾張徳川黎明会編『類聚日本紀 解説』尾張徳川黎明会、昭和14年
 徳川美術館編『徳川義直と文化サロン : 尾張家初代藩主義直生誕400年 : 秋季特別展』徳川美術館、平成12年
 徳川黎明会徳川林政史研究所編『源敬様御代御記録 第1~4』八木書店古書出版部
 南原幹雄『御三家の反逆 上』角川書店、平成7年
 日本史籍協会編『尾崎忠征日記 1、2』東京大学出版会、昭和59年
 平賀泥水『山県大弐と宝暦・明和事件 知られざる維新前史 Kindle版』日吉埜文庫、平成25年
 北川宥智『徳川宗春 〈江戸〉を超えた先見力』風媒社、平成25年
 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第1巻 文教編』名古屋市教育委員会、昭和35年
 名古屋市教育局文化課『徳川義直公と尾張学』昭和18年
 名古屋市博物館編『尾張名古屋の古代学 江戸時代の名古屋人がみた古代』名古屋市博物館、平成7年
 名古屋市蓬左文庫編『名古屋叢書 三編第11巻』(楽寿筆叢)、名古屋市教育委員会、昭和60年
 野口勇『維新を動かした男―小説尾張藩主・徳川慶勝』PHP研究所、平成10年
 有馬祐政編『勤王文庫 第1編 教訓集 第1』大日本明道会、大正8年
 林英夫編『図説 愛知県の歴史』河出書房新社、昭和62年
 林董一『将軍の座―徳川御三家の政治力学』風媒社、平成20年

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』参考文献①

◎国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な書籍

 庵原小金吾『名古屋史談』東壁堂、明治26年
 井上哲次郎・有馬祐政編『武士道叢書 中巻』(特に兵要録抄録等)、博文館、明治39年
 荻野錬次郎『尾張の勤王』金鱗社、大正11年
 河村秀根『書記集解 首巻』国民精神文化研究所、昭和15年
 近松彦之進編『昔咄 抄録』国史研究会、大正4年
 近松茂矩他著『円覚院様御伝十五箇条』名古屋史談会、明治45年
 佐賀楠公会編『楠氏余薫』木下泰山堂、昭和10年

 佐藤堅司『日本武学史』大東書館、昭和17年
 佐野重造編『大野町史』(特に第18節「勤王と大野」)大野町、昭和4年
 山本信哉編『神道叢説』国書刊行会、明治44年
 山野重徳『国会請願者列伝 通俗 初編』(特に荒川定英)博文堂、明治13年
 手島益雄『愛知県城主伝』東京芸備社、大正13年
 小菅廉編『尾参精華』秀文社、明治32年
 西村時彦『尾張敬公』名古屋開府三百年記念会、明治43年
 天野信景『塩尻 上』帝国書院、明治40年
 天野信景『塩尻 下』帝国書院、明治40年
 田部井鉚太郎編『愛知県史談』片野東四郎等、明治26年
 徳川宗春『温知政要』秋廼屋秋楽、天保7年
 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店、昭和9年
 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第2』川瀬書店、昭和9年
 名古屋市編『名古屋市史 政治編 第1』名古屋市、大正4年
 名古屋市教育会編『済美帖』名古屋市教育会、大正4年
 名古屋市立名古屋図書館編『郷土勤皇事績展覧会図録』郷土勤皇事績展覧会図録刊行会、昭和13年
 野村八良『国文学研究史』(特に13 吉見幸和及び河村秀穎、同秀根)、原広書店、大正15年
 『越中史料 巻3』富山県、明治42年
 『吉見幸和集 第1巻』国民精神研究所、昭和17年
 『吉見幸和集 第2巻』国民精神研究所、昭和17年

「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)

 令和2年7月、松岡正剛氏の『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)が刊行された。「大アジア」というタイトルに驚き、筆者の問題意識と重なる多くの書物が手際よく紹介されていることもあり、熟読した。
 さて、同書において、12年も前に書いた拙著『アジアの英雄たち』(展転社)を圧倒的ページ数(287~353頁)で取り上げていただいたことに、心より感謝申し上げる。
 〈著者は日本経済新聞出身のジャーナリスト兼ライターの坪内隆彦で、「月刊日本」連載の『アジアの英雄たち』をもとに充実させた。タイトルに『アジア英雄伝』とあるように、あからさまな大アジア主義称揚の視点で綴られている。冒頭に頭山興助の「推薦の辞」が飾られているのだが、この人は頭山満のお孫さんだし、あとがきには田中正明の『アジア独立への道』(展転社)からの影響を記している。田中は松井石根の私設秘書から近現代アジア史の著述に向かい、『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)、『東京裁判とは何か』(日本工業新聞社)などを書いた。
 そういう一冊ではあるのだが、当時の大アジア主義にかかわった人物を点検するには浩瀚かつ便利な一冊になっている〉
 松岡氏が「そういう一冊ではあるのだが」と、わざわざ前置きされたことについては、いろいろ考えるところがあるが、筆者が「大アジア主義称揚の視点」で綴っていたことを否定するつもりはない。
 ただ、大アジア主義といっても、在野のアジア主義と政府のアジア主義には違いがある。筆者は一貫してアジアの亡命志士たちが日本政府の政策に失望した事実を強調してきた。拙著の中でも次のように書いている。 続きを読む 「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

『GHQが恐れた崎門学』書評7(平成29年11月)

『明治聖徳記念学会紀要』復刊第54号(平成29年11月)
 『明治聖徳記念学会紀要』復刊第54号(平成29年11月)に、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を掲載していただきました。
〈著者は日本経済新聞社に入社し記者として活動するが、平成元年に退社してフリーランスとなり、現在は『月刊日本』編集長などを務めている。坪内氏は『月刊日本』で平成二十四年から「明日のサムライたちへ」と題する記事を連載し、明治維新へ影響を与えた国体思想の重要書を十冊紹介した。本書はそこから特に五冊を取り上げ再編集したものである。GHQは日本占領の際、政策上都合の悪い「国体」に関する書籍を集め焚書した。崎門学の系統の書籍がその中に入っており、本書の題名の由
来となっている。
 近年は明治維新の意義や正統性に疑義を呈する研究が盛んである。それに対して、本書は明治維新を実現させた志士たちの精神的な原動力として山崎闇斎の崎門学をあげ、その「日本」の正統をとり戻した意義を一般に啓蒙せんとしている。崎門学は天皇親政を理想とし、そこでは朱子学は易姓革命論を否定する形で受容された。後に、闇斎は他の複数の神道説の奥義を学んだうえで自ら垂加神道を確立する。
 本書で取り上げた崎門学の系譜を継ぐ五つの書とは『靖献遺言』、『保建大記』、『柳子新論』、『山陵志』、『日本外史』であるが、書籍ごとに章を立て(『保建大記』と『山陵志』は同章)広く関連人物にも解説は及んでいる。特に、闇斎の弟子・浅見絅斎著『靖献遺言』は幕末の下級武士のバイブル的存在であったし、『日本外史』は一般にも読まれ影響力大であった。五つの書の中で、著者は『柳子新論』に対してだけは、湯武放伐論を肯定している箇所について部分的ではあるが否定的評価をしている。補論では、著者が大宅壮一の影響下にあるとみなす原田伊織の明治維新否定論への異議申し立てを展開している。「魂のリレーの歴史」として、「日本」の正統を究明せんとする崎門学の道統についての入門書として、有志各位にお勧めする。〉

康有為─もう一つの日中提携論

康有為
日清両国の君主の握手
 「抑も康有為の光緒皇帝を輔弼して変法自強の大策を建つるや我日本の志士にして之れに満腔の同情を傾け此事業の成就を祈るもの少なからず、此等大策士の間には当時日本の明治天皇陛下九州御巡幸中なりしを幸ひ一方気脈を康有為に通じ光緒皇帝を促し遠く海を航して日本に行幸を請ひ奉り茲に日清両国の君主九州薩南の一角に於て固く其手を握り共に心を以て相許す所あらせ給はんには東亜大局の平和期して待つべきのみてふ計画あり、此議大に熟しつつありき、此大計画には清国には康有為始め其一味の人々日本にては時の伯爵大隈重信及び子爵品川弥二郎を始め義に勇める無名の志士之に参加するもの亦少からざりしなり、惜むべし乾坤一擲の快挙一朝にして画餅となる真に千載の恨事なり」
 これは、明治三一(一八九八)年前後に盛り上がった日清連携論について、大隈重信の対中政策顧問の立場にあった青柳篤恒が、『極東外交史概観』において回想した一文である。永井算巳氏は、この青柳の回想から、日清志士の尋常ならざる交渉経緯が推測されると評価している。両国の志士たちは、日本は天皇を中心として、中国は皇帝を中心として、ともに君民同治の理想を求め、ともに手を携えて列強の東亜進出に対抗するというビジョンを描いていたのではあるまいか。
 変法自強運動を主導した康有為は、一八五八年三月に広東省南海県で生まれた。幼くして、数百首の唐詩を暗誦するほど記憶力が良かったという。六歳にして、『大学』、『中庸』、『論語』、『朱注孝経』などを教えられた。一八七六年、一九歳のとき、郷里の大儒・朱九江(次琦)の礼山草堂に入門している。漢学派(実証主義的な考証学)の非政治性・非実践性に不満を感じていた朱九江は、孔子の真の姿に立ち返るべきだと唱えていた1。後に、康有為はこの朱九江の立場について、「漢宋の門戸を掃去して宗を孔子に記す」、「漢を舎て宋を釈て、孔子に源本し」と評している。 続きを読む 康有為─もう一つの日中提携論