「日本の真価」カテゴリーアーカイブ

忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 一

一、肇国の理想と家族的共同体
「人民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである」(宇治谷孟訳)
『日本書紀』は、肇国の理想を示す神武創業の詔勅をこのように伝える。皇道経済論では、国民を「元元」(大御宝)として、その安寧を実現することが、肇国の理想であったことを強調する。
山鹿素行の精神を継承した経済学者の田崎仁義は、皇道の国家社会とは、皇室という大幹が君となり、親となって永遠に続き、親は「親心」を、子は「子心」を以て国民相互は兄弟の心で相睦み合い、純粋な心で結びついている国家社会だと説き、それは力で社会を統制する「覇道の国家社会」とも、共和国を指向する「民道の国家社会」とも決定的に異なるとした[i]
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忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか はじめに

はじめに
平成二十二年のクリスマスの日、漫画「タイガーマスク」の主人公の名義で、群馬県の児童相談所にランドセルが届けられた。これをきっかけに、全国で続々と施設などへランドセルや文房具などを贈る人々が現れた。この間、鳥取県琴浦町では大晦日から降り続いた雪によって、車千台が国道九号線に立ち往生した。このとき、付近の住民たちは「トイレ」という看板を作って家のトイレを開放したり、ありったけの米を炊き、おにぎりを作って配って回ったりしたという。
小泉政権時代に強まった新自由主義路線により、わが国の共同体は破壊され、互いに助け合って生きていくというわが国の美風が失われたと批判されてきたことを考えると、こうしたニュースはせめてもの救いと感じられる。
新自由主義路線は一旦頓挫したかに見えたが、いま環太平洋パートナーシップ協定(TPP)をめぐって、再び息を吹き返そうとしている。TPPは、決して第一次産業に限定された問題ではなく、アメリカの「年次改革要望書」による規制緩和要求と同様に、国民生活に直結する制度変更の危険性を孕んでいる。市場の拡大、経済効率、国際基準を旗印にして、再び規制緩和が叫ばれようとしている。しかし、こうした動きに対する警戒感が強まらないのは、わが国本来の経済観自体が過去の遺物として見失われているからではなかろうか。皇道経済論の発想を理解することは、わが国本来の経済観を再認識する契機となるだろう。
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蒲生君平墓表に刻まれた藤田幽谷の撰文

 ああ君蔵は、いつも関東の処士をもって任じ、このため生活は困窮を免れなかったけれども、なお天下の奇男子と称賛するに値する。どうして、かの翩々たる俗儒が、先生といわれているのと同列に扱われようか。私が聞くところでは、君蔵は最期に臨んで、なお天地の正気を称し、三宝の説を述べたという。すなわち、たとえ瞑没するとも、精神は天地の間にとどまって、その正気を意中の人に授けるであろうと。ここにおいて、古人が謂う『死して亡びない者』(『孝経』三十三章)とは、君蔵のことをいうのであろうか。ああ、もはやこのような人傑とは、幽明境を距ててしまった。この私は、誰と語り、誰に従ったらいいのだろうか。
(撰文の結語、安藤英男訳)

会沢正志斎『新論』①

 文政9(1826)年、会沢正志斎は藩主・徳川斉脩に『新論』を上呈した。その冒頭には「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始る所にして、天日の嗣、世宸極を御し、終古易らず、固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく、宇内を照臨し、皇化の曁ぶ所、遠迩有る無かるべし。今、西荒蛮夷は脛足の賎を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履、敢て上国を凌駕せんとす。何ぞそれ驕れるや」とある。
 写真は、近藤啓吾先生より頂戴した『新論』。奥付に「會澤恒蔵著 安政四丁巳年八月」とある。

頭山満─維新・興亜陣営最大のカリスマ

南洲の魂を追い求めて─終生の愛読書『洗心洞箚記』

大正十年秋、後に五・一五事件に連座する本間憲一郎は、(とう)(やま)(みつる)のお伴をして、水戸の那珂川で鮭漁を楽しんでいた。船頭が一尾でも多く獲ろうと、焦りはじめたときである。川の中流で船が橋に激突、その衝撃で船は大きく揺れ、船中の人は皆横倒しになった。そのとき、頭山は冬外套を着て、両手をふところに入れていた。
「頭山先生が危ない!」
本間は咄嗟に頭山の身を案じた。川の流れは深くて速い。転覆すれば命にかかわる。
ところが、本間が頭山を見ると、頭から水飛沫を被ったにもかかわらず、ふところに手を入れたまま、眉毛一つ動かさず悠然としている。驚きもせず、慌てもせず、いつもの温顔を漂わせていたのである。「これが無心ということなのか」。
この体験を本間は振り返り、頭山が大塩平八郎の心境に到達していたものと信じていると書き残している。大塩は天保三(一八三二)年、中江藤樹の墓参の帰り、琵琶湖で暴風に遭い、転覆の危機に直面した。このときの教訓を大塩は、その講義ノート『洗心洞箚記』に記している。 続きを読む 頭山満─維新・興亜陣営最大のカリスマ

天皇の火葬をどう考えるべきか─蒲生君平の主張を再考しよう

 天皇の葬法の在り方を考える上で蒲生君平の議論は極めて示唆に富んでいる。
 〈君平は『山陵志』において、持統天皇(在位:六九〇~六九七年)のときから火葬が行われるようになるなど、仏教の流入による大きな変化に注目しました。君平は、仏教の風習の蔓延によって、堂塔を山陵に見立て、僧徒が埋葬のことを司り、謐号を追贈することもなく、尊号を停止することになったと批判しました。そして、次のように厳しく仏教流入、僧徒の権力拡大の弊害を説いたのです。
 「…政治の大綱がゆるんで、官吏は職に勤めず、諸陵寮は廃され、山陵にたいする奉幣使は無くなった。こうした管理不在の結果は、山陵を掘り起こして、その蔵品を盗み去る者さえ出て、少しもおじおそれることさえなくなった。下って戦国乱世になると、その禍害は以上のごときに止まらない。いたるところの堂塔は、兵火にあって滅失し、塔中の蔵品も消亡した。ああ、何と慨嘆に堪えぬ次第ではないか。幸いにして完全に保たれているのは、ただ京都の泉湧寺諸陵、及びその他の二、三に止まっている」 続きを読む 天皇の火葬をどう考えるべきか─蒲生君平の主張を再考しよう

坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)

御用学者・林羅山
 慶長十(一六〇五)年四月、若き林羅山は徳川家康と初めて対面しました。二度目の会見の際、家康は羅山に「後漢の光武帝は漢の高祖の何代目であるか」、「前漢の武帝の返魂香(伝説上の香)はどの書に出ているか」、「屈原の愛した蘭の品種は何か」と尋ねました。羅山はいずれの質問にも正しく回答しましたが、これらの質問は儒学の本質と関わりのない愚問です。
 『林羅山』を著した堀勇雄氏は、「この難問・愚問はこの後の家康と羅山との関係─聖賢の道を求める師と弟子との関係ではなく、学問知識の切売りをする雇傭関係を表徴するといえる」と書いています。
 さらに、堀氏は、家康は天下の覇権を握り政治を行うために、羅山の該博な知識を利用しようとしただけであり、いわば百科事典代わりに羅山を側近に置こうとしたのであると書いています。
 当時、幕府の官職に儒者を登用した先例はありませんでした。そこで、家康は羅山を僧侶の資格で登用することにしたのです。慶長十二年、羅山は家康の命によって剃髪し、名を道春(僧号)と改めました。堀氏は「廃仏を唱える羅山が剃髪したのは、聖人の道を行おうとする実践的精神を放棄して、単に博学と文才を売物とする職業的学者の立場を選んだことを意味する」と批判しています。家康に取り入った羅山は、家康の権力によって収集された貴重本の充満した書庫を管理するようになり、慶長十五年には幕府の外交文書を起草するようになりました。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)

坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)

対外的危機意識が生んだ国民的自覚と伊勢神道
 日本的自覚、国体への目覚めのきっかけは、対外的危機認識の高まりと密接に関わっています。本連載第二回(平成二十四年九月号)でも、永安幸正氏の主張を援用しながら、隋唐国家の膨張期(五八一~九〇七年)に続く、第二の危機の時代として蒙古襲来の時代を挙げました。文永の役(一二七四年)、弘安の役(一二八一年)と二度にわたる蒙古襲来こそ、日本的覚醒の大きな引き金となり、神道思想においても一大転換をもたらしたのです。
 その象徴が伊勢神道の台頭です。それまで、わが国では仏教優位の神道思想が力を持っていました。その有力な思想が、「日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現である」とする「本地垂迹思想」です。仏を主、神を従とした本地垂迹思想に対して、神を本とし仏を従とする教理を体系化したのが、伊勢神道(度会神道)だったのです。
 久保田収氏によれば、伊勢神道には密教や老荘思想も吸収されてはいますが、鎌倉新仏教の台頭や、蒙古襲来という未曽有の国難から、神道の宗教的立場と国民的自覚を明らかにする主張が盛り込まれました。
 伊勢神道の「神道五部書」(『宝基本記』、『倭姫命世記』、『御鎮座次第記』、『御鎮座伝記』、『御鎮座本記』)は心身の清浄を説き、正直の徳を神道の主要な徳目として強調しました。ここでいう「正直」は、現在我々が使っている意味とは異なり、「神から与えられたままの清浄潔白な姿」を意味します。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)

天誅組総裁・藤本鉄石と黒住教、そして崎門

 吉村寅太郎、松本奎堂とともに天誅組総裁として維新の魁となった藤本鉄石は、黒住宗忠が開いた黒住教の影響を受けていた。天保十一年、鉄石は二十五歳のときに脱藩して、全国行脚の途についた。延原大川の『黒門勤皇家列伝』には、「この天保年間は、宗忠の説いた大道が備前の国を風靡した頃で、鉄石も早くより宗忠の教説人格に接触して、大いに勤皇精神を鼓舞されたものと思われる」と書かれている。
 さらに同書は「彼は常に自筆の天照大御神の御神號並に、宗忠七ヵ条の大訓を書して肌守となし、或は、宗忠大明神の神號を大書して人に与えし…」とある。宗忠七ヵ条とは、
「日々家内心得の事
 一、神国の人に生まれ常に信心なき事
 一、腹を立て物を苦にする事
 一、己が慢心にて人を見下す事
 一、人の悪を見て己れに悪心をます事
 一、無病の時家業おこたりの事
 一、誠の道に入りながら心に誠なき事
 一、日々有り難き事を取り外す事
   右の条々常に忘るべからず恐るべし 恐るべし
   立ち向こう人の心は鏡なり己が姿を移してやみん」
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