「日本の真価」カテゴリーアーカイブ

崎門学の必読書、『靖献遺言』を読む会(平成27年11月21日)

〇開催趣旨
 崎門学の必読書、『靖献遺言』を読む会 〇開催趣旨 『靖献遺言』は、山崎闇齊先生の高弟である浅見絅齊先生の主著ともいうべき作品であり、崎門学の必読書です。本書は、貞享4年、絅齊先生が33歳の時に上梓し、「君臣ノ大義」を貫いて国家に身を殉じた屈平、諸葛亮、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺等、八人の忠臣義士の生涯、並びにそれに関係付随する故事が、厳格な学問的考証に基づいて編述されております。絅齊先生は、本書に登場する八人の忠臣義士に仮託して君臣の大義名分を闡明し、それによって婉曲に幕府による武家政治を批判したのですが、こうした性格を持つ本書は、その後、王政復古を目指す尊皇討幕運動のバイブルとして志士たちの間で愛読されました。なかでも、越前の橋本左内などは、常時この『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われます。また今年生誕200年を迎えた幕末の志士で崎門学者の梅田雲浜は、交際のあった吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」と評されました。

 そこでこの度弊会では、この『靖献遺言』を熟読玩味し、崎門学への理解を深めることを目的とした勉強会を開催いたします。開催は月一を目途とし、テキストは近藤啓吾先生が著された『靖献遺言講義』(国書刊行会)を使用いたします。本テキストは、近藤先生による親切な現代語訳が付いておりますので、我々の様な初学者でも何とか理解できるようになっております。ついてはこの機会に、本書を通して崎門学を学びませんか。

〇日時 平成27年11月21日(土) 午後2時から午後5時まで

〇場所 浦安市中央公民館 浦安市猫実4-18-1

〇主催 崎門学研究会(代表・折本龍則、連絡先・090-1847-1627)

岡倉天心と屈原

 
明治31(1898)年3月26日、岡倉天心は東京美術学校を追われた。その背景には、スキャンダルがあったのだが、欧米型近代化に背を向ける天心流の国粋主義が、国家政策の邪魔になったと見ることもできる。
 天心の受けた打撃は大きかった。しかし、ようやく天心は民間の自由人としてみずからの理想を追求できるようになった。ただちに彼は、私立美術学校として日本美術院の設立に動く。 ――自分たちは、あくまでも先生についていきます。
 天心失脚に憤慨した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら教官17名は4月に辞職、天心とともに歩んでいくことを決意していた。
 10月15日、「新時代における東洋美術の維持、開発」を高らかに掲げ、日本美術院はスタートをきった。開院式に合わせて記念展覧会が開催された。人々は、会場に飾られた大作に注目した。 続きを読む 岡倉天心と屈原

梅田雲浜先生生誕200年記念墓参のお知らせ

 以下、崎門学研究会の告知を転載する。

 今年は幕末の志士、梅田雲浜(うめだうんぴん)先生の生誕200周年です。梅田先生は文化12年(1815)、若狭小浜藩の出身です。早くから京都や江戸に遊学し、江戸時代の中期の儒者、山崎闇斎が創始した崎門学を修め、天保24年、先生29歳の時には、京都にある望楠軒という塾の講主(塾長)に就きました。この望楠軒は、崎門派の若林強斎が忠臣楠公を仰いで命名した塾であり、君臣内外の大義名分を正し尊皇攘夷を説く崎門の学風によって天下の志気を鼓舞しました。
 先生の生涯は、吉田松陰が「『靖献遺言』で固めた男」と評した通りに崎門学の精神に貫かれ、一介の浪人として困窮生活を強いられながらも、海内の志士に尊皇論を鼓吹して王政復古の端を開きました。なかでも、独断で不平等条約に調印した井伊大老の非を責め、幕府に痛撃を与えた「戊午の勅定」は、梅田先生の朝廷への働きかけによるものとされています。このように、先生は顕著な活躍をしましたが、それが故に幕府から尊攘派の主魁と目され、安政の大獄では、およそ百二十人いたとされる検挙者のなかで最初に検挙されました。そして幕府による過酷な取り調べの末、安政6年の9月14日に獄死し、亡骸は現在の東京台東区にある海禅寺に埋葬されました。 続きを読む 梅田雲浜先生生誕200年記念墓参のお知らせ

近藤啓吾先生「明治初年神道行政の変遷」─神道の化石化

 明治維新の精神は残念ながら貫徹されることはなかった。早くも明治3、4年頃には当初の理想は失われていった。
 この過程について、近藤啓吾先生は「明治初年神道行政の変遷」(『続々紹宇文稿』)において分析し、次のように要約している。
 「……皇権回復・神武復興を目指して身を殞した多くの先輩の志を継いで、つひに維新の大業を成し遂ぐるや、その諸志上が新政府に登庸せられ、その志す神制国家を樹立せんとしたのは当然のことであるが、当時一般の国民には、その神といふものの意義が知られてをらず、西欧のゴツドやゼウスと同一視するものも少なくなく、ましてそれは我国父祖のことであり、神道といふは、父祖がこの国を開かんとして辛苦した足迹のことであるとの認識は殆ど有してゐなかつたので、折角掲げた国家復興の理想も一般国民の理解には遠きものであつた。
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度会延佳『陽復記』テキスト 3 崎門学研究会 輪読用資料

 度会延佳の『陽復記』テキスト3。平重道校注(『日本思想体系 39 近世神道論 前期国学』岩波書店、86~117頁)。

『陽復記』上(87~88頁)
 かく神道・儒道其旨(むね)一(いつ)なれば、其道によりて修する教のかはる所はあるまじけれども、異国と我国と制度文為はちがひめ有。それをわきまへず、古より我国になき深衣(しんい)*をきる儒者など近比(ちかごろ)はありとなん。此事大なる非義なり。異国にも夷狄の服をきるは重きいましめぞかし。我国は皇孫尊*日向国に天下り給ひ、神武天皇大和国橿原に都を立給ふより、百十一代の今に至り給まで、天照大神の御神孫天子の御位にましませば、御制度をおもんじ、吾国の律令格式等を本として行ふべきとの心はなくして、異国の深衣を着はさもあるまじき事なり。異国に生れたる邵康節(しょうこうせつ)*の、今人不(三)敢服(二)古衣(一)とて、深衣を着られざるあるまじき事也。神国に生れたる人は神代のむかしを思ひ、国法の古をしたふこそ儒道にも本意ならめ。近代儒を学ぶ人のかしらおろすは、仏氏を人の崇敬すれば、かの崇敬を羨たるに似たり。又深衣をきるは国俗にかはり、異服をきて人のめを驚し、崇敬せられんとにや。心に深衣をきて外はさらでもあれよかし。但時代により国法のゆるす事あらばさもあるべし。思ひやるに、かしらおろして深衣きたる姿、仏氏のいふ蝙蝠僧(へんぶくそう)とやらんには猶おとるべきかとあさまし。

*深衣 儒者の衣服。
*皇孫尊 天照大神の孫。天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)
*邵康節(邵雍) 北宋時代の哲学者。主著『皇極経世書』で壮大な宇宙論的歴史観を展開。*蝙蝠僧 破戒僧。

度会延佳『陽復記』テキスト 2 崎門学研究会 輪読用資料

 度会延佳の『陽復記』テキスト2。平重道校注(『日本思想体系 39 近世神道論 前期国学』岩波書店、86~117頁)。

『陽復記』上(86~87頁)
 此国常立尊より三代は一神づゝ化生(けしょう)じ給のよし、日本記に見え侍る。しかるを此三神は、易乾卦(けんのけ)の奇爻(きこう)を表してかくしるすならんと云人あれど、さにはあらず。我国のむかしより語り伝たる事の、をのづから易にかなふ故に、神書を撰べる人の易と附会したることばあり。日本の神聖の跡、唐の聖人の書に符を合せたる事はいかゞと思ふべけれど、天地自然の道のかの国この国ちがひなき、是ぞ神道なるべき。其後又三代*は二神づゝ化生じ給ふとなり。是を坤卦(こんのけ)の耦爻(ぐうこう)の三画に表ずるならんと云。此理は上にしるしぬ。国常立尊より第七代めにあたりて伊弉諾尊・伊弉冉尊二神出生し給。是を伊弉諾は乾卦三画成就、伊弉冉は坤卦三画成就にて、男女の体も定りぬるならんと云。をのづからかなふ*ところ深意あるものなり。此伊弉諾尊・伊弉冉尊夫婦となりて此国をうみ草木迄もうみ給と云。子細あり。あらはしがたし。其後此国のあるじを生んとて、天照大神を生給ふ。天照大神、御子の吾勝尊を此国にくだしたまはんとおぼしけれど、又其御子皇孫瓊々杵尊生れ給ふにより瓊々杵尊を下し給ひ、それより三代、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)に至り給ひぬ。此三神は易にをいては、内卦の三画、伊弉諾より吾勝尊まで三代は外卦の三画を表せるならむ。外卦は上、内卦は下なれば、乾の或(あるいは)踊て淵にありといふごとく、吾勝尊の此土にくだらんとしてくだり給はぬこそ、易道に少もちがふ処なけれと云人あり。誠にちがひはあるまじき事なれど、我国の神道に易道は同じと見るこそ忠厚の道ならめ。易道に神道は同じきといふは、いかゞと思ひ侍る。

*三代 埿土煮・沙土煮、大戸之道・大苫邊、面足・惶根の三代の諸神。これは、『日本書紀』に記されている。
*をのづからかなふ 自然に神道の伝えが儒教の易の理に一致すること。

先哲の忠義に支えられた國體

 平泉澄先生は、昭和11年に『国史講話』において次のように書いている。
 「……歴史ヲ考ヘマス上ニ、決シテ楽観的ニ呑気ニ之ヲ見ルコトハ許サレナイノデアリマス。ヨク「国体之精華。」ト云フコトヲ誇ルノデアリマスガ、其国体之精華ハ先哲ノ血ヲ以テ守り来ツタ所デアリマシテ、決シテ無為ニシテ得タ所デハナイノデアリマス。……我ガ国体ガ斯ノ如ク尊厳デアリマスコトハ、無論、天祖〔アマテラス〕ヲ始メ奉リマシテ、御歴代ノ聖徳ニ帰著スルノデアリマスガ、同時ニ又先哲ガー身ヲ擲ツテ俗学俗論ト闘ヒ、一人ノカデ万牛ヲ挽イテ来ラレタ為ニ、斯ノ如ク尊厳ニ伝ハツテ居ルノデアリマス」
 さらに、平泉先生は翌昭和12年に『日本精神の復活』で、次のように述べている。
 「我々は日本人である、大和魂は生れなからにして持つて居る、天下の人斯くの如く傲然として豪語するのである。焉んぞ知らん、大和魂のためにはこれ等の卓抜なる先哲〔谷川士清ら〕一生を投じて苦心惨澹されたのであります。心を労することなくして、身を修むることなくして、生れながらにして日本人であり、大和魂は我々自身に持つて居るのである。斯う暢気にいふことは、これは反省しなければならない」

度会延佳『陽復記』テキスト1 崎門学研究会 輪読用資料

 『陽復記』は、伊勢神道を復興させた度会延佳(わたらいのぶよし)が、慶安3 (1650) 年に脱稿、さらに稿を補って宝永7 (1710) 年に刊行した。写真は、早稲田大学所蔵の『陽復記』山田一志町(伊勢):講古堂、元文4(1739)年。以下テキスト(平重道校注)は、『日本思想体系 39 近世神道論 前期国学』岩波書店、86~117頁。

『陽復記』上(86頁)

 神風伊勢の国*百船(ももふね)度会の郡は、内外の神のしづまり給ふ地(ところ)として四時の祭礼をこたらず。垂仁・雄略のいにしへより今の世にいたるまで、上一人下万民神威をたふとばずと云事なし。さればにや、自然に地とみ民ゆたかにして上代の流風余韻たえず。予も祠官にむまれをなせば、かたじけなくも神につかふるのひまひま、神宮の旧記を披見し儒典のかたはしをうかゞひて、一二の同志とかたりなぐさみあかしくらせば三十とせにもあまりぬ。弱冠より以前の事は忘れき。近比(ちかごろ)見し事、古老のかたりし事、又は秘記の中にも心にむかふ事をかたばかり書とゞめ、漢語をかりてことはり朋友のものまなぶたすけとす。
 抑(そもそも)我国のおこりを尋るに、太虚の中に一つのものあり、形ち葦牙(あしかび)の萌出(もえいで)たるごとし。則化して神となる。国常立尊と申奉る。又は天御中主尊とも名付奉る。この神を人皇二十二代(ママ)雄略天皇の御宇(ぎょう)に、天照大神の御告(をんつげ)によりて丹州真井原(まなきのはら)より勢州山田原にむかへしづめ奉り、瓊々杵尊を東の相殿(あひどの)とし、天児屋根命・太玉命も瓊々杵尊に添て西の相殿として御同殿にましまし、豊受皇大神宮と名付奉る。今の外宮是也。

*百船度会の郡 三重県度会郡、伊勢神宮の所在する地。百船は度会の「わたる」にかけた言葉。

伊勢神道の眼目─近藤啓吾先生「神いますの確信」①

  伊勢神道の眼目について、近藤啓吾先生は「神いますの確信」(『崎門三先生の学問』)において、次のように書かれている。
「伊勢神道の神道説の眼目とするところは、一言でいへば、私どもたる本質は、神から賜つたものであるといふことの確信である。伊勢神道が神道としての理論を樹立したのは、平安時代の末から鎌倉時代の初めにかけてのことであるが、しかしそれは突然に成つたものでなく、神宮には神宮として古代より伝承し来つた神の認識があり、それを体系化しことばとしたことがその時代であつたといふことである。神道にはもともとその意識はあつたが、それを説くことばがなかつた。伊勢の神道にその神道を説くことばが成立したのは、仏教の中でも真言宗の教義を意識し、それに対抗するものとして、神道の自主性を説かんとしたためであつて、しかし伊勢にてはそれを成すために、当時最も組織化された教学であり、識者の間に強い影響を及ぼしてゐた真言宗の力を借りるところがあつたことは、已むを得なかつた。例へば伊勢神道にて最も大切にしてゐる「清浄」といふ語も、本来は真言宗の語であり、伊勢ではその語を借りて神道の心を表はす語としたことであるが、そのことをもつて、伊勢では真言よりその語と内容とを取つて己れの語とし思想としたものではない」

三宅観瀾『中興鑑言』─栗山潜鋒の正統論と対立

 三宅緝明(観瀾)は、延宝2(1674)年に京都の町人儒者三宅道悦の子として生まれた。崎門学正統派の浅見絅斎に師事し、元禄11(1698)年に江戸に下り、翌年栗山潜鋒の推薦で水戸藩に仕えるようになった。彰考館編修となり『大日本史』編纂に従事した。
 観瀾が後醍醐天皇の政治の得失を論じたのが『中興鑑言』である。ここで観瀾は、足利を批判し、吉野を正統の天子とした。その点では潜鋒と同じだったが、正統とする理由において、潜鋒とは異なっていた。潜鋒が「躬に三器を擁するを以て正と為すべし」としたのに対して、観瀾は『中興鑑言』において、「余、故に曰く、正統は義にあり、器にあらず」と書いているのだ。観瀾の考え方は、安積澹泊ら彰考館の他の同僚にも共有されていた。
 これに対して、近藤啓吾先生は次のように指摘されている。
 「思うに土地といひ家屋といひ、その所有を主張するものが複数であって互ひに所有の権利を争ふ時には、その土地や家屋の権利書を所持してゐるものを正しい所有者と判断せざるを得ない。されば人はみな権利書を大事にして失はぬやう盗まれぬやう、だまし取られぬやう、その保管に心を用ひるのである。神器もその性格、ある意味では権利書に似てをり、皇統分立していづれが正しい天子であるか知りがたく、人々帰趨に苦しむ時は、神器を有してをられる御方を真天子としてこの御方に忠節を尽くさねばならない。いはんや神器は権利書と異なり、その由緒からいへば大神が天孫に皇位の御印として賜与せられし神宝であり、大神の神霊の宿らるるところとして歴代天皇が奉守継承して来られた宝器であり、極言すれば、天祖・神器・今上の三者は一体にして、神器を奉持せられるところ、そこに天祖がましますのである」(「三種神器説の展開―後継者栗山潜鋒」)