崎門学継承に人生を捧げた岡次郎(彪邨)先生については、『次なる維新の原動力」『月刊日本』平成25年7月号)で以下のように書いた。
前列右が岡彪邨先生
〈内田先生とともに崎門学継承に人生を捧げたのが、岡次郎(彪邨)先生です。
岡先生は、元治元(一八六四)年六月十二日、肥前平戸の松浦侯の藩士岡直温の次男として生まれました。号の「彪邨」は、二十歳代までいた日宇村に因んだものです。
父が、楠本碩水の兄端山に学んでいたため、岡先生も端山・碩水に学ぶようになりました。『楠本碩水伝』を著した藤村禅は「彪邨の学問の態度は単に教養を積むことや博識を求めることではなく、どこまでも真剣に人間の魂の依據となるべきものを朱子学に求めんとしたのである。そのために心性の理を自得体認すべく自ら工夫を凝らしたのであった」と書いています。 続きを読む 平泉澄先生の語る岡次郎(彪邨)先生 →
美濃における崎門正統派として、若林強斎の門人廣木忠信が知られる。吉岡勲「美濃における崎門学派の展開」(『一志茂樹博士喜寿記念論集』昭和46年6月所収)は、廣木について言及した上で、美濃の強斎門人として以下の名前を挙げている。
正徳三年 濃州辻瀬古邑 所 左内
正徳五年 濃州岐阜 赤堀剛菴
正徳五年 濃州芝原北方 星野恭菴
享保元年 美州高屋村 八代春竹
享保九年 美州岐阜 井上専蔵
享保十年 美濃 諸江儀次郎
若林強斎『神道大意』第二段
「まづさしあたり面々の身よりいへば、子たるものには、親に孝なれと天の神より下し賜はる魂を不孝にならぬやうに、臣たるものには君に忠なれと下し賜はる魂を不忠にならぬやうに、どこからどこまでもけがしあなどらぬやうに、もちそこなはぬやうに、この天の神の賜ものをいただき切つてつつしみ守る事なり。(中略)神様の屹度上に御座成られて、其の命をうけ其の魂を賜はりて、一物一物形をなすゆゑ、内外表裏のへだてなくいつはらうやうもあざむかうやうもけがしあなどらうやうもそこなひやぶらうやうもなき事と屹度あがめたてまつりてつつしみ守るが神道の教なり」
以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
「以上第二段、この世に存する一木一草もその本体、神の霊を受けたるものであるから、これをみだりに扱ふべからざることを説き、進んで人間みづからの間題として、我れが我が本質として神より賜はりし君に忠、親に孝たらんとするの徳と全うするため、平生これを慎み守ることが神道の教たることを述べてゐる。」
若林強斎の『神道大意』は、享保10(1725)年8月、多賀社の祠宮大岡氏の邸で強斎が行った講説を門人の野村淡斎が浄書し、強斎自ら補訂を加えたものである。
この『神道大意』の真髄を理解するために、まず近藤啓吾先生の「日本の神」(平成24年4月25日)を精読したい。この論文は近藤先生著『三續紹宇文稿』(拾穂書屋蔵版、平成25年1月)の冒頭に収められている。
〈「(神道大意)おそれある御事なれども、神道のあらましを申したてまつらば、水をひとつ汲むというても、水には水の神霊がましますゆゑ、あれあそこに水の神罔象女(みづはのめ)様が御座成られて、あだおろそかにならぬ事と思ひ、火をひとつ焼くというても、あれあそこに火の神軻遇突智(かぐつち)様が御座成らるる故、大事のことと思ひ、纔かに木一本用ふるも句句廼馳(くぐのち)様が御座成られ、草一本でも草野姫(かやのひめ)様が御座成らるるものをと、何につけかに付け、触るる所まじはる所、あれあそこに在ますと戴きたてまつり崇めたてまつりて、やれ大事とおそれつつしむが神道にて、かういふなりが即ち常住の功夫(くふう、平生のエ夫をいふ)ともなりたるものなり」
以上第一段、古伝を素直に受け、伊勢神道の説を継ぎ、この世に存在するあらゆるもの、すべて神の生み給ふところであつて、その神霊を得てその存在価値としてゐることを述べて、一木一草にも神の分霊がまします故、これを戴き奉り崇めたてまつりて、やれ大事と恐れ謹しむが神道にて、そのこころを守らんとする努力が、即ち神道を奉ずるものの平生の工夫であることを述べてゐる。〉
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート