東京裁判史観は在野の興亜論者の行為も否定した

 平成25年末の安倍首相の靖国参拝以来、東京裁判批判を許さないというアメリカの意志が明確になってきた。もはや、戦後レジームからの脱却を目指すためには、アメリカとの思想闘争は避けられなくなった。
 以下、『アジア英雄伝』の「はじめに」の関係箇所を引用する。

〈占領期のアメリカによる日本の言論統制の目的は、戦前の日本の行為を全て悪、連合国の行為を全て善とする、一方的な考え方を日本に浸透させることにあったのではなかろうか。日本政府の行為も、在野の興亜論者の行為も、アメリカに不都合なものは、悪とされたのである。
 この占領期に行われた言論統制は、徹底したものであった。昭和二〇(一九四五)年九月一〇日、GHQは「新聞報道取締方針」を出した。さらに、GHQは同年九月一九日に「プレス・コード(新聞規約)」を発令、一〇項目の禁止事項を明示して言論統制を強化しようとした。プレス・コードは一九四六年一月二四日付で、一般の出版物だけでなく、国会を含む官庁の出版物にも準用されている。 続きを読む 東京裁判史観は在野の興亜論者の行為も否定した

百田尚樹氏をアメリカが「非常識だ」と批判─対米自立覚悟の時

 2014年2月8日の共同通信の報道によると、百田尚樹氏が都知事選応援演説で、アメリカによる東京大空襲や原爆投下を「大虐殺」とした上で、東京裁判を批判したことについて、同日、在日米大使館報道担当官は「非常識だ」と批判した。これは、アメリカ政府の公式の統一見解としている。
「安倍首相は戦後レジームからの脱却を断念?─対米自立派と対米追従派の分岐」(2014年1月31日)で、「日本が戦後レジームから脱却することをアメリカは許さない」というメッセージが、再び強く発信されようとしているのだろうかと書いたが、もはやそれは確実と見なければならない。
いまこそ、戦後レジームからの脱却を目指す者は、アメリカからの圧力をはねのけて対米自立に突き進む覚悟を決めるときではなかろうか。

忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 五/おわりに

五 生きる力としての「みこと」意識
 市場原理主義の信奉者たちは、競争原理によって社会は発展するのであり、競争のないところに進歩はないと主張する。確かに、社会主義的な平等分配の思想は、人間の意欲を奪いとるという欠陥があった。だが、一方で競争社会の弊害も無視できるものではない。そこで注目されるのが、「人との競争ではなく、自らの存在価値を高めようとすることによって生じる意欲こそが重要だ」と考える皇道経済論の発想である。「四、成長するための生産=『むすび』」で書いた宇宙の創造に参画という考え方が意識されるとき、人間の生きる力は大きく変化する。岡本廣作は、日本経済とは、日本国民全てが、生まれて生み、生まれて生みの生成発展の永遠飛躍の生命力である「むすび」の道に参じて、各人がその分に従って、そのつとめを尽くすことだという[一]
 一方、永井了吉は、「みこと」(一人一人の人間)が、それぞれの生命を最も充実させることが奉仕にほかならないとする。しかも、「みこと」それぞれが全宇宙過去未来に亘つて唯一無二の個性を持つことが、個性が尊貴である理由であり、その綜合によって全体としての大創造が可能だと説いた[二]続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 五/おわりに

忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 四

四、成長するための生産=「むすび」
 皇道経済論者は、人間もまた、宇宙の創造に参画すべき存在と考えた。「むすび」の思想に基づいて、この点を強調したのが、作田荘一であった。彼は、古事記や日本書紀などの古典によって、わが国独自の道の真髄を悟り、「創造そのことを以て生活の宗旨となし、『むすび』の道を以て万事を統べ貫き、而も斯の道を行ふものが億兆心を一にする全体であることは、我等の古ながらの変りなき尊い伝統である。…『むすび』の道に随ふとき、始めて労働神聖の意義が明らかとなり、その実現が保証される」とむすびを強調した[i]
 一方、古神道に没入した東京帝大教授の筧克彦は、皇産霊神(高皇産霊神と神皇産霊神)は、創造、化育、生成を行う神様であり、人間の各々も創造、化育、生成の働きを、皇産霊神の下に行っていると説いた。
 筧の影響を受けた、農本主義者の加藤完治もまた、創造とは、我々が物を作るときに、命のない物に、我々の命を叩き込む、我々の魂をその中に入れることだと述べた。そして、化育とは、命のあるものと命のあるものとが向き合って一方の命が他の命を刺激し、これによって円満完全に発展させることだとした。彼は、「磨かれた精神を以て相手の生物に対する場合、相手は立派になる、相手を立派にするべく努力するその時の又此方の魂が磨かれて行く」とも述べている[ii]続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 四

忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 三

三、エコロジーに適合した消費の思想
 「万物は天御中主神に発する」という皇道経済論の考え方は、物の運用、管理、消費の仕方について独特の考え方をもたらす。一切のものを大切にし、無駄なく完全に活かしきるのである。
 例えば、岡本廣作は、日本国民は「大君のおんもの」である財産を、上御一人の御仁慈に応えるように活用しなければならないと説いた[i]
 無駄なく完全に活かしきるとは、それぞれの「勿体」(もったい)を活かすことにほかならない。「勿体」とは、もともと仏教用語で、その物の本体、価値などを表している。万物に価値、存在意義があり、それを活かし切ることを重視することを意味している。つまり、「もったいない」とは、そのものの価値を完全に活かしきれていないことをいう[ii]続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 三

忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 二

二、神からの贈り物と奉還思想
 「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体を裏付けるものは、わが国特有の所有の観念である。皇道経済論は、万物は全て天御中主神から発したとする宇宙観に根ざしている。皇道思想家として名高い今泉定助は、「斯く宇宙万有は、同一の中心根本より出でたる分派末梢であつて、中心根本と分派末梢とは、不断の発顕、還元により一体に帰するものである。之を字宙万有同根一体の原理と云ふのである」と説いている。
 「草も木もみな大君のおんものであり、上御一人からお預かりしたもの」(岡本広作)、「天皇から与えられた生命と財産、真正の意味においての御預かり物とするのが正しい所有」(田辺宗英)、「本当の所有者は 天皇にてあらせられ、万民は只之れを其の本質に従つて、夫々の使命を完ふせしむべき要重なる責任を負ふて、処分を委託せられてゐるに過ぎないのである」(田村謙治郎)──というように、皇道経済論者たちは万物を神からの預かりものと考えていたのである。
 念のためつけ加えれば、「領はく(うしはく)」ではなく、「知らす(しらす)」を統治の理想とするわが国では、天皇の「所有」と表現されても、領土と人民を君主の所有物と考える「家産国家(Patrimonialstaat)」の「所有」とは本質的に異なる。 続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 二

忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 一

一、肇国の理想と家族的共同体
「人民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである」(宇治谷孟訳)
『日本書紀』は、肇国の理想を示す神武創業の詔勅をこのように伝える。皇道経済論では、国民を「元元」(大御宝)として、その安寧を実現することが、肇国の理想であったことを強調する。
山鹿素行の精神を継承した経済学者の田崎仁義は、皇道の国家社会とは、皇室という大幹が君となり、親となって永遠に続き、親は「親心」を、子は「子心」を以て国民相互は兄弟の心で相睦み合い、純粋な心で結びついている国家社会だと説き、それは力で社会を統制する「覇道の国家社会」とも、共和国を指向する「民道の国家社会」とも決定的に異なるとした[i]
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忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか はじめに

はじめに
平成二十二年のクリスマスの日、漫画「タイガーマスク」の主人公の名義で、群馬県の児童相談所にランドセルが届けられた。これをきっかけに、全国で続々と施設などへランドセルや文房具などを贈る人々が現れた。この間、鳥取県琴浦町では大晦日から降り続いた雪によって、車千台が国道九号線に立ち往生した。このとき、付近の住民たちは「トイレ」という看板を作って家のトイレを開放したり、ありったけの米を炊き、おにぎりを作って配って回ったりしたという。
小泉政権時代に強まった新自由主義路線により、わが国の共同体は破壊され、互いに助け合って生きていくというわが国の美風が失われたと批判されてきたことを考えると、こうしたニュースはせめてもの救いと感じられる。
新自由主義路線は一旦頓挫したかに見えたが、いま環太平洋パートナーシップ協定(TPP)をめぐって、再び息を吹き返そうとしている。TPPは、決して第一次産業に限定された問題ではなく、アメリカの「年次改革要望書」による規制緩和要求と同様に、国民生活に直結する制度変更の危険性を孕んでいる。市場の拡大、経済効率、国際基準を旗印にして、再び規制緩和が叫ばれようとしている。しかし、こうした動きに対する警戒感が強まらないのは、わが国本来の経済観自体が過去の遺物として見失われているからではなかろうか。皇道経済論の発想を理解することは、わが国本来の経済観を再認識する契機となるだろう。
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蒲生君平墓表に刻まれた藤田幽谷の撰文

 ああ君蔵は、いつも関東の処士をもって任じ、このため生活は困窮を免れなかったけれども、なお天下の奇男子と称賛するに値する。どうして、かの翩々たる俗儒が、先生といわれているのと同列に扱われようか。私が聞くところでは、君蔵は最期に臨んで、なお天地の正気を称し、三宝の説を述べたという。すなわち、たとえ瞑没するとも、精神は天地の間にとどまって、その正気を意中の人に授けるであろうと。ここにおいて、古人が謂う『死して亡びない者』(『孝経』三十三章)とは、君蔵のことをいうのであろうか。ああ、もはやこのような人傑とは、幽明境を距ててしまった。この私は、誰と語り、誰に従ったらいいのだろうか。
(撰文の結語、安藤英男訳)

会沢正志斎『新論』①

 文政9(1826)年、会沢正志斎は藩主・徳川斉脩に『新論』を上呈した。その冒頭には「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始る所にして、天日の嗣、世宸極を御し、終古易らず、固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく、宇内を照臨し、皇化の曁ぶ所、遠迩有る無かるべし。今、西荒蛮夷は脛足の賎を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履、敢て上国を凌駕せんとす。何ぞそれ驕れるや」とある。
 写真は、近藤啓吾先生より頂戴した『新論』。奥付に「會澤恒蔵著 安政四丁巳年八月」とある。