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尾張崎門学派・堀尾秀斎(春芳)の歩み

 
 尾張藩で多くの門人を育てた吉見幸和と、『名分大義説』を著した堀尾秀斎(春芳)は、ともに尾張崎門学の先駆者・小出侗斎の門人である。しかし、吉見と堀尾は同門でありながら、立場を異にした。以下、岸野俊彦氏の「尾張垂加派堀尾春芳の生涯」(『名古屋自由学院短大紀要』第二三号、一九九一年)に基づいて、堀尾の歩みを追う。
 堀尾は、正徳三(一七一三)年に生まれた。父親は、名古屋御園町に住む堀尾吉兵衛吉次、母親は、吉次の後妻で花木氏。堀尾は六才前後から、父親に実語教、小倉百首、小学等の初歩教育を受けた後、師について文武の芸を学んだ。剣術を長尾和太夫に学び、さらに兵術、鑓、組打類も学んだ。弓馬については野村源之進を師とした。
 そして、堀尾は浅見絅斎門下の小出侗斎に入門した。享保十二(一七二七)年には、春秋伝から引いた「春芳秋実」との称を贈られている。当時、侗斎はすでに還暦を過ぎていたこともあり、堀尾に対して、自分の門人の須賀精斎に学ぶように命じた。須賀精斎は、儒教を小出侗斎に学び、神道を吉見幸和に学んでいる。岸野氏は、次のように指摘している。
 〈吉見幸和が垂加神道の神典の主たるものであった伊勢の神道五部書を批判する「五部書説弁」を著し、垂加神道から独自の吉見神道へ移行していく契機になるのは一七三六(元文元)年であり、幸和五十三才、精斎四十七才、春芳二十三才であるので、春芳の幼少年期の幸和は反垂加にまだ転じてはいなかった。したがって、後年の春芳の崎門の学と垂加神道の基礎的枠組は須賀精斎によって与えられたとみることができるであろう〉
 岸野氏が指摘する元文元年以前の吉見とそれ以後の吉見とを峻別することは極めて重要だと考えられる。
 堀尾は、小出侗斎、須賀精斎による儒学の基礎教育の上に、享保十三(一七二八)年から、浅井周迪・勝永寿軒・桜井養益(養周)に医を学び始めた。一、二年の修学を経て、堀尾は名古屋の伝馬町で医を開業する。この伝馬町時代、堀尾は医業の他に、四書や近思録を講じ、さらに神書も講じていた。伝馬町時代の享保十五(一七三〇)年、知多郡横須賀村の人に招かれて、初めて横須賀で医療を行った。その五年後の享保二十(一七三五)年正月、堀尾は伝馬町から横須賀村へ移住した。

慶勝支持派の結束の場となった熱田文庫の宣長社

 安政二(一八五五)年正月二十四日、尾張国学派の中心的人物・植松茂岳の発起により、熱田神宮御文庫の境内に宣長社が勧請された。これが、尾張国学派が合同する場となり、それは同時に慶勝支持派結束の場となっていく。
 岸野俊彦氏の『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)によると、御霊代として、宣長が常に引き鳴らした鈴屋の鈴一つを得て祭り、社号を桜根社とした。
 山田千疇社中は、二月十八日、熱田文庫で桜根社奉祭正式会を興行した。その様子について、岸野氏は以下のように書いている。
 「十五人が参加し、十一人が懐紙のみの参加であった。翌年九月三十日にも、熱田文庫で社中桜根社報祭会を興行している。参加費用は上級藩士(内会社中)は一人に付一朱、その他(表会社中)は一人に付一匁とし、それぞれの社中が参加しやすく、交流が計れるよう工夫した。この時、熱田文庫へ社中から宣長著書『神代正語』を献本し、文庫懸りの林相模守にはかって、水戸斉昭奉納の『大日本史』を閲覧している」
 藩主慶勝が斉昭とともに謹慎させられた直後の安政五(一八五八)年七月二十一日には、慶勝支持派の「同志」三十七名が、熱田神宮で「先君(慶勝)御安全祝詞」をあげている。その中心は、植松のほか、山田千疇、茜部伊藤五、小林八右衛門、間島万次郎、松平竹蔵、野村八十郎、井野口久之丞らであった。
 また、文久二(一八六二)年五月に慶勝が全面赦免されると、「同志」八十名が熱田文庫に参会し、現藩主茂徳を引退させ、慶勝を復帰させるべく要求をまとめた。

尾張藩国学派の盛衰─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

 尾張藩では、天保期(一八三一~一八四五年)に正規の機構に位置づけられるに至る。しかし、その後は政治状況に応じて盛衰を繰り返すことになる。岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)は、以下のように四段階に分けて尾張藩国学の盛衰を説明している。
 〈第一段階は、藩校明倫堂で国学が教授されることである。その最初は、一八三三年(天保四)一月に、七十歳になっていた鈴木朖が明倫堂教授並となり、明倫堂で初めて『日本書紀』『古今集』等の講義を行ったことである。その後、一八三五年(天保六)十二月に山田千疇の国学の師匠で、藩士や商人に国学を教えて生計を立てていた植松茂岳が、鈴木朖や門下の藩士の推薦で御用人支配五人扶持で仕官し、明倫堂に出仕し、朖を助けて和学を教授することになる。一八三七年(天保八)六月、鈴木朖が死去すると、植松茂岳は明倫堂典籍次座となり、引き続き、明倫堂での国学教育を展開する。
 第二段階は、十四代藩主慶勝の側近グループとして、直接藩主と国学が結びつく段階である。
 一八五一年(嘉永四)、慶勝が初めて国入りすると、翌年二月二十日に『古事記』の「御前和学輪講」が行われる。学者は植松茂岳の外、茜部三十郎(三十俵)・児玉定一(百石)・野村八十郎(百石)であった。さらに閏二月二十日にも『古事記』の「御前和学輪講」が行われ、植松茂岳指添のもと、西郷久太郎(二百五十石)・間嶋万次郎(二百石)・野呂瀬六郎(百石)・宮島清三郎(百石)が講義した。いずれも、鈴木朖や植松茂岳の門人たちである。
 一八五五年(安政二)には慶勝が名古屋着城すると、四月二十四日、植松茂岳は初めて奥入し、慶勝に『古今集』を講釈する。五月八日には『古事記』を講釈し、その後月に二日ずつ『万葉集』と『古事記』を慶勝に講義する事となった。その後、一八五七年(安政四)十月には、茂岳は、明倫堂教授次座に昇進し、山田千疇も茂岳の推薦で仕官し御用人支配、明倫堂出仕となり茂岳を助けることになる。
 こうして、天保から安政期にかけて、特に十四代藩主慶勝と結びつくことによって、尾張国学は市井の国学から尾張藩国学へと展開していった。
 第三段階は、藩主慶勝失脚と明倫堂国学廃止である。
 一八五八年(安政五)七月、藩主慶勝は叔父の水戸斉昭とともに通商条約に反対し、井伊直弼によって、外山屋敷に隠居謹慎させられ、慶勝の弟茂徳が十五代藩主となった。この結果、慶勝側近は次々と蟄居・謹慎・降格になり、明倫堂教授次座の植松茂岳も十一月に十石召上・小普請、翌年九月にはさらに五石召上、御徒以下小普請へと落とされる。そして、十二月には明倫堂和学館は廃止となり、尾張藩国学は基盤を失い、市井の国学として、再起を待つことになる。
 第四段階は、慶勝復活と明倫堂国学復活である。
 桜田門外の変等を経て、一八六二年(文久二)五月に慶勝は全面赦免となり、九月には従二位大納言となる。それとともに、藩内の茂岳ら、慶勝派も復権し、十一月には明倫堂の国学が再興される。翌一八六三年(文久三)八月、英国償金問題で失策した茂徳が隠居し、六歳の慶勝三男義宜が十六代藩主となると、国学を重視した慶勝路線が復活強化される〉(百六十八、百六十九頁)。

尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より


尾張藩國體思想の発展は、藩校・明倫堂の歴史と密接に関わっている。この明倫堂の伝統を受け継いだ明倫中学校と愛知県第一高等女学校を前身とし、昭和二十三年に設立されたのが、愛知県立明和高等学校である。以下、『愛知県立明和高等学校 二百年小史』(昭和五十八年)に掲載された年表を引く。
[前回から続く]〈●天明五(一七八五)年六月十三日、明倫堂東隣に聖堂を建つ。
「先聖殿」の額はここに移された。額はいま徳川美術館にある。

●寛政四(一七九二)年四月十九日、岡田新川、明倫堂督学となる。
この年、秦鼎(はたかなえ)教授となる。

●寛政七(一七九五)年七月二十三日、石川香山、督学並びに経述館総裁。
新川・香山の時、学生七十名程、朱子学を講じた。(典籍秘録)

●享和元(一八〇一)年六月十日、冡田大峰、御儒者として召出さる。
大峰が御儒者となってから、恩田薫楼、奥田鴬谷(仝二年)、高田権之丞、秦世寿(四年)、林南涯、児玉一郎兵衛、能井東九郎(六年)教授となる。

●文化八(一八一一)年五月十八日、冡田大峰、督学となる。
冡田大峰は寛政異学の禁以来用いられた朱子学を廃め古学に復し、平洲の学を継ぎ、治道と学問とを一致させようとした。平洲歿(享和元)時、弔文を書いたのは大峰である。明倫堂出身者の登用のため撰挙科目、読書次第を制す。(明治二年まで)「学問の用心、孝悌忠信を本とし、政事之道を心得て、もし一官一職に任ぜらるれば、其官職相応の謀慮を発し、治安の一助をなさんと志し、本業と助業とを分ちて孝経・論語をはじめ、経義を研究するを本業とし、史子、百書に博渉して、其時世の興廃、人物の得失を弁ずるを助業とする也。」 続きを読む 尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より

戊午の密勅と尾張勤皇派・尾崎忠征


●戊午の密勅と安政の大獄
 安政五年三月十二日、関白九条尚忠は朝廷に日米修好通商条約の議案を提出した。これに対して孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にされ、参内した老中堀田正睦に対して勅許の不可を降された。
ところが、大老井伊直弼は、同年六月十九日、朝廷の勅許なしに日米修交通商条約に調印してしまった。これが尊攘派の激しい反発をもたらしたことは言うまでもない。
 八月七日の御前会議において、条約を調印しそれを事後報告したことへの批判と、御三家および諸藩が幕府に協力して公武合体の実を成し、外国の侮りを受けないようにすべきとの命令を含む勅諚が降されることが決まった。戊午の密勅である。同日深夜、左大臣近衛忠煕(ただひろ)から水戸藩京都留守居・鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)に手交された。
病床にあった吉左衛門に代わり、その子幸吉が密使として、夜半に乗じて東海道を東下。八月十六日、江戸の水戸藩邸に密勅が届けられた。
 老中堀田正睦に対して孝明天皇が下された勅答は、梅田雲浜が青蓮院宮尊融法親王(久邇宮朝彦親王)に建白した意見書が原案になったとされている。青蓮院宮家臣の伊丹蔵人、山田勘解由人は雲浜に入門して師弟の交わりを結んでいた。雲浜は、伊丹と山田を通じてその青蓮院宮の信任を得ることに成功した。
 また「戊午の密勅」もまた雲浜の働きかけによるものと考えられる。雲浜は鵜飼吉左衛門・幸吉父子、頼三樹三郎、薩摩藩の日下部伊三次らと密議して、水戸藩主・徳川斉昭(烈公)を首班とした幕政改革を行うことを企図していたからだ。吉左衛門は烈公から「尊攘」の二文字を賜るほどの信任を得ていた。
 強い危機感を抱いた井伊は、尊攘派弾圧に踏み切り、まず九月七日に雲浜が捕縛された。安政の大獄の始まりである。九月十八日には、吉左衛門・幸吉も捕縛された。翌安政六年八月二十七日、吉左衛門と幸吉は、安島帯刀や水戸藩奥右筆・茅根伊予之介とともに伝馬町の獄舎内で死罪に処された。吉左衛門は死に臨み、幕吏に「一死もとより覚悟の上。唯心に掛かるは主君(徳川斉昭)の安危なり」と尋ね、恙無きやを知ると、従容として死に就いた。 続きを読む 戊午の密勅と尾張勤皇派・尾崎忠征

尾張藩尊皇思想の変遷─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より

 平成三十一年二月、名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)を入手した。以下のように、尾張藩尊皇思想の変遷を辿る上で貴重な文献が収録されており、名古屋大学教授の佐々木隆美氏が的確な解説を書いている。
 『君戒』(尾張藩初代藩主・徳川義直著)
 『初学文宗』(同)
 『円覚院様御伝十五ヶ条』(尾張藩四代藩主・徳川吉通の命により近松茂矩が編録)
 『円覚院様御伝十五ヶ条輯録来由』(近松茂矩)
 『温知政要』(尾張藩七代藩主・徳川宗春著)
 『温知政要輔翼』(中村平五著、深田慎斎校訂)
 『人見弥右衛門上書』(人見弥右衛門著)
 『吉見家訓』(吉見幸混撰述)
 『刻新 古事記述言』(稲葉通邦)
 『家訓』(石井垂穂著)
 『諸生規矩』(蟹養斎著)
 『諸生階級』(同)
 『読書路径』(同)
 『聖堂記(明倫堂始原)』(細野要斎編)
 『寛延記草』(中村習斎著)
 『新堂釈菜儀』(同)
 『新堂開講儀』(同)
 『明倫堂典籍記録』(正木梅谷著)

近松矩弘による同志結集─『子爵 田中不二麿伝』より

 文久二年以降の近松矩弘の動きについて、『子爵 田中不二麿伝』は以下のように記している。
 「文久二年に至つて天下勤王の徒益(ますます)奮起した、我尾藩は佐幕党の為に擁蔽せられ正義の徒進むを得ず、矩弘等悲憤に堪へず、同藩角田久次郎、山崎總右衛門、間島万次郎、梶原小六等と計り奸臣を除き正義を挽回せんことを主張し熱田神宮文庫へ同志を招いた、会するもの八十余名前藩主慶勝をして国事に與らしめ姦を退け正を進めん事等を乞ふの書を裁し相伴ふて成瀬正肥の邸へ至り矩弘首として之を面珍し若し猶予あらば同志の者一同東下して斃而已までの周旋せんと言つた、正肥其過激を戒め且不日之が処分せんことを諾した、因て一同東下の義は暫く中止した、而して此ことを佐幕党の聞く所となつて、熱田文庫の使丁を拘引して、顛末を詰問した、使丁は侠気があつて只和歌の会ありしのみと告げて、其他は言はず久しく獄に繋がれた、又神官林相模守と云ふものは正義を賛助せしを以て謹慎せしめられた、この月正月江戸に至り数日ならずして竹腰等幽閉せられ如雲等は復職し慶勝が国事に與ることゝなつた」

尾張勤皇派・茜部相嘉─『子爵 田中不二麿伝』より

 幕末尾張藩の勤皇に功績のあった人物の一人に茜部相嘉がいる。『子爵 田中不二麿伝』には、茜部について以下のように書かれている。
 「茜部相嘉は藤井六郎治の長男で、文政七年十一月の生れである。伊藤氏に養はれて伊藤三十郎と称し、後茜部伊藤五と改めた、藩の世臣で大番組であつた、蕣園と号し、幼より古典を好み、鈴木朖の学風を慕ひ、植松茂岳を友とした、天保十年藩主後嗣の事起るや、第一に支封高須の世子慶勝を推せしは、伊藤五の説であつた。後、慶勝初めて尾張に入るや、藩政の事務を論列して上書し又海防に関する建議書を出した、嘉永六年十二月清須代官となつた、安政六年慶勝の幽閉に付清須及び北方の人民が動揺せしは、伊藤五の扇動に依るとして、万延元年六月隠居謹慎を命ぜられた、実に金鉄党の主唱者であつた、慶應三年十二月三十日没す、年七十二、白川町光明寺に葬る、著す所、古事記補遺、雅言集、七道説、日本紀補遺、槿桔論、水内神社考、蕣園雑記等がある。後、従五位を贈られた」

尾張勤皇派・阿部伯孝─『子爵 田中不二麿伝』より

 幕末尾張藩の勤皇に功績のあった人物の一人に阿部伯孝がいる。『子爵 田中不二麿伝』には、阿部について以下のように書かれている。
 「阿部伯孝、通称八助、松園と号す、幼児元野恬庵に従ひて業を受け、長じて明倫堂に入りて学び、嘉永五年江戸に於て御側物頭格御儒者となり、弘道館総裁に進み、翌六年正木梅谷に代りて明倫度督学となつた。藩主慶勝の蟄居となるや、田宮如雲、植松茂岳等と共に伯孝も亦幽閉の身となつた。五年後免ぜられて復職し田宮如雲と共に王事に勤め藩政を釐革した、慶勝二年瀬戸陶祖碑文を選した、同三年七月歿す、年六十七、明治三十六年従五位を贈らる、伯孝慷慨にして気節を貴び学者と云ふよりも寧ろ志士であった」

日米修好通商条約をめぐる徳川慶勝の立場─中根雪江『昨夢紀事』より

 越前藩士・中根雪江が藩主・松平慶永の事歴を記録した『昨夢紀事』には、嘉永六(一八五三)年六月のペリー来航から安政五(一八五八)年七月に至る間の重要記事が収められている。慶永側の立場に立って書かれているが、史料的価値は高い。
 安政五年四月三日、日米修好通商条約をめぐる慶永と徳川慶勝のやりとりは、以下のように記されている。
 
 「尾公ト討論 一、四月三日今朝辰半刻比より尾張殿へ御入あり御対面の上追々御論談に及はれしに尾張殿の御説は 天朝とは君臣の義あり 幕府とは父子の親あり国家艱難の秋に当つては父子の親を棄て君臣の義は立へき事なれは当今幕議に随ひては 叡慮にも不応れは今となりては専ら
天朝へ奉仕の外はなし徳川家康を失はゝ又得る人あるへし其時こそ天下は治平に属すへけれなといへる暴論を発し給ふ故 公は 神祖の三親藩を被置たるは宗室を固くし給ふ御遠略なれは夫か首坐なる尾張殿の御事なれは紀水の二藩と共に宗室の羽翼となりて幕府を扶けて
天朝を御推戴ありて夷狄の難をも攘はるへきを 神祖の貽謀にも背かせ給ひて宗室の危きをも扶け給はす惟 天朝へ忠を尽さんと宣ふは守株の孤忠にして真忠にあらさる由を激切に論究し給へと尾公曾て同し給はねはさらは当今の神州の利害をも論せす只管 叙慮の侭に征夷の任を立られんに指当り戦闘の御用意は御充分侯裁と問はせ給へは其心構は更になけれと唯大和魂ありと宣ふ故左候はゝ其大和魂もて徳川家の御後見なれ御執権なれおほさん様にて宗室に御成り代りあつて尊王攘夷の御功業を立られない御忠孝共に全かるへきものをと論し給ふに不才にして当り難きとの御遁辞にて更に帰宿なき御論故猶種々に御講究あつて漸くに思召通り閣老へ御談しあるへきの御結句にて末過て御退散なり御帰殿の上尾張殿如斯固陋にては諸侯を合せ 宸襟を安んし奉る事難しと御歎息を極められたり