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石井東吾氏が語る截拳道(ジークンドー)の陰陽理論

 ブルース・リーが開発した截拳道(ジークンドー)には老荘思想の陰陽理論が取り入れられていたのではないか。そのことは、ジークンドーのインストラクターとして活躍する石井東吾氏の言葉からも窺える。
 石井東吾氏は、1999年9月、18歳の時に、ジークンドーの継承者テッド・ウォンと出会った。石井氏は、参加したセミナーで、テッド・ウォンの武術と人柄に深い感銘を受け、その後、テッド・ウォンの弟子であるヒロ渡邉に弟子入りする。
石井東吾
 石井氏は2003年7月に初渡米し、テッド・ウォンからプライベートレッスンを受けている。以来、2010年8月までの間、ヒロ渡邉に同行して渡米を繰り返し、修行を続けた。
 石井氏は『陰と陽 歩み続けるジークンドー』(Gakken)の中で次のように述べている。
 〈武道の礼儀作法が〝礼に始まり、礼に終わる〟とされているように、ジークンドーで重要視されているのは〝構えに始まり、構えに収まる〟ことである。それが基本スタンスであるオンガードポジションだ。
 ジークンドーのオンガードポジションは〝陰陽の理論〟に基づいた、攻撃と防御が融合した中立的な構えをとる。それはとてもシンプルかつコンパクトであり、常にいつでもどの方向へも瞬時に動くことができる、非常に機動力に富んだスタンスだ。
 「よいフォームとは、動きとエネルギーの無駄を最小限に抑えて目的を成し遂げる、最も効率的なやり方のことだ。常によいフォームで訓練せよ」と、ブルース・リー始祖は述べている。では、よいフォームで行うために必要不可欠なことは何だろうか?それは〝構え〟である。
 ジークンドーの構えは、〝レディポジション〟とも呼ばれる。エネルギーが蓄えられて、いつでも爆発的な動きを繰り出せる準備が整った状態なのだ。この精密な構えの構造が崩れていれば、自ずとそこから発する技は崩れることになり、スピードもパワーも失うこととなる。ジークンドーでは、最短最速でターゲットに拳足をヒットさせることを目的としているため、構えに高い精度が要求されるのだ。
 大切なのは、構えが攻撃的、もしくは防御的な形態やマインドに偏ることなく、陰陽の調和のとれたニュートラルな状態でなければならないということだ。肉体的には、脱力して正しい形にセットアップされた状態であること。精神面では、何にも囚われず、深い静寂のなかに心が置かれた無為自然な状態でありながら闘志を内に秘め、しかしそれをいつでも解放できるような状態。つまり、陰陽の調和を肉体と精神で表現し、それを構えのなかで表現すること。このような意識で、僕はオンガードポジシションをジークンドーの最も重要な身体的要素の一つと捉えている〉

『陰と陽 歩み続けるジークンドー』

頼山陽が授かった「忠孝」の二文字

 筆者は、予てから『日本外史』成立は、竹原の学問、特に尊皇斥覇を説いた崎門学との関わりで論じる必要があると考えてきたところ、今回、竹原尋常高等小学校訓導を務めた松浦魁造の『頼山陽先生』(竹原町、昭和十六年)と出会った。松浦は、まさに『日本外史』を竹原精神の結集としてとらえている。
 〈頼山陽の一代を貫く精神は、山陽の郷里芸州竹原に伝統せる所謂「竹原精神」に外ならぬもので、明治維新の原動力をなした日本外史も、日本政記も、将又幾多勤皇の詠詩も之みな竹原伝統の忠孝精神が山陽によつて華と開き実を結んだものに外ならぬのである。頼山陽の出づる実は決して偶然ではなく竹原の天地山河に潜む霊気と、一千余年の輝く歴史を作つた数多祖先の精気とが鍾つて山陽を生んだもので、謂はゞ頼山陽を出すために竹原の山河歴史は営々数百年にわたつて時代を動かす忠孝の大文豪頼山陽先生出現の準備をなしてゐたのであると謂ふ事が出来るのである〉
 山陽は、安永九(一七八一)年十二月二十七に、大坂江戸堀で生まれている。幼名は久太郎。松浦の『頼山陽先生』には、山陽誕生時の興味深いエピソードが描かれている。
 〈春水夫妻は我子の誕生日まで待ち切れず、あの交通の不便な時代に半年後の翌天明元年閏五月八日には、久太郎をつれて竹原に帰つた。(久太郎の祖父)亨翁は初孫久太郎を膝に抱いて「吾は已に老先き短く孫の行末を見ること難し、この孫の為に一生の護符を書き遺さん」と言つて自ら筆を執り方紙に「忠孝」の二字を書し、お守袋に納めて手づから初孫の肌に掛け、春水夫妻に対して深意の在る所を訓へたのである〉
惟清が山陽に与えたお守り
 山陽の祖父亨翁(惟清)は谷川士清に師事した崎門派で、小半紙に「忠孝」の二文字を書いて守袋に収めていたという。そして、竹原に垂加神道を広めた最初の人が、唐崎赤斎の祖先定信である。定信は延宝年間(一六七三年~一六八一年)に上京し、山崎闇斎に師事し、垂加神道を学んだ。定信は闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から文天祥筆の「忠孝」の二大文字を授けられた。惟清はそのことを承知の上、自ら「忠孝」の二文字を頼家においても継承しようとしていたに違いない。松浦は次のように書いている。
 「此の忠孝の護符こそ実に山陽五十三年の生涯を貫く勤皇精神の根源を成したもので、天保三年九月二十三日暮六つ時、日本政記の筆を握つたまゝ暝目するまで、片時も肌身離さす身に着けてゐたものである。山陽の本領は実に源をこの忠孝の護符に発したものであつて、之を護符として与へた祖父父亨翁の忠孝精神は、当時盛を極めた竹原の敬神尊皇を奥儀とせる文教の深い感化と影響とをうけたもので、それが父春水や二叔春風、杏坪の胸に強く伝はり、やがて山陽に至つてその精華を発揮したものに外ならぬのである〉

武家政権を厳しく批判した頼山陽の「古今総議」

 頼山陽は、寛政八年、十七歳の時に「古今総議」を著している。これこそが、『日本外史』序論の底稿となった文章である。
 〈天子、之れが将となりたまひ、大臣・大連は、之れが偏裨たり……[神武天皇より]三十世の後、外国の制に因り、八省、百官を立つ。五十世に至り、政権は世相[代々の首相]・外家[藤原氏]の竊む所となる。当時の制、七道[全国]を郡県にして、治むるに守・介[薩摩守・長門介の如き]を以てし、天下の軍国は、更はる〲六衛に役し、事あれぱ則ち将を遣はして之れを合し、事止めぱ其の兵を散じて、以て其の[兵]権を奪ふ。相家[世相・外家]の専らにするに及び、人[官吏]を流[家筋]に選び、文武、官を世にし、加ふるに鎮守府の多事なるを以てし、関八州の土豪にして、将家[武将]に隷[属]するもの、因習の久しき、君臣の如く然り、而して七十世に至り、綱紀ます〱弛み……兵力を挾んで、爵賞を[強]要するもの、平氏に始まつて、源氏に成り、遂に総追捕使の名に托して、私隷[家の子郎党]を六十州[全国]に碁布[配置]して、以て兵食の大権を収め、天下の大勢、始めて変ぜり。変じで未だ幾ぱくならず、その外家北条氏、陰かに人心を結び、以て其の権を竊み、之れを九世に伝へたり。朝延は其の民心を失へるに乗じ、以て旧権を収復せり…。又足利氏の横奪する所となり、而して大権の将家[征夷大将軍]に帰するもの、盆々定まり、少子を[関]東に封じ、功臣を分かつて世襲の守護と為し、而して天下の大勢、再び変じ、[以下、織田・豊臣氏に到り]大勢、三たぴ変ぜり〉(木崎好尚『青年頼山陽』)
古今総議
 山陽は、『日本外史』では次のように述べている。
 「思うに、わが日本がはじめて国を建てたときは、政事向きのことは万事が簡略でたやすく、文官・武官というような区別もなく、日本国中の者はだれでもこぞってみな兵士であって、天子はその元帥(総大将)となられ、大臣・大連がその副将軍となっていたので、将帥という定まった官職があったわけではなかった。
 だから後世のように、世にいう武門とか武士とかいうものはあるべきはずもなかった。天下が泰平無事であるならそれまでのこと、いったん有事の際には、天子はかならず自分で征伐の苦労をされた。もし天子がなにかの理由で出陣されないときには、皇子や皇后がその代理をされて、けっして臣下の者にうち委せてしまわれることはなかったのである。だから兵馬・糧食の大権は人手に渡ることなく、しっかりと天子の手の内にあって、よく天下を抑え従え、なおその余威は、国内ばかりでなく、延びて三韓(朝鮮南部の馬韓・弁韓・辰韓)や粛慎(シナ古代の北方民族)にまでも輝きわたり、これらの諸国はみな貢物を持ってわが日本へ来朝しないものはなかったのである」(頼惟勤訳)
 こうした山陽の武家政権批判は、山県大弐の『柳子新論』「正名」(第一篇)や藤田幽谷の『正名論』にも通ずる。
 「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。……保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(『柳子新論』)

 〈「鎌倉氏の覇たるや、府を関東に開きて、天下の兵馬の権専らこれに帰す。室町の覇たるや、輦轂(天子の御車のことで、天子の都の地である京都を指す)の下に拠りて、驩虞(覇者)の政あり。以て海内に号令し、生殺賞罰の柄、咸その手に出づ。威稜(威力)の在る所、加ふるに爵命(官位)の隆きを以てし、傲然尊大、公卿を奴視し、摂政・関白、名有りて実無く、公方(将軍家)の貴き、敢へて其の右に出づる者なければ、すなはち『武人、大君となる』に幾し〉(『正名論』)

「グンフー」=「一芸において極めて秀でている人間」

 中国武術は一般的にカンフーと総称されているが、ブルース・リーは広東語の発音「グンフー」を好んで用いた。
 ブルースが極めようとしたグンフーを支えていたのは、老荘思想を中心とする東洋思想であり、グンフーは武道であるのみならず、生き方そのものであった。それはブルースは次の言葉に示されている。
 「グンフーとは、一つの哲学である。道教と仏教の哲学では必須の部分となっている。それは逆境に対処する理想、すなわち、少しかがんでから跳び上がること、すべての物事に対して忍耐できること、人生における失敗と教訓を利すること、である。これらは、グンフーという芸術の多面性を示し、グンフーは自分自身の在り方のみならず、生き方をも教えてくれる」
 このブルースの言葉について、ジョン・リトルは次のように解説している。
『ブルース・リーノーツ』
 〈「グンフー」とは、正しく訳すと、とてつもない「総合的な」達成度、または業績を指す言葉である。「グンフー」を得た者とは、一芸において極めて秀でている人間のことであり、その一芸が何であっても違いはない。例えば、文章を書くことに並外れて長けているジャーナリストは、グンフーがあるといえる。良い腕を持ったペンキ職人も、同様にグンフーを見せているといえる。つまり、医学から乗馬に至るまで、もうおわかりのように武術でもゴルフでも、職業や余技など、すべての技能について適用されうる表現なのである。
 今日の社会でなら、自分の仕事を徹底的に修得すればグンフーは示され、自分自身を修めたことにもなる。自分自身を修めることは、少なくとも中国人の考え方からすると、個人が目指すにふさわしい、有意義なものである。中国の偉大な伝統によれば、一角の哲学者、才能ある錬金術師、熟練した医師、文学をよく研究した学生、注目される音楽家など、グンフーを修得した人は、すなわち自分自身を修めた人とされる〉(『ブルース・リーノーツ』)

鈴木大拙「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)

鈴木大拙は「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)において、次のように書いている。
「さて、東洋思想の特殊性ですが、西洋の人は客観的にものを見る。客観的に見るから知的になる。たとえば、ここに一つの紙片があるとする。西洋の人のやり方についていふと、この紙片は、白いとか、字が書いてあるとか、薄いとか、四角いとか、あるいはかう二つに折ってあるとか、そして科学的に見ると、この紙が何から出来てをるのか、──炭素がはひつてるだらうな、燃えるから。水素はないでせうね、水気がないから。──とにかくそんなことで、この紙がわかったことになるんですな。ところが東洋の人のやり方は、さうではなくて、特に老荘や、仏教の云ひ方は、さういふ紙を外から見た話でなくして、紙そのものになれといふのですね
そして、西洋の人が東洋のことを研究する、ことに仏教や老荘を研究するとき、これがどうしてもわからぬ。紙になれといふと、どうして人間が紙になれようかと、まあ、そんなやうに考へるですね。
鈴木大拙
お前が紙になれ、紙になれば紙がわかる。蜜柑になれば蜜柑がわかる。蜜柑の形容をいくら外から持ってきても、物理的、科学的に、今日はアトムの時代だから、原子的に考へてみたところが、蜜柑はわからぬ。蜜柑と一つになれば、それで蜜柑全部がわかる、といふやうなことを、欧米の人にいふと、蜜柑をどうしても外におく。どうして蜜柑になれようかと云ふ。客観的に、分析的にものを考へるくせのある人は、それが容易でない。東洋の人のはうは割合にやりやすい。さういふ伝統があるからですね。欧米の人はさういふ伝統を持たんですね。
欧米の人の考へにすると、ものになるといふその証拠が出ないといかんと云ふ。その証拠といふのが、客観的な証拠になるのですね。つまり研究をして、それを実験して、実験がその人の云ふ通りになれば、それで証拠が立つたといふわけです。ところが東洋の人、ことに仏教や老荘的な人は、証拠なんてことをいふから駄目なんで、証拠も何もないといふこと、そのことが証拠だ。このことのほかに証拠を求める必要はないと云ふ。いはゆる「肯心自ら許す」といふことでたくさんだ、と。
証拠を求めるとか、証拠を出すとかいふことが第二義におちいつてをるんだから、いらない話だ。かう云うても、西洋の人ではどうしてもその通りにならないのです。すべてが論理的にいかないと承知ができない。論理的にいくといふことが、また大きな力なんです。
客観的にものを処理していくところには、それだけの特色がある。それはどういふ特色かといふと、ものを概念化するといふことが、その特色の一つですね。
ところが、この分析的な客観的な見方をすると、蜜柑が一つ二つ、三つ四つと、いくつでもあるわけです。ところが主観的な見方といふか、東洋的な見方にすれば、一つの蜜柑になりきれば、その一つの蜜柑が、二つにも三つにもなりうるんだとするですね。西洋的の見方にすれば、二つ三つになったその蜜柑から、どの蜜柑にも通用する特質を抜き出してきて、これが蜜柑だといふのです。この蜜柑は少し青い、その蜜柑は黄色い、ことちは酸とぱい、そつちは甘いが、しかしながら、その蜜柑たるにおいては同じであるといふ。その蜜柑たる特殊性を抜き出してこれが蜜柑だと、かういふ。つまり抽象的な考へ方ができる。抽象的に考へることができるといふことも、また大切なことなんですがね。
しかしながら、抽象になると、個人の生きたものはなくなるですね。みな型にはまつてしまふ」

ブルース・リーと陰陽の理論

 世界にアジア人俳優の存在を知らしめた武道家ブルース・リーが32歳の若さで亡くなってから、今年(2023年)7月で50年が経つ。
 ブルース・リーは1940年11月27日にサンフランシスコで生まれた。広東演劇の役者だった父李海泉は中国系、母何愛瑜は白人と中国人のハーフ。彼は生後まもなく、イギリス植民地下の香港に帰国し、子役を務めるようになる。ところが、喧嘩に明け暮れるブルース・リーに手を焼いていた父の意向で、18歳のときにアメリカに渡る。
ブルース・リー

 21歳になった1961年、ブルース・リーはワシントン大学哲学科に進学し、勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始めた。1963年にブルース・リーは『基本中国拳法』を出版し、截拳道(Jeet Kune Do/ジークンドー)を創始している。
 そして、1971年に主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットとなった。そして、第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)、第3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)によって不動のトップスターの地位を築く。
 わが国でも、ブルース・リー主演映画の影響でカンフー・ブームが巻き起こった。筆者も小学生時代にヌンチャクで格闘ごっこをしたことを記憶している。
 ここで筆者が注目するのは、アジア人のアイデンティティにも基づいたブルース・リーの反植民地主義的な意識と、東洋哲学への深い理解である。
 ブルース・リーは『基本中国拳法』で、次のように書いている。
 「グンフーは、健康促進、精神鍛練、自己防衛の技術である。その哲学は、道教、禅、易経に基づくものであり、その理念とは、マイナスをプラスに変えることである。最小限の力で最大の効果を得ることを目標としており、そのためには敵の動きに調和し、無理せず相手に逆らわず適応することである。グンフーの技術は、力に頼るのではなく、エネルギーを最小限に抑え、陰あるいは陽のどちらか一方には偏らないということを目指している」(松宮康生訳)
陰陽
 「グンフーの基本的理念とは、陰陽の理論に基づくものである。このお互いに補足し合う力は、連続的であリ途切れることがない。この中国の思想は、あらゆる事柄に当てはめて応用することができるが、ここではグンフーのことに限って説明していくことにしよう。
 まず、円の中の黒い部分であるが、この部分は陰と呼ばれている。この陰と呼ばれる部分は、消極性、受動性、穏やかさ、空虚、女性、月、暗さ、夜などの意味を表している。それに対しもう片方の白い部分は、陽と呼ばれている。この部分は、積極性、能動性、堅固さ、実存性、男性、太陽、明るさ、昼などの意味を表している。
 よくある間違いは、この陰陽のマークを、二元論の太極のマークと混同することである。太極のマークでは、陰は陽に相反するものとだけ教えている。もし我々が陰陽の思想を この太極のマークの示すように2つあるものの一方に過ぎないという様に考えるなら、いつまでたっても真実を知ることはできないだろう。
 実際すべてのものは、補い合う部分というものを持っている。それは人間の心の中に、相反するものの中に存在しているのだというものの見方によるのである。太陽は月の正反対のものという考えは間違っているのである。それらは、お互い相関関係にあり、どちらか一方が欠けてもお互いが存在し得ない。同様に男性という存在は、単に女性という存在を補うだけのものではない。男性がいなくては、女性はこの地球上に存在し得ないのである。また、その逆もしかりである。 続きを読む ブルース・リーと陰陽の理論

はぐらめい「木村武雄という稀有な政治家を、政治の泥沼からすくいあげた書」(令和5年2月1日、『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』のアマゾン・レビュー)

『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』のレビューを、はぐらめい氏が書いてくださいました。

 〈木村武雄は私が住む地域選出の代議士だった。しかし、木村の思想的バックボーンへの関心は「金権的」イメージによってすっかり曇らされてしまっていた。木村武雄が私にとって身近であったはずの高校時代までは、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)がしっかり浸透した教育環境だった。それゆえ、石原莞爾に連なる木村武雄像は闇の中でしかない。木村武雄vs 黒金泰美という、この地の保守を二分した激しい選挙のみが印象に残る。黒金泰美は1962年第二次池田内閣で官房長官を務めるが、1964年「黒い霧」として騒がれた吹原産業事件の中心人物として『金環食』(石川達三1966)という小説にまでなり、その後仲代達矢主演で映画化もされる。そうしたあおりで大成を期待されていたはずの黒金は政界から消えてゆく。梶山季之の『一匹狼の唄』(実業之日本社 1967)も黒金泰美は悪役だ。木村との暗闘がうかがえる。一方の木村は、1967年に第2次佐藤内閣の行政管理庁長官兼北海道開発庁長官、その後1972年第一次田中角栄内閣で建設大臣兼国家公安委員長を務めることになる。私の中での木村武雄の実像はそうした記憶の中で曇らされていた。坪内氏はその曇りを吹き飛ばして、本来の木村武雄像をくっきりと浮かび上がらせてくれている。
 この書の「はじめに」はこう始まる。《令和4年9月29日、日中国交正常化50周年を迎えた。しかし今、対中強硬派の間では日中国交正常化の評判は決して良くない。国交正常化は、日本が政府開発援助などを通じて中国の経済発展を後押しし、中国を大国化させた元凶だと捉えられているからだ。/しかし、本書の主人公、木村武雄に光を当てるとき、日中国交正常化の評価は一変するかもしれない。木村は、石原莞爾の王道アジア主義体現の一歩として、日中国交正常化を位置づけていたのだ。/王道アジア主義とは、覇道の原理でアジアに迫る欧米の勢力を排除し、王道の原理に基づいたアジアを建設することにある。王道とは道徳、仁徳による統治であり、覇道とは武力、権力による統治だ。王道アジア主義の基本原則は、「互恵対等の国家間関係を結ぶ」、「アジア人同士戦わず」である。》(10p)戦後木村は石原の遺志を頑なに引き継ぐ。《木村は、「自分の後継には福田赳夫を」という佐藤(栄作)の意向に反して、田中派結成を主導、田中政権を見事に誕生させたのである。その過程で、木村と田中の間には、田中政権誕生の暁には日中国交正常化に動くという固い約束が交わされていたのである。》(11p)この書の意義はその経緯をつぶさに辿ったことにある。
 なぜこれまでこのことが見えなかったのか。ひとつは木村武雄自身が「政界の影武者」に徹するという意志を持っていたことにあるが、そこにはアメリカの影がある。《田中政権の日中国交正常化はアメリカの警戒感を掻き立てた。しかもアメリカは、田中の背後で動く木村武雄に石原莞爾の影を見ていたのではないか。占領期の言論統制によって壊滅したかに見えた石原の王道アジア主義は、生き残っていたのである。》(11p)田中を葬る画策としてロッキード事件が起こされる。《キッシンジャーの謀略だったとの説もある。》(12p)木村は木村で交通事故が因となって、復帰を果たすものの命を縮めることになる。《親父の事故は田中総理の動きを止めるための謀略だったと言う人もいます》(木村莞爾談 195p)。
 この書は、金にまみれ、行き着くところ殺し合いにも至る凄惨な政治の泥沼から、木村武雄という稀有な政治家をすくいあげた。あらためて、木村武雄に学ぶべきことは多いと思わされている。〉

『維新と興亜』令和5年3月号(2月28日発売)

『維新と興亜』令和5年3月号(2月28日発売)

【特集】國體と政治 守るべき日本の価値
日本の価値基準を国際標準に(城内 実)
哲人政治が日本を救う!(神谷宗幣)
既成政党に國體は守れない(福島伸享)
日本人の「助け合いのDNA」(立花孝志)
旧宮家養子を実現せよ(百地 章)
國體弱体化政策の恐怖(金子宗德)
知られざる社会主義者の國體観(梅澤昇平)
【巻頭言】岸田総理よ、日米地位協定抜本改定を求めよ(坪内隆彦)
【時論】地方議会における政党政治を打破せよ!(折本龍則)
【時論】政治に道義を、新自由主義に葬儀を(小野耕資)
【新連載】石原莞爾とその時代 ① オリジナルな思想家であり哲学者(山崎行太郎)
【新連載】高嶋辰彦─皇道兵学による文明転換① 天日奉拝によって感得した神武不殺(坪内隆彦)
【新連載】日本文明解明の鍵〈特攻〉① 日本異質論と奇跡の国日本論をこえて(屋 繁男)
神詠と述志からなる日本の歴史⑤ 古事記が今に伝えるもの(倉橋 昇)
誠の人 前原一誠 ③ 仁政、そして王道(小野耕資)
世界を牛耳る国際金融資本④ 自給自足は巨大防衛力だ(木原功仁哉)
「維新」としての世界最終戦  現代に甦る石原莞爾 ⑧ 統制主義(金子宗德)
台湾を全面支援します。その④(川瀬善業)
高風無窮⑦ 道心と無道心と(森田忠明)
いにしへのうたびと⑨ 山部赤人と笠金村 上(玉川可奈子)
在宅医療から見えてくるもの⑩ 軽んじられてしまう、ケア(福山耕治)
崎門学に学ぶ 『白鹿洞書院掲示』浅見絅斎講義 ③(三浦夏南)
竹下登論④ 政治改革と選挙制度改革の混同が起こした悲劇(田口 仁)
【一冊にかけた思い】鈴木貫太郎著『ルポ 日本の土葬』
【書評】荒谷卓・伊藤祐靖『日本の特殊部隊をつくったふたりの異端自衛官』/村尾次郎著・小村和年編『小咄 燗徳利 昭和晩期世相戯評』
昭和維新顕彰財団 大夢舘日誌(令和4年12月~令和5年1月)
活動報告
読者の声
編集後記

教学の中心的指導精神を神道に置いた北条氏長─河野省三『近世の国体論』より

 教学の中心的指導精神を神道に置いた北条氏長の兵学について、河野省三は『近世の国体論』(日本文化協会出版部、昭和十二年)で次のように書いている。
河野省三
 〈氏長の兵学が神道精神を中心として展開し来り、素行の兵学が國體観念に結合して所謂武士道としての学的体系を取つて進展し行くことは、日本精神発展史の上からも深く注意すべきことである。……有馬成甫氏の『北条氏長とその兵学』には、彼の行動を支配した精神の中心は天照大神の信仰であつて、深く神道に帰依して居つたことを明かにし、又吉田家の唯一神道に於いて重んじた三社託宣に対する尊信が其の日常行為に著はれ、後学松宮観山等の思想にも深い感化を与へたことを一言し、更に進んで、氏長の兵学に於ける特徴として、師伝を体系化したこと、其の本質が教学であること、其の教学の中心的指導精神を神道に置いたこと、その兵学が、実学であることの四点を挙げてをる。此の中で、特に注意すべき点は、氏長の教学としての兵学が、その中心的指導精神を神道に置いた点であつて、其の神道思想の中心が天照大神であることである。北条流の兵法三ケ条の大事として、人事の乙中甲伝、地理の分度伝、天理の大星伝といふことがあるが、大星伝といふのは、当時、兵家の問に尊重された心魂鍛錬の秘法である。氏長には『大星伝口訣』といふものがあるが、「兵家相承天理ノ大事大星ニ止レリ」といふ重要性を有するものであつて、「当流日本流」の立場から、大星を以て.日輪として天照大神に配し奉り、大神の分身たる自家の心魂に大光明を見出し、此に道徳の本体.武道の本源を定めようとする法である〉

「木村武雄の日中国交正常化への執念」(『米沢日報』令和5年1月1日付)

 令和4年は、日中国交正常化50年の節目の年だった。南シナ海や尖閣諸島周辺での覇権的な動きを強め、台湾の武力統一を掲げ経済力と軍事力を強大化させる中国に対して、トランプ前大統領は、米国の対中戦略は大きく変化し、封じ込めに動き出した。現在の日本人の中国観も日中国交正常化当時から見ると隔世の感がある。50年という節目の年としては盛り上がりに欠けた。
 米沢市出身の政治家で、建設大臣を務めた木村武雄は、自分の息子に、石原莞爾の名をとって「莞爾」と名付けるくらいに、戦前から石原の思想に共鳴し、石原の王道アジア主義の体現として、日中国交正常化を位置づけた。
 王道アジア主義とは何かだが、アジアに対して覇道の原理で進出する欧米を排除し、王道の原理に基づきアジアを建設することで、王道とは、道徳、仁徳による統治を指し、覇道とは武力、権力による統治をいう。
 その王道アジア主義の基本原則は、「互恵対等の国家間関係を結ぶ」、「アジア人同士戦わず」である。
 木村は、支那事変拡大に反対し、昭和14年に東亜連盟協会を設立、東条政権の覇道に反対した。戦後、木村は石原の魂を守り抜き、日中国交正常化に執念を燃やすが、時の佐藤栄作総理大臣は動かなかった。そこで目をつけたのが田中角栄で、田中派結成を主導し、昭和47年田中政権が生まれた。それは同年9月の田中首相訪中によって、「日中国交正常化」へと歴史を動かしていった。
 本書では、政治家木村武雄の誕生、石原莞爾と東亜連盟、王道アジア主義の源流、執念の日中正常化、田中角栄失脚の真相─王道アジア主義を取り戻せ、という5章から構成されている。木村武雄の子息である木村莞爾、孫の忠三の両氏への取材をした。
 著者は王道アジア主義の源流として、西郷隆盛、米沢の宮島誠一郎、宮島大八などを挙げている。これまで日中国交正常化における木村武雄の役割が知られてこなかったのは、木村が「政界の影武者として生きる」と決めていたからと著者は述べている。

「木村武雄の日中国交正常化への執念」『米沢日報』令和5年1月1日付