久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南②─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米の崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。

●「廉潔実に感ずべきなり」
〈先生易簀(えきさく)の後門人等力を戮(あわ)せ金を醵して塚壙(ちょうこう)を営み、且永く追遠の誠を致さんが為祭祀田九畝同畠八畝を附して歳次の弔祭怠らざりしが、再来物換り星移りて百数十年、住吉村光白に於ける田一反一畝二十歩及び同村字石迥なる畑七畝十八歩の祭田は何時しか福山氏の管する所となり、明治十八年二月転じて田畑共に船津仙吉兄弟の私有に帰し、畑地は同四十五年二月更に宅地百二十二坪と同百五十坪とに分裂して地目変換せらるゝに至り、されど其土地今尚合原どん(合原殿の義)の屋敷と称せ
られ、墓守福山氏は毎年八月二十一日隣保の人を招きて先生の追弔供養を為せりといふ。
 先生初め立石氏を娶る早く歿す一女あり又夭す、継室長岡氏一男を生む名は藤太郎景修と称し父の任を以て月俸を受け中士に列せしが先ちて歿せり。先生著す所四書資講、太極図説資講、初学筮要(ぜいよう)、読書録類纂、易本義頭書、鬼神魂塊二弁、古語仮字講義、久留米城之記其他詩文遺稿等あり。
 先生資性恭謙よく人と感化す、其致仕して馬場村に退隠せしより以後俸米は之を庭内に積みて一も消費せざりきといふ、盖し公職なくして禄を受け之を私するに忍びず、蓄へて以て窮民を恤み或は善行者を賞し、若くは村邑公共事業の資に供せしならん、其廉潔実に感ずべきなり。〉

[続く]

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南①─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 
 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。
●法衣を脱し浅見絅斎門に入る
〈合原藤蔵名は餘修初め権八と称す、三潴郡住古村の人なり、本姓は草野氏山本郡(今三井郡)発心の城主草野右衛門督鎮永の後裔にして、父を道秋と云ひ医を業とす、母は牛原氏寛文三年三瀦郡往吉村に生る、先生幼にして穎悟大に読書を好む、年十一出家して僧と為り十七歳にして説法明弁なり、後京都及び江戸に遊び傍ら儒教を学び、壮年に及んで自ら其非を悟り、翻然として法衣を脱し髪を蓄へ浅見安正(浅見絅斎)の門に入り道を信ずること愈篤く、行を砺くこと盆々精く、特に性理易学に長じ其名京師に震ふ、宝永六年久留米藩主有馬則維公召して儒官とし一藩士太夫の子弟を教授せしむ、生徒の従学する者頗る多し、米藩宋学の盛なる蓋し先生を以て先唱とすべし。
 正徳三年御条目御事目の制定せらるゝや先生其議に参与し同法令発布の際には湯川丙次(号東軒)と共に之が説明の任に当れり、斯くて在官十余年、享保八年の秋病を以て上妻郡(今八女郡)馬場村(今の上妻村大字馬場)に隠遁して窓南と号す、時に年六十一、是に於て国老以下諸士相追随して往いて道を問ふ者日夜絶えず。
 先生上妻の僻村に在りて士民と教育すること十一年門人数百人に及ぶ、享保十八年八月藩侯有馬頼徸(よりゆき)復公再び先生を登用して侍講とし稟米二十九地を給し秩竹間格に班す、又其老を優待し轎(きょう)に乗りて出勤し且庁に在りて帽を冠り寒を禦ぐことを許さる、時に年七十二、元文二月八月二十日病んで歿す享年七十又五、住吉村東南原山先塋の次に葬る、碑面題して「合原窓南之墓」と曰ふ遺命に従ふなり。〉(一~二頁)
*なお、同書において、「合原」は「あいはら」ではなく「ごうばる」のルビが振られている。

[続く]

古松簡二②─篠原正一氏『久留米人物誌』より

 篠原正一氏の『久留米人物誌』は、古松簡二の人物録を以下のように続ける。

●丸山作楽・岡崎恭助らと連携
 〈明治三年、東京に出て有志と交わり、島原の丸山作楽・土佐の岡崎恭助らと連結して政府転覆を謀って、故郷溝口村に帰って来ていた時、豊後鶴崎(肥後藩領)の高田源兵衛に身を寄せていた大楽源太郎(長州奇兵隊の指導者で、その解隊反対の反乱に失敗して長州藩に追れていた)らの隠匿を高田から頼まれ、小河真文にはかって大楽一行を隠匿した。大楽隠匿は、旧藩主の身をも危くする明治四年藩難の辛未事件と展開した。古松は事件の中心人物として捕えられ「其方儀、曽而攘夷の宿志ある迚、同藩小河真文と窃に同志を募り、血盟を致し、或は岡崎恭助・堀内誠之進・高田源兵衛等申会、旧山口藩暴動之奇兵隊に応じ、当時之緒藩を煽動し、其上、丸山作楽等倶に朝鮮国へ暴発襲撃を為さんと企る。右科除族の上斬罪申付べき処、特旨を以死一等を減ぜられ懲役終身申付る」の終身禁獄の宣告を受け、東京石川島の獄に服役した。獄中にては囚人に人倫の道を説いてその教誨に当り、「愛国正議」「神教弁」等数十部の著書を書いた。明治十五年、獄中にコレラが流行した。このコレラ患者を看護中、自らも感染して明治十五年(一八八二)六月十日没。享年四八。墓は東京麻布東光寺。〉