日支親善の実行者『盛京時報』

東亜同文書院第26期生(昭和5年)若宮二郎、大久保英久、宮澤敝七と祖父川瀬徳男の4名が残した旅行記「白樺の口吻」には、奉天の西田病院と並んで、盛京時報社が「真の日支親善の実行者」であると書かれている。
まず、盛京時報社について基本的なことを確認しておきたい。『盛京時報』は、1906年10月18日、満州初の日本人経営漢字新聞として創刊された。以来、1945年までの38年間にわたって、多くの報道・社説・文芸作品などを発表した。
同紙刊行を主導したのは、北京で漢字新聞『順天時報』を経営していた中島真雄である。創刊時主要メンバーには、中島のほかに、主筆稲垣伸太郎、営業担当の一宮房太郎、染谷宝蔵、編集担当の佐藤善雄がいた。
中島は、日本奉天総領事萩原守一から資金提供を受けるとともに、奉天の清政府官員と交渉して、記者の採用、職員の募集などの支援を得ている。奉天民政使張元奇、奉天交渉局長陶大均など満州の清政府有力者からも協力を得た。
華京碩氏によると、1915年に中島真雄の支援金着服疑惑が発生し、警告処分を受けて以降、『盛京時報』の紙面に外務省の主張に反する記事が出るようになった。
1926年には、東亜同文書院で教鞭をとっていた佐原篤介が社長に就任し、時事問題を論じ、言論界で重要な役割を果たすようになる。

ポケット版『靖献遺言』を贈られた




平成27年12月21日、崎門学研究会代表の折本龍則氏から、予期せぬ贈り物を頂戴しました。
山崎闇斎の高弟浅見絅斎の『靖献遺言』のポケット版です。明治43年10月25日に刷られたもので、この種の本を手に入れられたのはまさに奇跡的。
かつて、橋本左内など幕末の志士たちは、常時『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと伝えられていますが、これを贈られたいま、この平成の時代に『靖献遺言』を懐中に忍ばせることができるのです。