乃木希典大将と『中朝事実』

元治元年(一八六四)年三月、当時学者を志していた乃木希典は、家出して萩まで徒歩で赴き、吉田松陰の叔父の玉木文之進への弟子入りを試みた。ところが、文之進は乃木が父希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、「武士にならないのであれば農民になれ」と言って、弟子入りを拒んだ。それでも、文之進の夫人のとりなしで、乃木はまず文之進の農作業を手伝うことになった。そして、慶應元(一八六五)年、乃木は晴れて文之進から入門を許された。乃木は、文之進から与えられた、松陰直筆の「士規七則」に傾倒し、松陰の精神を必死に学ぼうとした。
乃木にとって、「士規七則」と並ぶ座右の銘が『中朝事実』であった。実は、父希次は密かに文之進に学資を送り、乃木の訓育を依頼していたのである。そして、入門を許されたとき、希次は自ら『中朝事実』を浄書して乃木にそれを送ってやったのである。以来、乃木は同書を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行していた。 続きを読む 乃木希典大将と『中朝事実』

神武創業の詔勅

肇国の理想は神武創業の詔勅に示されている。『日本書紀』は次のように伝える。

「我東(あずま)を征ちしより茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威を頼(かゝぶ)りて、凶(あだ)徒(ども)就戮されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ清らず、余(のこりの)妖(わざはひ)、尚梗(あれ)たりと雖も、中洲之地(なかつくに)(大和地方=引用者)復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都を恢(ひろめ)廓(ひら)き、大壮(みあらか)を規摸(はかりつく)るべし。而るに、今運(とき)此の屯蒙(わかくくらき)に属(あひ)て、民(おほみたから)の心朴素(すなお)なり。巣に棲み穴に住み習俗(しわざ)惟常となれり。夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。苟も民に利(さち)有らば、何にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且当に山林を披(ひらき)払ひ、宮室を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮め、上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし德(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(ただしき)を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為むこと、亦可からず乎。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か、可治之(みやこつくるべし)」 続きを読む 神武創業の詔勅

能勢岩吉『皇道政治早わかり』読書ノート

皇道精神の普及徹底を目指して中正会を結成した能勢岩吉は、昭和十二年に刊行された『皇道政治早わかり』において、皇道政治の特徴を次の三点に要約した。
一、忠誠 皇室を奉じて国家の発展を図ること
二、民意を愛し之に満足を与へる政治でなければならぬこと
三、国民相和し、協力一致して、国家国民の幸福を図ること

第一の特徴に関して、能勢は、皇道精神の中心となる思想は、忠孝であり、これを煎じつめれば、「中」の精神であると思うと書いている。彼は、「中」という文字が不偏不倚、過不足なく、公平無私の状態を表していると同時に、物の中心を表現していると説く。そして、これをさらに遡って考えると、『古事記』において、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神が「天御中主命」であることに鑑みても、この天地の全てを造った働きが「中」であると思われると主張する。
「此の『中』こそ、此の世界に活動してゐる公平無私で、慈悲至らざる無き創造の大生命であると思ふのであります」(能勢岩吉『皇道政治早わかり』中正会、昭和十二年、十七頁) 続きを読む 能勢岩吉『皇道政治早わかり』読書ノート

藤澤親雄の皇道政治論②

法と倫理の分裂
藤澤親雄は、神武創業の詔勅に示された肇国の理想が「道義確立と徳治政治」にあったと説き、建国と樹徳とは不離の関係にあり、法と国家倫理とは不可分の関係にあると主張した(『政治指導原理としての皇道』三十五頁)。
ところが、明治維新後、西欧の自由主義的学説が輸入されるにつれて、国体論も法律的観察と倫理的観察とに分裂したと、藤澤は指摘する。
そして彼は、大日本帝国憲法第一条の解釈に関して、自由主義的法学者たちが、国体の語を倫理的観念だとして、法の領域から排斥しようとしていると批判する。
つまり、自由主義的法学者たちは、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのを、単にわが国が法律上、君主政体であり、倫理的意味の国体を示すものではないと主張していると、藤澤は批判するのだ。自由主義的法学者たちは、君主政体とは法律制度を指す語であり、そこには過去の歴史を示す意味も、国民の倫理的感情を示す意味も含んでいないと解釈しようとしていると。そして、藤澤は次のように結んでいる。 続きを読む 藤澤親雄の皇道政治論②

藤澤親雄の皇道政治論①

三権分立と「ツカサ」、「ミコトモチ」
戦前、皇道政治論を説いた藤澤親雄は、個人主義、自由主義の弊害を説くとともに、当時の政治制度に対して皇道の立場から独自の見解を示していた。
彼は、三権分立制度は決して天皇の御政治の分裂を意味するものではないと主張したのである(藤澤親雄『政治指導原理としての皇道』国民精神文化研究所、昭和十年三月、二十七頁)。彼によれば、わが国の三権分立は、欧米のように「権力的分立」や「権力的分割」ではなく、「機能的分立」だからである。
彼はこの「機能的分立」が、古代における「ツカサ」、「ミコトモチ」の思想と相通ずるとし、次のように書いた。 続きを読む 藤澤親雄の皇道政治論①

古川栄一、「いよいよEAEC発足へ」と

マハティール元首相が提唱したEAEC(東アジア経済会議)構想の実現に尽力した古川栄一は、日本国際戦略センターを主宰し、シンポジウムや交流会など、あらゆる機会を捉えてEAEC実現のための啓蒙活動を展開した。
1997年12月に第一回の「ASEAN+日中韓」(ASEAN+3)首脳会議がクアラルンプールで開催されることになった。この会議を控えた11月、古川はニュースレターで「いよいよEAEC発足へ」と書いた。
実際、産経新聞社の内畠嗣雅記者は、ASEAN+3首脳会議開催の翌日、次のように報じた。
「マハティール首相が地域の発言力強化のために提唱した東アジア経済会議(EAEC)構想が形の上で実現した格好になった」

ASEAN+3への道②─APECとEAEC

アメリカとの戦い

ロバート・スカラピーノ

 マハティール首相の構想は歪曲して伝えられてきた。特に、アジア太平洋という枠組みで、自らの主導圏確保を目指すアメリカは、EAECは危険な構想だとしてそれを葬り去ることに全力を傾けた。アメリカのアジア問題の権威、ロバート・スカラピーノ・カリフォルニア大学名誉教授は、EAECについて「白人立ち入り禁止の看板を掲げたようなもの」と断じた。
 そして、ベーカー国務長官は、「太平洋に線を引こうとする危険な構想だ」「日米分断につながる構想だ」とくり返し批判した。
 アメリカの反発に対してマハティール首相は強く反論しなければならなかった。
 マハティール首相は1991年4月27日、海部首相を迎えた歓迎晩餐会のあいさつでEAECに触れ「太平洋の東側沿岸諸国が排他的グループを形成する一方で、西側沿岸諸国が協議の場すら設けてはいけないというのは非論理的だ」とアメリカを批判した。
 マハティール首相は、各国の支持を得ようと必死の説得を試みたのだった。1991年4月、彼はラフィダ・アジズ貿易産業相を日本に送り込んだ。4月4日、ラフィダは外務省で中山外相と会談、EAECについて「排他的なブロック経済圏を目指すものではない」と説明した。ラフィダは会談で、「この構想は、ウルグアイ・ラウンドの成功を目指して、東アジアの諸国で協議の場を作ろうという趣旨だ」としたうえで、APECと共存できることを強調している。
 ラフィダ大臣は、1991年5月には、シンガポールで開いた太平洋経済協力会議(PECC)総会で、EAECの狙いを説明した。アメリカやオーストラリア、カナダなどの代表団からは次々に批判や疑問の声が上がったが、ラフィダはこのすべてに反論、「排除などと言ったことはない。同じ地域の国が話し合いの場をもとうというだけ」と頑張った。
 1991年7月のASEAN外相会議では、マハティール首相自らEAEC説得につとめた。
 「貿易ブロックではなく東アジア諸国のゆるやかなフォーラムだ。自由で開かれた多国間貿易を守るためにこそ考えた」。
 1991年9月の国連総会演説では次のように語っている。
 「アメリカがカナダ、メキシコとNAFTA作りを進めていながら、一方でEAEGに反対するのは、背景に人種差別的な偏見がある」。マハティール首相は刺激的な言葉を使ってアメリカを批判した。
 マハティール首相は必死に、EAECが保護主義に対抗するものであることを強調した。彼はEAECが自由貿易を維持する目的に適うことを繰り返し強調し、警戒感を解こうとしたのだ。
 彼は、EAEC反対論を緩和させるため、1991年10月のASEAN経済閣僚会議で、わざわざ経済グループ(ECONOMIC GROUP)を意味するEAEGを経済問題を随時に話し合う経済協議体(ECONOMIC CAUCUS)を意味するEAECに改称までし、アメリカの警戒感を解こうとした。

APECとEAEC
 EAEC提案の背景には、APECだけではASEANの利益を確保できないという認識がある。
 もともとAPECは1989年末にキャンベラでスタートした。ECのブロック化に反対し、開かれた地域機構として動き出し、域内の多角的自由貿易体制の強化・拡充を図ることを目的としてきた。1991年11月にソウルで開かれた第3回会合も、「自由貿易の原則に即し開かれた地域主義の見本となるべきであり、多角的自由貿易体制を補完し強化する」と誇らしげに謳った。
 マハティール首相がECのブロック化反対を主眼とするなら、APECで良かったはずだ。だが彼は、EAECというAPECとは別のものを構想した。EAECにはAPECに参加しているアメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの4カ国が除外されている。
 それは、マハティール首相が先進国主導のAPECに不信感をもっていたからである。アメリカなどの先進国の都合のいいように組織が運営されては途上国の利益を擁護することはできないとマハティール首相は考えていたのである。
 こうした懸念はマハティール首相だけのものではなかった。APECスタート時のASEANの論議を振り返ってみるとそれがよく理解される。
 1989年7月ASEAN拡大外相会議で、インドネシアのアラタス外相がAPECの問題点をはっきりと指摘している。アラタスはASEAN経済閣僚会議との関係、地域組織としての参加国の資格の設定のあり方などでさらに検討の余地が多いと述べたのである。アラタスの顧問のユサフ・ワナンディは、「この地域協力の主役はASEANである」と述べ、アメリカが主役ではないのだとくぎを刺した。
 ASEAN各国はみな、APECが先進国や大国に支配されることを警戒し、ASEANがあくまで主役として利益を得られるものでなければ参加できないという立場にたっていた。先進国はこうしたASEANの警戒感を巧みにとき、ようやく1989年11月6日に第1回のAPECがスタートしたという経緯があるのだ。
その会議初日の6日、議長役のエバンス・オーストラリア外務貿易相がまとめた議長総括の原案が示された。 ところが、そこにはASEANに触れたくだりがまったくなかった。アラタスは激怒した。実は会議前日、ASEAN6カ国の参加閣僚は、長時間の作戦会議を開いて「ASEANペーパー」を作成していたのだった。ASEANの主体性の維持をはっきり打ち出すASEAN共通の方針をまとめたものである。エバンス原案はASEANペーパーに反するものだったのである。
 翌7日、討議がスタートされるやいなやアラタスは、発言をもとめた。「APECは既存のASEANの機構を活用し、ASEAN事務局が調整役となるべきだ」。
 やむなくエバンスは「今後の高級事務レベル協議にASEAN事務局代表を加える」などの内容を盛り込んで原案を全面的に書き直した。このときオーストラリアやアメリカの高官の間では「ASEANは図に乗っている」という声さえ出たのだった。
 ともかくAPECが回を重ね、インドネシアなどASEAN諸国が参加をつづけてきたのは、ある程度ASEANの意向が反映され、ASEANのメリットになるプログラムが動いていたからである。だが、マハティール首相はそれをアメリカ、オーストラリアなど先進国の一時的譲歩と見ていたのかもしれない。彼は、途上国や小国の意見が無視されるだけでなく、先進国に都合のいい組織となり、協力機構としての意味がなくなってしまうという警戒感を持ちつづけていた。だからこそ、彼はEAECを提案したのである。
 マレーシアのリム・ケンエク第一次産業相は、マハティール首相の心情をこう代弁した。
 「アジア以外のアメリカやカナダ、オーストラリアなど主要先進国を入れれば、発展途上国の意見は排除されるだろう。これがAPECがあるにもかかわらずEAECを提案する理由である」と。
 マハティール首相は、アジアの途上国の利益が確保されるアジア・太平洋の協力をもとめているだけなのである。

アメリカの反対に抗して
 アメリカのASEAN分断工作を乗り越え、1993年7月24日、ついにASEANは定期外相会議において、公式にEAEC支持を決定した。
 奇妙なことに当初、スハルト大統領は「APECこそASEANの利益を促進し、世界のブロック化に対決することができる」と述べ、EAECに慎重姿勢をとっていたのだ。このインドネシアの立場はちょっと奇異に感じられる。APEC結成の際にあれほどアジアの主体性を訴えたはずのインドネシアが、「EAECよりもAPECで」というのはとにかく不自然に見えた。いったいどうしたことか。
 インドネシアの消極的姿勢には、マハティール首相が十分な相談なくEAECをぶち上げ、ASEANの盟主としてのプライドを傷つけられたことへの反発があるとも指摘されている。だが、何よりもアメリカのEAEC反対論が影響したのではなかろうか。
 しかし、1993年7月17日にスハルト大統領はマレーシアのランカウィ島でマハティール首相と会談、ようやくEAEC支持を表明したのだ。
 インドネシアとともに、当初消極姿勢をとっていたのは韓国である。1991年11月12日、盧泰愚大統領は「アジア・太平洋地域の協力は決して東アジアと米大陸の競争関係を招くものであってはならない」と強調、EAECを牽制した。しかし、その立場も金泳三政権になって次第に変化していった。ベルナマ通信によると、1993年4月19日、韓国の韓昇洲外相は、アバドラ・バダウィ外相と会談し、「EAECを極めて前向きに検討している。構想がASEAN内で具体化すれば、参加したい」と語っているのだ。そしてASEANでのEAEC支持合意直後の1993年7月27日、韓昇洲外相は武藤外相との会談で「ASEANの動きはEAEC実現に向け積極的一歩と考えている。日本とよく連絡して対応したい」と述べるようになった。

ASEAN合意から実質的な会合へ
 マハティール首相はクリントン政権のEAECに対する態度の変化をにらみながら、まずASEANでの合意に向かって邁進したのだ。この結果、ASEANは1993年7月9、10の両日、ジャカルタで外相会議の準備会合を開き「アジア太平洋地域の既存組織の枠組みを活用し、その一機構にEAECを位置づける」ことで合意した。ただ、どの既存組織を活用するかで、合意がなかなか得られなかった。インドネシアは、EAECをAPECの付属機関とすることを提唱した。これに対して、マハティール首相はASEAN経済閣僚会議の付属機関にするよう主張した。ここで決着はつかず、7月19日からの高級事務レベル協議で再び協議されたのだ。
 そして1993年7月23日、ついにEAECはASEAN外相会議で合意された。「APECの中の協議の場」として位置づけつつ、「ASEAN経済閣僚会議が支持し指導する」という玉虫色の決着だが、とにかく妥協が成立したのである。
 1994年3月24日にクアラルンプールで開かれたPECC総会でも、ASEAN各国は大国主導を拒否したASEAN主体の「独自の共同体」づくりを強調し、実質的にEAEC推進を確認している。
 そして1994年4月下旬に開いたASEAN経済閣僚の会合で、EAECをアメリカに提案し、設立に理解を求める方針を確認、1994年5月9、10日にワシントンで開かれたASEANとアメリカの定期協議で、ASEAN側は、アメリカにEAECの設立方針を正式に文書で提案している。
 ここに至っても、日本はEAEC支持に踏み切れなかったのである。1994年7月4日、河野洋平外相はASEANのアジット・シン事務局長、東南アジア各国の駐日大使と意見交換した。ここで、シン事務局長は、EAECについて、「APECの枠内の一つの協議体と位置づけており、APECの原則と両立する」と説明して、日本の協力を求めた。ところが、河野外相は「アメリカを含む関係国の理解と協力を得ていくことが大切だ」と述べ、慎重な立場を崩さなかったのである。
 これに対して、ASEAN側は、1994年7月25日にバンコクで開催されるASEAN地域フォーラムの前に「EAEC非公式外相会合」を開催するという方針を決めた。河野外相は、非公式の会合との立場で、ようやく出席を決めた。
 その翌日の『日本経済新聞』は次のように報じている。
 「EAECへの参加に慎重な日本を含む初会合がひとまず次の会合に結び付き、ASEANはEAEC始動に一歩近付いた。一方、EAECへの反対姿勢を強めていた米国は押し切られた格好で、今年11月のAPEC首脳会議に向け米の出方が焦点になってきた」
 この時点で、EAECとは呼ばれないが、EAECメンバー国による会合はすでに実現したのである。
しかし河野外相は、翌26日にタルボット国務副長官と会談し、「EAECの性急な結成はASEAN、米国双方や日本にとって好ましくない」とEAECにブレーキをかけたと弁明している。
 1994年8月27日には、村山首相がマレーシアを訪問、マハティール首相と会談した。しかし、ここでも村山首相は「関係諸国の理解と支持を得ることが必要」と述べて慎重姿勢を崩さなかった。1995年4月には、EAECメンバー国の経済閣僚会議がタイのプーケット島で開催されることになった。ところが、通産省は、会合に参加する条件として、オーストラリア、ニュージーランドの出席を求めたのである。ASEAN側には受け入れがたい条件である。こうして、日本は会議への欠席を決めてしまったのである。ASEAN側は、日本の態度に落胆。タイのスパチャイ副首相は、日本の態度を激しく批判した。
 だが、1995年11月に大阪で開催されたAPEC閣僚・首脳会議の際に、実質的なEAECメンバー国の経済閣僚会議が開催されているのである。むろん、日本政府はアメリカに配慮してEAECとは呼べなかった。
 毎日新聞社の大野俊記者は、次のように振りかえる。
 「大阪でのAPEC閣僚・首脳会議。その合間にASEANと日中韓の経済閣僚は昼食会という形で会合を持った。その際、日本政府は『EAEC会議』と見なされるのを恐れてか、広報もせずこっそり開こうとした。
 この会合予定を事前に私に耳打ちしてくれたのは、知り合いの若手官僚である。『初のEAEC会合なのに、どうして報じられないのか』と言いながら。翌朝、1面トップで「初のEAEC候補国経済閣僚級会合」と報じた新聞記事を見て、日本政府高官は『来年のアジア欧州会議について話し合うだけで、EAECとは関係ない』とおかんむり。しかし、くだんの若手官僚は『あの記事の通りだよ』と言ってくれた」(『毎日新聞』2000年5月22日付朝刊)。
 ASEAN側は、EAECという名を使わずに、実質的なEAEC会合を重ねるという方針をとらざるを得なかったのである。


東アジア経済グループ(EAEG)への道

飛び上がるように驚いた池田外相

1996年3月、アジアとEU首脳との第1回アジア欧州首脳会議(ASEM)が開催されることになり、その議題や運営方法などを事前に話し合う目的で「ASEANプラス日中韓」という枠組みの閣僚会議が開催された。

1997年12月には、「ASEAN+日中韓」(ASEAN+3)首脳会議がクアラルンプールで開催された。このときも、日本は消極的姿勢を示していたが、ASEAN側が日本が不参加ならば、中国、韓国だけと会談を開催するとの立場をとったために、参加に踏み切ったとされている。
古川栄一は、「日本はEAECに参加しないから、EAECは自然死すると豪語した。アセアン側は、そこで日本抜きで、しかも中国(および韓国)の参加のみでEAECの首脳会議を開催することにした。そうして日本の池田外相は、跳び上がるようにして驚いて、日本は首脳会議に参加した」と書いている(古川栄一「アジアの平和をどう築きあげるか」(歴史教育者協議会編『歴史教育・社会科教育年報〈2001年版〉二一世紀の課題と歴史教育』三省堂、2001年、24頁)。
産経新聞社の内畠嗣雅記者は、ASEAN+3首脳会議開催の翌日、次のように報じている。
「マハティール首相が地域の発言力強化のために提唱した東アジア経済会議(EAEC)構想が形の上で実現した格好になった」 続きを読む 東アジア経済グループ(EAEG)への道