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坪内高国「勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」─『富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒 2』

 『岐南町史』(昭和五十九年)によると、慶應四年二月十日、坪内高国は大垣竹島町の本陣において、東山道鎮撫総督岩具定・同副総督岩倉具経両人に謁し、勤王遵奉の趣旨と、この上にも勤王いたすように、と諭された。
 一方、尾張藩士・荒川弥五右衛門(荒川定英)は勤王誘引のために美濃に派遣されていた。荒川は尾張藩士坪内繁五郎の弟で、尾張藩荒川家へ養子入りして、荒川弥五右衛門を称した。坪内繁五郎家の祖は、各務郡前渡村坪内氏三代嘉兵衛定勝の四男坪内兵左衛門定繁であり、荒川と高国とは血縁関係があったのである。
 二月十三日、平嶋坪内氏家老の岩塚らい輔は、高国の名代として、濃州大野郡揖斐にいた荒川を訪問も、「勤王之道相顕侯ニ付、本知是迄の通、被成置侯事」との書状を受け取った。これに対して、高国は「此之上は勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」との内容の請書を提出している。
 これらの内容は、『富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒 2』(平成6年2月)に収められている高国の文書で裏付けられる。

本物の尊皇攘夷と偽物の尊皇攘夷

 いま、明治維新の本義(幕府政治を終焉させ、天皇親政を回復した)を覆い隠すかのように、「明治維新とは薩長による権力奪取であった」とする史観が横行している。このような史観は、幕末とそれ以前の時代とを切断するところから生じている。尊皇攘夷に挺身した幕末の志士は、承久の悲劇以来、建武中興の挫折、徳川幕府全盛時代に始まる崎門派の運動と続く、「本物の尊皇思想」の流れの中でとらえられなければならない。
 一方、明治維新の過程においては、尊皇攘夷の思想を権力奪取の道具として利用した者も存在したかもしれない。それは「偽物の尊皇思想」である。この本物と偽物を峻別することなしに、明治維新を理解することはできない。
 同時に、薩長の一部にあった権力奪取優先の考え方は、外国勢力の介入と切り離して考えることはできない。外国勢力の介入抜きには、明治維新と同時に新政府が開国和親へと旋回した理由が説明できない。
 これらの問題を考える上で、副島隆彦氏の『属国日本史 幕末編』は、極めて示唆に富んでいる。副島氏は、冒頭で「尊王攘夷という思想を、後世、計画的に骨抜きにした者たちがいる。『明治の元勲』と後に呼ばれた者たちだ」(2頁)、「幕末維新とは『本物の尊王攘夷派』と『偽物の尊王攘夷派』との血みどろの闘いであったのだ」(3頁)と明言する。
 そして、「幕末維新の歴史に大きく横たわっている問題は、この思想(尊王攘夷)に対して、誰が最後まで忠実であったか、誰がどこでおかしな裏切りをしたのかということだ」(158頁)と提起しながら、歴史の流れを描く。

松本丘先生の近藤啓吾先生追悼文

 平成29年12月25日、崎門学正統派を継いだ近藤啓吾先生が亡くなられた。それからおよそ半年、『日本』平成30年7月号に皇學館大学教授の松本丘先生が「近藤啓吾先生を偲ぶ」と題して、追悼文を書かれている。
 〈先生の学問が、資料の博捜と、厳密な考証の上に成り立つてゐたことは勿論であるが、その一貫した姿勢は、

   私は、今日「論文」と称するものに多い、科学的研究とか実証的研究を看板として、古人を自分と同列に引きさげ、第三者の目をもってこれを冷たく観察し評価する態度に同感することができない。私にとつて古人は私の生き方の目標であり手本であり、みづから反省する鑑である。(『続々山崎闇斎の研究』緒説)

といふ述懐に端的に示されてゐる。そしてそれは、闇斎・絅斎・強斎三先生の学問への景仰となつた。

  いつしかこの先学が苦しみつつたどつた道程、すなはち現実より根源、倫理より信仰、儒学より神道へといふ道を、私もたどるやうになってゐた。(『講学五十年』)

かくの如く、三先生の辛苦の跡を、そのままみづからの問題として究明し続けられたご生涯であつた〉
 そして、松本先生は次のように結んでいる。
 〈終はりに、御病床の枕元に遺されてゐた先生の歌稿のうちの二首を掲げて拙文を終へることとする。
   先学のゆきにしあとにつづかむと
     つとに誓ひし我れにありしが

   一系の千代を祈るの外に何
     ねがひありしや我が生涯は 〉

葦津珍彦の山県大弐論

 
 葦津珍彦は「万世一系と革命説─日本思想史における放伐論の展開」(『天皇─日本のいのち』所収)において、明治維新の原動力としての山県大弐『柳子新論』について、次のように書いている。
 〈山県大弐は、激烈な放伐論の主張者として名著『柳子新論』を書いた。かれは天の民とその志を同じうし、天の民を救ふがために、国君を放伐するのは義であると断じた。しかもかれは、それを抽象的な政治哲学上の理法としてではなく、当時の社会情勢の現実が、人民を苦しめてゐる実情を大胆に列記し指摘して、正義の士が決起して放伐のために行動すべきことを訴へたのである。大弐の放伐論は、明らかに孟子の流れをくむものではあるが、その論は、孟子よりもさらに精鋭に理をつくし、さらに烈々たる実践的情熱に燃え立ってゐる。かれは明和四年に捕へられて死罪となった。あたかも明治維新をさかのぼること満百年、討幕のために一命をささげた最初の人となった。この山県大弐の『柳子新論』は、日本の政治思想史の上で、異彩を放つものである。それは、民と志を同じうする者の放伐を義としたのみでなく、あらゆる点で、新しい世代への予告を暗示する多くの思想をしめしてゐる。……それは権力の実際的行使者(幕府の征夷大将軍や藩の国君)に対する放伐を痛論してゐるのであって、皇位に対する尊王の大義は、厳としてこれを固守してゐる。これは公然たる尊王討幕の先駆的宣言である。
 江戸時代には封建武士的な意味での忠義の意識が強固であった。尊王の意識は大きくとも、武士は藩主に対して忠、藩主は将軍に対して忠、将軍も亦天朝に対して忠との系列において忠が考へられた。それ故に幕末の政局が動揺し、幕府の政策に対する批判の声が高まった時代になっても、先覚者たちもほとんどが、幕府の天朝に対する忠誠的協力を要望するいはゆる「公武一和」のイディオロギーの上に立って、幕政の改革を主張するにとどまって、幕府への放伐(討幕)を主張する思想は、なかなかに生じなかった。
(中略)
 私は、幕末の志士の中で『柳子新論』の読者が、どの程度の範囲に及んだかは詳かにしえないけれども、この書が公武一和的なイディオロギー教条の中に低迷してゐた封建武士を、断固として討幕へと踏みきらせた力は、大きかったと思ふ。
(中略)
 明治維新といふ大きな変革の史的意味は、複雑であって必ずしも一概には断じがたいものがあるけれども、これを王政復古、討幕であったとすれば、その討幕とは、まさに大弐が主張したところの権力行使者(幕府)に対する放伐以外のなにものでもないといふことができるであらう〉

葦津珍彦の真木和泉論

 葦津珍彦は「禁門の変前後」(『新勢力』昭和39年7月号)で、以下のように書いている。
 〈真木和泉の「出師三策」は、その後段に、真木の武力行使論に反対する長州人士にたいして、あくまでも説得しようとして、問答形式の論が書き列ねてある。この問答は、真木の思想を知る上に、とくに大切な文章であると思はれるが、そこには次のやうな論理が展開されてゐる。
 「ある人びとはいふ。我藩は入朝の停止を命ぜられてゐるのだから、強ひて入朝しようとすれば、勅命をもって停止させられるのは必然ではないか。勅命に抗するわけにはいかぬ、と。しかし今日の勅は、中川宮の偽勅と称すべきであって、真の勅ではない。私は諸君に問ひたいが、もしも中川宮の徒が長州の封土を没収しようとして来た場合に、諸君は易々と封土を没収されるつもりなのか。おそらく違勅になるからといって、祖先伝来の封土を明け渡すわけにはいくまい。しかしその時になって、はじめて偽勅などと云ひ出しても論理は立たないぞ。この勅は、中川宮の偽勅だと初めから断ずることが大切なのだ。ある者によれば、八月十八日、あの緊迫した時に、長州は戦はずして退いた、いま戦ふのは暴逆ではないかといふ。かやうな論をなす者は卑怯者のみである。今日のことは、ただ戦ひの勝敗のみがすべてを決する時なのである。この道理を知る者のみが目的を達する。
 ─―われわれの策は、その行為の形からみれば不義である。しかしその心情は光明正大であり、天地鬼神もこれを知る。断じて恥づるところではない。
 『真木和泉守遺文』所収「出師三策」に曰く、
 「……今我之所為、則世之所不測 所謂動千九天之上者 既褫其胆 焉得有以兵加我者乎 此為以攻為守也。而其迹之不義 則我心光明正大 天地鬼神知之 非所恥也。
 或曰 既停入朝 強而入則以勅停之必也 曰 今日之勅云者 中川賊所為也 非真也。若以此為真 則我無可為者 仮令有来奪我封者 則我甘納之乎 不納之 則果為違勅乎。特至此時而為偽非也。或曰 八月十八日賊軍士卒既内 銃礮既擬 而未発 而我今以戦臨之似暴 何如 曰為此言者非慎也 怯也 今日之事唯在干戦之勝敗 能了此意者得志耳。」
 かれは「今日の勅といふは、中川賊の偽勅であって真の勅でない」といふ断定に立ってゐる。しかし偽勅とは何であらうか。天皇の意思に無関係に、あるいは天皇の意思に反して発せられた勅であるとの意味なのであらうか。それは必ずしもそのやうな意味なのではない。かれがその後に起草した上奏文によれば、天皇が側近の「讒誣欺子」のために誤られて、八月十八日以前の意思と異なる勅を発せられ、ために天下は危機に瀕してゐるが、いまにして正しい判断に戻らなければ、まことに重大事に立ち至るであらうと申し上げてゐる。これによってみれば、真木の偽勅といふ意味は、ほぼあきらかである。天皇が、中川宮の邪説に誤られて同意された勅なのであって、聖天子に相応しい正義の勅ではないといふほどの意味である。真木は、あきらかに天皇にたいして、諫争することの緊急を痛感してゐるのである。 Continue reading “葦津珍彦の真木和泉論” »

「坪内高国は勤王の志の厚い人であった」(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)に基づき、明治維新期の坪内高国の動きを整理しておく。
 高国は、慶応四年(明治元・一八六八)二月七日に、尾張藩主へ勤王の証書を差し出した。内容は以下の通り。
 〈一 岩倉殿並御家ヨリ御達相成居候、朝命之趣附遵奉仕、勤王之志興起仕候上は、仮令徳川庶人之指揮有之候共、御家え伺之上ナラテハ、其指揮ニ応シ中間敷事
浮萍之徒動乱ニ乗シ、紳縉家之命、或は御家之藩士ト偽リ、僈集ニ渡リ候所置有之候上、乱妨之次第ニ及候ハゝ、近傍勤王之諸侯ニ援兵ヲ請鎮静方取計可申候事
一 近隣ニ有之候、土着詰合之有司之領地、互ニ申合勤王可仕候事
 右之条々、誓て遵奉可仕候間、為後日証書如件〉
 高国は、二月十日には、大垣竹島町の本陣において、東山道鎮撫総督岩具定・同副総督岩倉具経両人に謁し、勤王遵奉の趣旨と、この上にも勤王いたすように、と諭された。
 一方、尾張藩士・荒川弥五右衛門(荒川定英)は勤王誘引のために美濃に派遣されていた。荒川は尾張藩士坪内繁五郎の弟で、尾張藩荒川家へ養子入りして、荒川弥五右衛門を称した。坪内繁五郎家の祖は、各務郡前渡村坪内氏三代嘉兵衛定勝の四男坪内兵左衛門定繁であり、荒川と高国とは血縁関係があったのである。
 二月十三日、平嶋坪内氏家老の岩塚らい輔は、高国の名代として、濃州大野郡揖斐にいた荒川を訪問も、「勤王之道相顕侯ニ付、本知是迄の通、被成置侯事」との書状を受け取った。これに対して、高国は「此之上は勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」との内容の請書を提出している。
 高国は、二月二十日には、名古屋城に登城し、尾張前大納言徳川慶勝に目見えて、この上一層勤王いたすよう励まされ、菓子一包(干菓子五品落雁等)、手綱五筋を与えられ、また元席で料理(酒・膳)にあずかり退出している。この御目見の時、第一番目は、加納城主永井肥前守尚服、第二番目は、表交代寄合の旗本兼尾張藩士四千四百石千村は靭負(可児郡久々利村)であり、第三番目が坪内高国であった。
 『岐南町史』は「坪内高国が尾張前大納言徳川慶勝に重要視されていたことがわかる」と記し
、さらに次のように書いている。
 〈明治元年(一八六八)九月十九日、坪内高国は、京都の非蔵人口へ出頭して、行政官より本領(高五百六十七石余)安堵の朱印状を受領し、上士席になった。明治二年(一八六九)十一月三十日、留守官より上士触頭の任命辞令を受領した。千石以下の上士で上士触頭(配下の上士・下士三十一名)となったのは破格の栄与であった。明治三年(一八七〇)四月、顧に依って致任し、美濃国羽栗郡平嶋村陣屋に住居することになった。致仕に際して格別職務に精励したがどで、京都府よりほう詞とともに金百八十両を下賜された。この間、明治二年(一八六九)十二月九日に采地を奉還している。以上のように、坪内高国は勤王の志の厚い人であった。〉(『岐南町史』271、272頁)

坪内高国の生い立ち(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)から、坪内高国の生い立ちに関する記述を引く。
 〈一二代坪内高国 美濃国羽粟郡平嶋村(現岐南町平島)坪内氏(旗本)十二代高国は旗本・新加納坪内氏九代定儀(明和八年五月生天保二年没)の嫡男定静(求馬之助・仲)の三男として、文政七年(一八二四)正月二十一日に、江戸市ヶ谷御門内三番町・新加納坪内氏の江戸屋敷で生まれ、金三郎(後定国・高国)といった。
(中略)
…坪内高国は、天保三年(一八三二)九月、同四年(一八三三)九月に、無役のものが勤める駿府加番を命ぜられた。幼年のため養祖父の定興(寿山・安永七年五月生・天保十一年、没)が後見して勤務を果たしている。
 維新の時、坪内高国の家臣は、譜代家来の用人役二名、抱席の家来七名で、家老職はない。ほかに、小者一名、召仕女三名であった。
 坪内高国は美濃国羽粟郡平嶋村大字本郷小字西崎居住。高六百石の旗本坪内佐左衛門定通の嫡女繁(文政四年十月二十日生・文久元年四月、没)聟養子となり、同年十二月十九日に家督を相続し、文致十二年(一八二九)九月二十七日、中山道を通行して平嶋村坪内家へ到着し、婚礼をすませた。その時教えの六歳であった(繁女八歳)。〉(『岐南町史』269、270頁)

坪内氏の概要(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)から、坪内氏の概要に関する記述を引く。
 〈坪内氏 加賀国の富樫氏に出る。富樫氏は藤原利仁(鎮守府将軍兼武蔵守)の後裔で加賀国石川郡富樫郷を収めて、富樫を姓とした。富樫氏一一代の頼定(藤左衛門)が加賀国より尾張国に来て、野武(中島郡坪内村・現尾西市野府)の城代坪内又五郎の家号を継ぎ、坪内と称したという。頼定(藤左衛們)は天文年間(一五三二─一五五五)犬山城主織田信康(信長の叔父)に仕えて、尾張国葉栗郡松倉村(現羽島郡川島町松倉上ノ島)に城を構えた。それより三代を経て坪内利定(喜太郎・玄蕃)は、織田信長の被官(家臣)となり、たびたびの合戦に功をあげたが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と不和となり、本領をはなれて武儀郡金山(現益田郡金山町金山)に閑居した。しかし、天正一八年(一五九〇)、徳川家康に召し出されて、上総国山口村一五〇〇石、武蔵国伊奈木岸之郷五〇〇石、都合二〇〇〇石を与えられた。嫡子惣兵衛玄蕃・次男嘉兵衛・三男佐左衛門・四男太郎兵衛四人の子は共に朝鮮の役に従軍した。慶長二年(一五九七)九月に徳川家康に召し出されて、嫡子惣兵衛(玄蕃)は五〇〇石、弟共三人は三〇〇石ずつあてがわれ、父子併せて上総国において三四〇〇石余を領有した。
 慶長五年(一六〇〇)の上杉景勝征伐の時、父子五人共に関東の小山(現栃木県小山市)まで従軍し、同年(一六〇〇)九月の関ヶ原合戦時には、井伊少輔直政に属し、鉄砲隊五〇人を組み先手となって奮戦各々負傷した。戦後慶長六年(一六〇一)二月、戦功によって加増されて、美濃国羽栗・各務両郡内に六一三三石余を与えられた。
(中略)
 庶家坪内氏 前渡坪内氏は、初代は嘉兵衛(利定の二男。源太郎・小十郎・杢助)で、代々各務郡前渡村に居住、旗本であるが無役。一二代昌寿の時、采地を奉還した。
 平島坪内氏は、初代佐左衛門(利定の三男、正定、隠居後喜左衛門)で、代々佐左衛門を襲名。無役の旗本として平島村字西崎に居住。
 三井坪内氏は、初代は太郎兵衛(利定の四男、定安)で、代々太郎兵衛を襲名。無役の旗本で各務郡三井村字西屋敷(現各務原市三井町内)に居住。
 前渡・平島・三井の坪内氏は、新加納坪内氏の所領を内内に分与されていた。したがって知行地の支配についての重要なことは、新加納坪内氏があたり、三家は、新加納の坪内氏を家元と呼んでいた。〉(『岐南町史』265、266頁)

愛国交親社の設立経緯─庄林一正と興行撃剣グループ

以下、長谷川昇氏の『博徒と自由民権』に基づき、愛国交親社の動向を整理しておく。
 明治十二年三月、内藤魯一が中心となって、三河国碧海郡上重原村に「三河交親社」が結成された。内藤は、明治十三年三月に予定されている国会開設請願運動の母胎となるべく、愛知県有志の一本化を進めた。そのとき、内藤が頼りにしたのが庄林一正であった。内藤は庄林を仲介として興行撃剣組織に働きかけた。
 そして、明治十二年十一月十三日に名古屋大須の七ツ寺に有志を結集し、会談を開いた。集まったのは、庄林一正、荒川定英、近藤義九郎、西山蔵造、真貝虎雄、浜島重軌、太田当道、山内徳三郎、山田三平、浅井幸助ら十七名である。彼らは、興行撃剣の主導的メンバーであった。
 この会談の結果定められたのが、『御宸翰御誓文ニ基ク決議十七条」である。長谷川氏によると、決議の前文には、尾張・三河の有志が「結合親睦シテ文武会ヲ設クル」ことを決め、その主旨として「文武ハ車ノ両輪ニシテ国家ニ一日モ欠クベカラザル要具」であるのに、維新以来「人民武ヲ棄テテ之ヲ問ハザルニ至」ったのは「実ニ長大息ノ極ミ」である。だから「先ヅ第一着ニ武術ヲ開キ」それによって「愛国ノ主義」に達しなければならない。そして社員中に非常ノ災害ニ罹ったり「病死等ニテ家族ヲ養食スルニ術ナキ者」は社中で救助する、という主旨のものだった。
 武術の保存・振興による国力の伸張と武術家の相互扶助が目的として強調されているということである。
 この七ツ寺会議メンバーと「三河交親社」とを合体させて、「愛知県交親社」を作り、明治十三年三月の愛国社第四回大会に参加することになった。
 内藤家に保存されている「愛知県交親社(尾張組)人名簿」には百八名の人名が記載されている。長谷川は、以下のように指摘している。
 〈一、この一〇八名のなかには、明らかに興行撃剣に参加していたと思われる者が少なくとも七〇名はいる(私の手もとにある八枚の「興行撃剣番付」から拾い出すことができるものだけで)。
 二、この一〇八名のなかには、草莽隊出身者が約二〇名いる(もっとも多いのが磅礴隊の一〇名、ついで集義隊の五名、帰順正気隊の三名)。
 三、『壬申戸籍』で明治十二年現在の職業の判明する者三五名の内訳は、工(鼻緒職・指物職・桶職・綿打職など)一七名。商(菓子・焚味噌・煮売など)六名。雑業(人力挽・日雇渡世など)一二名。
 以上を総合してみれば、「愛知県交親社尾張組」は興行撃剣をその組織の末端にいたるまですっぽりと抱えこんだものと考えてよいと思われる。
 この「尾張組」 一〇八名のなかに、のちに名古屋事件の累連者になる者が七名いる。
 A、磅礴隊から興行撃剣に参加した山内徳三郎・安藤浅吉・鬼島貫一の三名。
 B、興行撃剣参加の都市細民層である鈴木松五郎・山内藤一郎・寺西住之助・加藤米三郎の四名。
 この七名は、興行撃剣を通じて庄林一正直系の輩下となり、その思想的影響下にあった分子と思われる〉