「崎門学」カテゴリーアーカイブ

若林強斎『自首』


2013年8月24日(土)、同志の折本龍則氏(『青年運動』編集委員、崎門学研究会代表)と、近藤啓吾先生のお宅にお邪魔しました。その際頂戴したのが、若林強斎『自首』のコピーです。
自 首
不孝第一之子若林自牧進居、
亡父ニ事ヘ奉養不届之至、
慚悔無身所措候。然ル身
ヲ以、先生ノ号ヲ汚スコト、何ンノ面目ゾヤ。
明日 亡父忌日タルニ因テ、自今
日先生ノ偽号ヲ脱シ候。何レモ必
不孝之刑人ト卑シク御
アイシラヒ被成可被下候。已上
享保十七年壬子正月八日丙寅
過廬陵文山
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吉田神道と垂加神道①

山崎闇斎は、神籬磐境の伝を吉川惟足から伝えられた。
しかし、惟足の伝に潜む問題点を看過しなかった。惟足の子従長が整理した『四重奥秘神籬磐境口授』(『神籬磐境口訣』)には、「君道ハ日ノ徳ヲ以テ心トス、日ノ徳ヲウシナフ時ハ、天命ニ違ヘリ、天命ニ違フ時ハ、其位ニ立ガタシ」と書かれていたのである。

これはまさに易姓革命に通ずる思想であり、『拘幽操』の精神に適うものではない。ここで闇斎が立ち止まり、「神籬は皇統守護の大道、磐境は堅固不壊の心法」との立場を固めたことは、歴史的な意味を持っている。近藤啓吾先生は、闇斎が惟足の限界を超えて、わが国の道義の本源への考究を進めたことに「闇斎の学問の面目があり、垂加神道の本義がある」と書いている。

明和事件の真相─「大弐が幕府に恐れられた理由」『月刊日本』2013年9月号

 『月刊日本』の連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」で山県大弐『柳子新論』を取り上げています。
2013年9月号には、「大弐が幕府に恐れられた理由」と題して、大弐が死罪となった明和事件の真相について迫りました。

『強斎先生雑話筆記』研究会①

 折本龍則君とともに継続してきた『靖献遺言』研究会の新たな展開として、若林強斎の発言を高弟山口春水がまとめた『強斎先生雑話筆記』の研究会を、開始します。
テキストは、『神道大系 垂加神道 下』(近藤啓吾先生校注)に収められたものを使用します。

『靖献遺言』無刊記本

 平成24年12月5日(水)に続き、平成25年3月27日(水)に、崎門学派直系の近藤啓吾先生のお宅を訪問し、ご指導を賜りました。その際、浅見絅斎『靖献遺言』の刊行変遷がわかる現物をいくつか拝見する機会に恵まれたばかりか、改訂本のうち最も早く刊行された『靖献遺言』を譲り受けました。
近藤先生が『靖献遺言講義』解題で書かれている関係部分を引きます。
 〈『靖献遺言』は貞享四年脱稿の直後に刊行されたが、その初印本は未だ見るを得ず、寓目の諸本はすべて改訂を経てゐるものであるが、そのうちにて最も早く刊せられたものは、美濃版三冊・青色表紙の無刊記本である。思ふに是れは絅斎の家蔵版であつて、後にその板木に「京師二條通衣棚・風月荘左衛門発行」の刊記を加へ、書肆風月堂より発売されたものが、茶色表紙の美濃版三冊本である。この本は元治年間にも補刻されてゐる(表表紙裏に「元治甲子補刻」「京師 三書堂」とあるが、刊記は元のまま)。また右とは別に美濃版半裁の中形本が、慶應元年に新刻され、明治二年、同十三年にも増刷されてをり、更に中形本をまた半裁した小形本が、銅版にて明治九年に版権免許になつてゐる(家蔵本はその明治十二年四月発行の四刻本である)。なほ明治四年には加藤勤の『靖献遺言訓蒙疏義』が新刻されてゐる。
 以上のごとく、幕末より維新にかけていく度も本書が増刷せられ、しかも携帯に便利な中型本・小型本として刊行されてゐるといふことは、常時いかに広く本書が読まれたかを示すものである〉(後略)

垂加神道①「死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」

『月刊日本』平成25年2月号に「死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」と題して、『靖献遺言』理解に欠かせない、山崎闇斎にはじまる垂加神道について書きました。参考文献も加えて、崎門学研究会のHPに掲載していただきましたので、是非ご覧ください。

TPPは「平成の日米修好通商条約」だ!─出でよ、平成の梅田雲浜!

 大老・井伊直弼が強行した日米修好通商条約締結に対して、命がけで抵抗した幕末の志士たち。中でも『靖献遺言』で固めた男と呼ばれた梅田雲浜の抵抗は凄まじかった。
アメリカ基準への屈服・国体の破壊に直結するTPPは、まさに平成の日米修好通商条約である。平成の梅田雲浜よ出でよ!
以下に、『月刊日本』平成24年12月号に掲載した「『靖献遺言』で固めた男・梅田雲浜」浅見絅斎『靖献遺言』第1回(明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊 第5回)を転載します。

皇国への思いが招いた安政の大獄
安政五(一八五八)年九月七日、勤皇志士の巨頭、梅田雲浜は体調を崩し、京都烏丸池上ルの自宅で休んでいました。そこに、ドンドンと表戸を叩く音がしました。「誰か」と問うと、
「町役人ですが、今先生の御門弟が、そこの町で抜刀して喧嘩をしております。私どもがいくら止めようとしても、どうにもなりませんので、先生に出てきていただいて、取り鎮めてもらいたいのですが」
雲浜は、即座に町役人の言葉が嘘だと見ぬき、ついに補吏の手が伸びたと悟ったのです。このとき、大老・井伊直弼の指示により、伏見奉行、内藤豊後守正綱(岩村田藩主)は与力・同心以下二百人を率いて出動、雲浜を逮捕するため家を包囲していました。雲浜は、梁川星厳、頼三樹三郎、池内大学とともに、「尊攘四天王」として警戒され、弾圧の対象となったのです。 続きを読む TPPは「平成の日米修好通商条約」だ!─出でよ、平成の梅田雲浜!