頼山陽の思想

一君万民の理想

http://www.ccv.ne.jp/home/raisanyo/jinbutu.htmより 一君万民の理想的統治を求めた頼山陽(1780~1832年)の著作は、王政復古の精神を鼓舞し、維新の大業を成就する大きな力となった。司馬遼太郎は、山陽の『日本外史』について、「この一書が幕末を動かしたとさえ言いたくなるほどである」と述べている(『この国のかたち』1、文芸春秋)。
安藤英男氏は、山陽が「一君万民の平等思想を根底とし、天皇親政下の郡県制度を理想の政治形態とした」と書いている(安藤英男『頼山陽日本外史』近藤出版社、1982年(頼山陽選集 6)、3頁)。
彼の思想が明治維新の原動力となったのは、そこに王政復古を促す考え方を含んでいたからである。『日本外史』を貫いているのも、一君万民の理想にほかならない。山陽は後醍醐天皇に忠節を尽くした楠木正成を絶賛し、それに敵対した北条氏や足利氏を厳しく批判している。『日本外史』「中興論」には、次のようにある。
「何ぞや、かの北条氏、政を失なうと雖も、その権力は更に甚しきものあり。累世の威を籍りて、積弱の余に加え、百万の虎狼、その指呼に随い、中国に[ほうこう]すれども、之に或は[せま]るあるなし。天下、まさに承久を以て戒めとし、踵を重ね、息を屏めて、敢て勤王の事を言うなし。而るに、楠公ひとり、眇々の躯を以て、義を其の間に唱え、其の衝路に当り、その爪牙を挫き、以て四方義士の気を鼓舞し、之をして一時に踵起せしむ」

山陽は、安永9(1780)年12月27日、大坂の江戸堀北1丁目(現在の大阪市西区江戸堀)で生まれた。父春水(1746~1816年)は幼少時から書や詩文に才能を発揮し、明和3(1766)年に大阪へ遊学している。春水は、尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、江戸堀に私塾「青山社」を開いている。 さて、山陽は2歳の時に現在の広島市中区袋町に転居し、そこで育った。7歳で朱子学を教えられた。13歳にして、早くも次のような詩を作っている。

十有三の春秋
逝く者はすでに水の如し
天地に始終なく
人生に生死あり
いずくか古人に類して
千載に青史に列するを 得ん

幽閉時代に飛躍

寛政12(1800)年9月5日、山陽は大叔父伝五郎の弔問のために竹原へ向かう途中、突如脱藩して京都へ走った。しかし、11月3日に広島へ連れ戻され、杉木小路の自宅の一室に幽閉された。この脱藩に至る山陽の行動については、見解が分かれている。青少年期の山陽は病弱で、精神的に不安定だったとされている。そのような山陽の弱さに基づいた解釈がある一方で、安藤英男氏は、山陽は自らの言論活動が藩や家族に迷惑をかけないようにするため、意図して「脱奔の罪をおかし、狂妄の汚名を買って、藩法の制裁をうけ廃摘とされた」とする(安藤英男『頼山陽日本外史』近藤出版社、1982年(頼山陽選集 6)、2頁)。
脱藩の知らせを聞いた際に、父春水が若槻幾斎に宛てた書簡に、「私は、さのみ驚き申さず。……扨々高ゾレにてこまり候。せめて婦女・金銭の間ぐらゐに候へば、却ってモヤスキ事と嘆息仕り候事にて候」(寛政12年10月3日付)と書いていることを根拠に、安藤氏は「躁鬱病の発作と見る向きがもっぱらであるが、そんなケチな動機でない」と書いている(安藤『頼山陽日本外史』5頁)。
いずれにせよ、幽閉・謹慎時代は、山陽にとって飛躍の契機となった。自由の身となり、文筆活動に専念できるようになった。東西の歴史書を読破し、『日本外史』や『新策』の初稿を書き上げたのも、この時期である。
幽閉中、山陽は司馬遷『史記』の「本紀」「書」「表」「世家」「列伝」に倣い、「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の執筆構想を立てた。『新策』は、「二十三策」で触れている財政論、官制論を中心としたものである。『日本外史』は、叔父の春風からの助言を得て、「十三世家」にあたる部分を独立させたものである(『中国新聞』2005年8月10日付朝刊)。

「外史」に表された在野の自負

山陽は、幽閉時代に『日本外史』の執筆を開始し、文政9(1826)年、47歳のときにようやく完成した。翌文政10年に松平定信に献上している。書名を「外史」としたのは、「在野の人、草莽が、自己の責任と見識によって、自由に書いた歴史という意味」である(安藤『頼山陽日本外史』16頁)。自序には、次のように書かれている。

「『日本外史』二十巻は、襄、弱冠の時、著わす所なり。襄、幼より国史を読むを喜び、受業の暇、偸み読みて已まず。既に長じて、常藩の史(『大日本史』)を覧るに、其の浩穣に苦しむ。又、其の闕あるを恨む。近故の事に至りては載籍なきに非ざれども、又、未だ以て其の終始を綜ぶる者有らず。遂に自ら揣らず、断ずるに源平氏より当代に至り、間に中興諸将(建武中興の諸将)、及び割拠の群雄を以て家別に之を紀し、或は錯りて之を志し、其の興壊を等り、以て世変を見る。蓋し、自ら省覧に便にす。世に公にするを図るに非ざるなり。故に親しいこと家君(父・春水)の如きも、未だ敢えて正に乞わず、況や他人をや。今や他聞にして観るを索むる者、之を検閲して、往々意に満たず、而れども、未だ遽には改む可からず。且く一本を写して、以て往副に備う。其の論贊の闕の如きは、他日を俟つと云う。抑も、人の之を観る、必ず其の体裁駁しょうを議する有らん。之を要するに、一家の私乗にして、天下の正史に非ず。且つ、独力を以て古今を網羅す。あに差繆無きを保せんや。其の細を舎て、其の大を取る。まさに以て、鄙意存する所を知る有らんとす」

死の直前まで執筆を継続

ところで、山陽は文化2(1805)年に謹慎を解かれ、文化4年に竹原に遊び、尾道の女性画人平田玉蘊に出逢っている。文化6年末には、父春水の親友であった詩人の菅茶山(1748~1827年)のいた神辺(現在の広島県深安郡神辺町)に移った。1年間の滞在を経て、32歳で京都へ進出、亡くなるまでそこで過ごした。
山陽は天保(1830)元年頃から体調を崩し、親友の蘭方医小石元瑞の診察を受けていたが、天保3(1832)年6月中旬に喀血した。8月には病の不治を悟り、門人の東山義亮に肖像画を描かせて自賛の文を作っている。
山陽が、「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の執筆構想を立てていたことはすでに書いた。このうち、「五書」と「九議」は『通議』へ、「三紀」は『日本政記』へ集約されることになった。山陽は、死の直前まで『通議』と『日本政記』の執筆を続けたが、天保3年9月23日についに力尽きた。享年53歳。遺言に従い、京都東山の長楽寺に葬られた。
生前に公刊されたのは、日本史を題材とした詩集『日本楽府』(文政13年)のみである。他はすべて、没後に出版されている。
山陽は、詩人、書家、画家としても活躍した。文政8(1825)年までに作った詩を自選した『山陽詩鈔』や、それ以後の詩文を門人が編集した『山陽遺稿』などの詩文集がある。川中島の合戦を題材にした「鞭声粛々」の詩や、天草洋の風景を詠んだ「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などが愛誦されている。
書家としての評価も高い。山陽は若い頃から春水の書風を学び、30代以降は中国の米元章・蘇東坡らの書法を研究、40代後半以降に独特の書風に辿りついた。絵画については、中林竹洞・浦上春琴・田能村竹田・江馬細香らの画人と親交を結び、中国画にも学んだ。「耶馬溪図巻」などの優れた水墨画を残している。

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