小倉和夫の新アジア論

元外務官僚の小倉和夫氏のアジア論が再び注目を集めている。2003年末には、日、中、韓、ASEAN諸国などアジアの国が共にめざすべき理念と、共に果たすべき行動を盛り込んだアジア憲章の制定を提唱している(『朝日新聞』2003年12月9日付朝刊)。
小倉氏は、1938年11月15日東京生まれ。父武一氏(政府税調会長)は、当時中国の戦地から「平和が大切。長男の名には『和』の字をつけてほしい」と希望し、和夫と命名されたという。東京大学法学部を卒業して外務省に入省した小倉氏は、北東アジア課長、文化交流部長、経済局長、駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使を務め、2003年4月から青山学院大学教授、そして2003年10月から国際交流基金理事長を務めている。


 この間、北東アジア課長時代に中曽根首相(当時)の電撃訪韓の舞台回しを演じたり、1997年6月のデンバー・サミットでは首脳の個人代表(シェルパ)を務めるなどの活躍をした。同時に、『権力の継承』、『東西文化摩擦―欧米VS現実の二重映し』、『日米経済摩擦』、『パリの周恩来』、『「西」の日本・「東」の日本』、『中国の威信日本の矜持』、『吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』などの著作を発表してきた。
特に、論客としての小倉氏が論壇に衝撃を与えたのが、2つの論文、「『アジアの復権』のために」『中央公論』1993年7月号)と「新しいアジアの創造」『VOICE』1999年3月号)であった。

日本文化理解への考察

小倉氏の新アジア論の主張は多岐にわたるが、「日本文化、アジア文化の普遍性」という視点がまず浮かびあがってくる。
特に、文化交流部長時代に日本文化について深く考察した経験が大きな影響を与えているかに見える。この時期、小倉氏は文化交流について有識者との対談を繰り返している。例えば、三浦朱門氏の対談で小倉氏はこう語っていた。
「もっと日本文化は世界的な基盤の上で納得しあえるはずだ、とみる必要があるのではないですか。日本は文化を人類の共通の遺産、共通の価値なんだというレベルで勝負できれば、最も日本的なものは最も国際的なものとなり得て、交流が容易になると思うんですが」(『日本経済新聞』1989年10月29日付朝刊)。
山崎正和氏との対談では、次のように述べている。「むしろ本当の文化交流は固有なものを通じて、そこから互いに普遍性を感じるところに意味があるのではないか。日本人自身が、これがベストと思ったものは、たとえ西洋人から不評を買っても紹介する努力を続けるべきですよ」、「…僕が非常に心配しているのは、俳句にせよ能にせよ伝統的なものは何となくダサいという感じを日本の若い人が多く持っていることです。日本文化の中に普遍性が流れていることを日本人がもっと知るためには、日本の伝統的なものが現代といかに結びついているかをもっと知らしめないといけない」(『日本経済新聞』1991年11月10日付朝刊)。
つまり、日本の伝統文化の中に普遍的価値観を見るという立場である。ところが、欧米の日本文化理解は歪んだままであった。この時期に小倉氏は『東西文化摩擦』で、チェンバレン、マッカーサー、シーボルト、ローエルからタウンゼント・ハリスまで、16世紀以降の日本と接触した欧米人の「日本観」をこきおろしている。すでに、「アジア的価値観を普遍的なものとして欧米に発信する」という小倉氏の主張は形成されつつあったのである。

「『アジアの復権』のために」

1993年、小倉氏は、「『アジアの復権』のために」を発表した。 ここで小倉氏は「西洋人に、そしてアジア人自身にさえ巧妙に利用されてきた『アジア』が近代史上初めてプラスの価値のシンボルとして浮上してきた。普遍性のある価値をいかにして探求し、どのように世界に発信すべきかが最大の課題である」と書き出す。
「ある時には、それ(アジア)は、ヨーロッパの自由や平等に対立する専制と服従の象徴だった」。しかし、アジアはプラスの価値のシンボルとなったのだと。
では、なぜアジア復権が重要なのか。
小倉氏は、「アジアの復権は、単に規律や勤勉という、西洋で失われつつある価値の再興のたるにのみ唱えられるべきものではない。
ヨーロッパ近代史を彩ってきた激しいナショナリズムを、二十一世紀をにらんで、どう克服してゆくかといった問題、あるいは、個の欲求の限りない追求とあくなく自己主張を中心とする機械文明のファウスト的性格をどのようにして制御し、自然環境と人間生活との真の調和をどのようにして実現するか─そういった問いに答えるために、『アジア』の伝統精神の活用が必要になってきているのではないだろうか」と書いている。
アジアが世界に発信すべき理念を、小倉氏は「人間の欲望の制御の仕方、とりわけ、自然と人間との調和をめざす形での、人間的欲望のコントロールのやり方」「人間同士の関係のあり方、とりわけ、家族の絆や集団と個人との関係についての、調和のとれた考え方」だという。
そして小倉氏は、「アジアの精神」という言葉で、統一的なアジアの価値観を語る。「日本料理から声明まで、日本的経営から東アジアの儒教精神まで、ヴェトナムの勤勉さから朝鮮半島の人々の規律の精神まで新生アジアのモザイクは多彩である。そして、これらが必ずしも今のとてころ一つの統一された一大理念とはなっていなくとも、やがて少しずつ、静かに世界に発信してゆく『アジアの精神』なるものが、二十一世紀にむけて育ってゆくであろうし、また、育てなければなるまい」と。
いかにして「アジアの精神」を育てるのか。小倉氏は、アジア人がアジアに理解を深めることの重要性を説く。そのためには、過去の侵略や抗争の歴史の傷を治すことが必要だと力説する。ただ、未来志向型の発想に転じる必要があると論じている。
小倉氏のアジア的価値観称揚論は、決して閉鎖的、排他的なものではない。「『アジアの復権』は、アメリカやヨーロッパ諸国など非アジアの国々をアジアから排除するスローガンであってはならず、またそういう実体を備えたものでもない」と書いている。
以上のようなアジア復権論は、アメリカ外交に対する具体的注文をつけることになる。アメリカのアジアにおけるプレゼンスが受け入れられるためには、「アメリカが『アジア化』し、アジアを理解し、アジアに同化してゆく姿勢を示さなければならない」。

古森義久氏の反発

小倉論文は、過剰な反応をもたらした。欧米の新聞も小倉論文に注目した(The Economist, April 22, 1995、The Economist, November 19, 1994、Los Angeles Times, November 13, 1994など)。
こうした中で、日米関係至上主義者は、小倉論文を故意に誤読して激しい反発を示したように見える。小倉論文のどこをどう読んでも、日米関係を悪化させていいなどとは書かれていない。しかし、アジアの価値観を称揚することが自動的に日米関係を悪化させるかのごとく曲解されるのである。
日本経済新聞の伊奈久喜編集委員は、「『アジア主義』は国を誤る」との見出しで、小倉論文を批判した。「抑制が効いた内容だったが、対米経済交渉の責任者ともいえる政府高官の筆によるこの論文は、米国を不愉快にした。東京駐在のある米外交官は小倉論文を『ナンセンス』と断じた」と書いている。
『北海道新聞』は、小倉氏を丹波実条約局長(当時)を中心とする日米同盟重視派と対比して「離米外交志向派」と位置づけた(『北海道新聞』1994年5月22日付朝刊)。
だが、小倉論文は決して反米や離米の裏返しとしてのアジア主義ではない。小倉氏自身、「アジアという概念を一種防衛的なもの、アンチのシンボルとして使うことは非常に危険だ」、「反欧州、反米国のシンボルとしてアジアを担ぎ出すことだけは避けなくてはいけない」と述べている(『日本経済新聞」1993年11月14日付朝刊)。
にもかかわらず、小倉論文に激しく反発したのが、産経新聞の古森義久氏である。古森氏は、アジア的価値観が称揚されること自体に不満を感じているように見える。古森氏は、外務省文化交流部の河東哲夫審議官(当時)の「『アジア的価値』の神話を超えて」(『中央公論』1995年12月号)を援用して、大蔵省の榊原英資氏とともに小倉氏を攻撃した。いわく、「多種多様のアジア諸国を無理にひとくくりにして、欧米との対立構図を強引に描くいまの日本の『アジア的価値観』論は、大阪APECでの展開を待たずとも、共産主義独裁の中国、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、ベトナムからイスラム教のインドネシア、マレーシアまで日本との距離をみれば、どうにもいかがわしくひびいてくる。真意はその論者の既得権保護にあるように思える」と。
アジア諸国をひとくくりにすることが、古森氏には我慢ならないようだ。ちなみに、西部邁氏は、その古森氏の記事についてこう書いている。「私は自分の眼を疑った。あまりにも有名なジャーナリストの手になる、あまりにも粗雑な論理と、あまりにもむき出しの感情とが混ざり合った、あまりにも稚拙な文章がそこにあったからだ」と(『産経新聞』1995年12月7日付夕刊)。
「アジア的価値観」論に対する古森氏の攻撃はその後も続いた。「アジア独特の歴史や文化に根ざす思考が現代の経済や政治にも米欧とは異なるシステムを生み、米欧を圧する成果をもたらす、というのが「アジア的価値観」論だったが、アジア各国の経済の破たんや金融の崩壊で、その主張も色あせてしまったようなのだ(『産経新聞』1997年11月25日付朝刊)。

「新しいアジアの創造」

このような批判にも答える形で、小倉氏が発表したのが「新しいアジアの創造」ではなかったか。
小倉氏は、「じつのところ、いまこそ『アジア』が一つのまとまりをもって行動しなければなら」ないと述べる。そして、その理由を、アメリカの世界支配、あるいは一極支配との関係においてこう説明する。
「アメリカの世界的リーダーシップが真に有効であり、かつ世界の国々にとって受容されやすいものであるためには、経済的、政治的に米国を補完しうる他の国際的勢力が、米国と協力してその指導力を支えてゆくことが不可欠である。そのような役割を演じうるのは、経済的かつ戦略的にいって、いまのところ西欧とアジアしかありえないであろう」
しかも、いまや統一ヨーロッパの力と影響力が拡大しつつある。こうした状況を踏まえて、小倉氏は書く。「米国とヨーロッパが協調して世界的な政治・経済秩序の維持、強化、改善に力をいれればいれるほど、国際標準や規則の制定あるいは普遍的な価値の擁護といった国際的作業において、全人類的なものと西欧文明に特有なものとの分別があいまいとなり、西欧文明の価値観が全人類的なものとして押しつけられたり、あるいは本来全人類的であるものが、西欧的お化粧で現れるがゆえに西欧文明特有のものととらえられて、非西欧社会において無用の反発と抵抗を生む危険性が存在する」
「古い文明を有するアジアの歴史のなかに人類共通の価値の流れを見出すことが、西欧文明のなかの国際的価値を真に普遍的なものにするためにも重要なのである」。
ここには、アジア的価値観に特殊性でなく普遍性を探ろうという小倉氏の一貫した態度が示されている。
「『アジアの復権』のために」以来、小倉氏は「専制と服従の象徴」というアジア観を否定してきた。個人主義か集団主義か、権利か責任かというような単純な見方を退けてきた。小倉氏は「集団と個人との関係についての、調和のとれた考え方」と表現していたのである。
今回、小倉氏はより明確に、アジアの伝統としての人権を指摘している。「たとえば、人権や民主という基本的価値は西欧文明特有の価値ではない。中国における陽明学、韓国の東学党の思想、あるいは江戸の町人階級の考え方と行動のなかには、多分に今日の人権、民主といった価値が(言葉こそ違え)脈々と流れていたともいえるのである」と。
ここにおいて、欧米とともに普遍的価値を追求するためのアジア的価値観の称揚という立場が明確に示されたわけである。従来の「アジア的価値観」論への誤解は解かれたに違いない。
さらに、小倉氏は、アジアとしての統一行動の必要性を別の理由からも説明している。
「中国の大国主義あるいは中華思想、韓国の排外主義、東南アジアの反西欧主義、日本にくすぶる『右翼』的考え方など、アジアの国々が経済的な力をつければつけるほど、同時に、やや偏狭なナショナリズムがかえって勃興する危険がある」、「アジアの各国における偏狭なナショナリズムを純化、止揚し、それを積極的なプラスの行動のエネルギーに転ずる方途こそ、アジアという理念に基づくアジアとしての行動なのである」
単にアメリカに追随するのではなく、主体的なアジア外交を展開するにあたり、小倉氏の新アジア外交論は極めて重要な意味を持っている。

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