坪内高国の生い立ち(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)から、坪内高国の生い立ちに関する記述を引く。
 〈一二代坪内高国 美濃国羽粟郡平嶋村(現岐南町平島)坪内氏(旗本)十二代高国は旗本・新加納坪内氏九代定儀(明和八年五月生天保二年没)の嫡男定静(求馬之助・仲)の三男として、文政七年(一八二四)正月二十一日に、江戸市ヶ谷御門内三番町・新加納坪内氏の江戸屋敷で生まれ、金三郎(後定国・高国)といった。
(中略)
…坪内高国は、天保三年(一八三二)九月、同四年(一八三三)九月に、無役のものが勤める駿府加番を命ぜられた。幼年のため養祖父の定興(寿山・安永七年五月生・天保十一年、没)が後見して勤務を果たしている。
 維新の時、坪内高国の家臣は、譜代家来の用人役二名、抱席の家来七名で、家老職はない。ほかに、小者一名、召仕女三名であった。
 坪内高国は美濃国羽粟郡平嶋村大字本郷小字西崎居住。高六百石の旗本坪内佐左衛門定通の嫡女繁(文政四年十月二十日生・文久元年四月、没)聟養子となり、同年十二月十九日に家督を相続し、文致十二年(一八二九)九月二十七日、中山道を通行して平嶋村坪内家へ到着し、婚礼をすませた。その時教えの六歳であった(繁女八歳)。〉(『岐南町史』269、270頁)

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