マハティール首相のアジア的価値観

 1990年代には、欧米とアジアでアジア的価値観をめぐる論争があった。アジア的価値観の擁護者マハティール首相は、どのような見解を持っていたのだろうか。『日本再生・アジア新生』(たちばな出版、1999年4月)から紹介する。

 〈まずアジアの価値観は、コミュニティと家族をベースとしている。個人の絶対的自由を享受する権利よりも、家族やコミュニティのニーズや利益を優先する。個人としての権利を主張する前に、家族やコミュニティに対する責任を果たそうとする。一方西欧の価値観は、明らかに個人の権利を強調する。アジアではコミュニティの権利を優先するので、もし個人が社会の権利を踏みにじるようなことがあれば、その人は、大多数の国民の権利を盗んで、自分の権利を追求している利己的な人とみなされる。
 アジアの価値観はまた、権威を尊重する。権威は社会全体の安定を保証するために、欠かすことができないといった認識がある。権威と安定なくして、文明社会は成り立たない。権威の存在価値を認めずに個人の権利を主張し、称えるならば、どんな社会も(たとえ西欧社会でも)、やがては無政府状態に陥っていくであろう。
 しかし、だからと言って、どんな形の権威も受け入れなければならないことを意味しない。また、私は独裁政治を支持しているのでもない。
(中略)

 ほとんどのアジア人が共通して持っている家族やコミュニティに対する献心的な姿勢や、権威を尊重する態度、勤勉性、社会の利益の為に自己を犠牲にする精神は、逆境にある今日ほど重要であることが証明されるはずである。苦しい時ほど、アジア人は家族や地域社会の援助に頼らなければやっていけない。もしあなたが失業すれば、家族しか頼りにならないだろう。そして危機から抜け出すには、いっそう勤勉に仕事に励むことが必要である。またこれまで以上に、個人の目先の利益よりも、所属する集団(企業・地域社会・国家)に対して責任を果たすことを優先させなければならない。
 未来に思いを馳せた時、アジアの価値観の中には将来、変わらざるを得ないものが存在する。しかし一方では、どうしても固持しなければならない伝統的価値もある。西欧社会の多くが経験した社会システムの破壊だけは、なんとしても防ぐ必要がある。西欧諸国のほとんどがキリスト教社会であるにもかかわらず、近年、宗教と世俗生活とが分離し、ひどい場合は、宗教的価値観が快楽主義的価値観に取って代わられてしまっている。物質主義、手に入りやすい肉体的快楽、自己主義と個人崇拝主義が、西洋の文化的規範となってしまったようにさえ思える。社会は個人の欲望にその地位を譲り渡したのだ〉

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