西海の勤皇志士・松浦八郎と蒲生君平①

 『西海忠士小伝』や『稿本八女郡史』に収録された勤皇志士・松浦八郎は、元治元年7月21日、真木和泉とともに自刃し、天王山の露と消えた人物である。彼が蒲生君平の孤高の戦いを継ぐかのように、山陵荒廃について警鐘を鳴らしていた事実は、君平の精神が水戸─宇都宮─久留米で共有されていたことを物語っているようだ。松浦が大橋訥庵に師事していた事実が注目される。
 以下、拙著『GHQが恐れた崎門学』に書いた大橋訥庵に関わる一節を引く。

●崎門派と共鳴した大橋訥庵の尊皇攘夷論
 天保十二(一八四一)年の烈公による建白からおよそ二十年後の文久二(一八六二)年、君平の出身地である宇都宮藩によって再び山陵修補事業が建白されます。(中略)
 嘉永三(一八五〇)年に宇都宮藩四代藩主忠温の招きにより、江戸藩邸において儒学を教授するようになったのが大橋訥庵です。彼は、『言志四録』で知られる佐藤一斎に師事し、天保十二(一八四一)年に日本橋で思誠塾を開き、子弟に儒学を指導していました。
 訥庵の学問は朱子学と陽明学の折衷でしたが、嘉永五(一八五二)年頃には、朱子学一本に定まります。『大橋訥庵先生伝』を著した寺田剛は、訥庵が到達した朱子学は林羅山の朱子学とは異なり、むしろ崎門派に酷似していると評しています。寺田はまた、訥庵が特に闇斎を尊敬していたことは、諸所に見えていると指摘しています。実際、秋山寒緑、楠本端山・碩水、小笠原敬斎等、訥庵に入門した崎門の士、訥庵の門から出て崎門に入った者も少なくありません。
 訥庵は安政六年には、養子の陶庵を肥後に送り、崎門派の月田蒙斎に学ばせています。蒙斎の家は、代々、熊本の野原八幡宮の宮司の家系で、京都で千手旭山から崎門の学を学んでいました。
 訥庵が高山彦九郎に傾倒し、『山陵志』に込められた君平の志に思いを寄せたことは自然のなりゆきでした。もともと訥庵の実父清水赤城は、君平とともに『武備筌蹄』という兵学書を著そうとしたほど君平と親しい関係にあったのです。
 ペリー来航以来、訥庵は尊皇攘夷論を鮮明にしていきます。安政四(一八五七)年には『闢邪小言』を刊行し、激しい尊皇攘夷論を唱えました。『日本外史』を著した頼山陽の三男で、安政の大獄において処刑された頼三樹三郎の遺体が埋葬もされずに打ち捨てられていることを見かね、南千住にあった小塚原刑場まで行き、遺体を棺に納め埋葬しています。
 そして尊皇攘夷を目指した訥庵は、君平と幽谷の盟友関係を再現するかのように、水戸の尊攘派との関係を深めていくのです。
 安政七(一八六〇)年の桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中安藤信正は老中久世広周と共に幕閣を主導します。安藤・久世は、井伊の開国路線を継承する一方、公武合体によって幕政の統制を図ろうとします。そこで、皇女・和宮降嫁を実行に移すべきと判断し、朝廷に対して、和宮降嫁を願い出たのです。しかし、和宮の兄・孝明天皇は、降嫁を要請する幕府に対し、断固として断り続けていました。
 尊攘派の志士達は安藤に対する反発を強めていきました。水戸藩の西丸帯刀は、万延元(一八六〇)年七月、長州藩の桂小五郎らと連帯して行動する密約を結びます。これに基づき安藤の暗殺や横浜での外国人襲撃といった計画が立てられました。しかし、この頃長州藩内では長井雅楽の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となります。そこで、水戸の尊攘派志士らは、訥庵一派と連携して、安藤の暗殺計画を進めたのです。

●尊攘派の連携─水戸と宇都宮
 このとき、水戸と宇都宮を結んだのが、宇都宮出身の児島強介です。彼は十四歳のときに東湖の詩を読んで感銘し、水戸に渡って東湖の門に入った人物です。弘道館館長を務めた茅根寒録にも師事しました。茅根が安政の大獄で刑死すると、その碑石を建立し、幕府に対する反発を強めていきました。訥庵は、そんな児島を、水戸との橋渡し役として起用したのです。
 訥庵の和宮降嫁政策に対する意見は、文久元(一八六一)年九月一日、孝明天皇の上覧を期して著わした「政権恢復秘策」に述べられています。ここで訥庵は、和宮降嫁政策が和宮を人質に取って朝廷を脅かすことにより、天皇に西洋と通商することの利益を吹き込み、通商の許可を得ようとするものだと説きました。さらに、もし許可が得られない場合には、孝明天皇を廃し、和宮を女帝とするか、幼い皇太子(睦仁。後の明治天皇。当時十歳) を即位させるかによって、幕府の威権を恣にし、夷狄と通じて國體を変えようとする策略だと主張しました。
 寺田剛は、訥庵の策は明白な討幕論であり、訥庵の門人中野方蔵はすでにこの時期に大政奉還論を唱えていたと指摘しています。
 同年十月、訥庵門下の多賀谷勇、尾高長七郎が、輪王寺宮を奪い挙兵する企てを提案します。ただし、訥庵は成功の可能性が低いとして懸念を示しました。そこで、並行して斬姦の計画が進められることになったのです。しかし、その計画も延期され、同年十二月下旬には一橋慶喜の擁立が計画されるに至ります。
 安藤暗殺決行のタイミングは文久二年春とされ、襲撃後に攘夷の勅掟を朝廷に奏請することや、慶喜を擁して日光山に攘夷の義旗を挙げることなどが確認されました。しかし、決起直前に、訥庵が、過去の門人で慶喜の近習であった山木繁三郎に慶喜擁立計画を漏らしたことによって、訥庵ら四名が捕えられました。
(中略)
 文久二年七月七日、訥庵は宇都宮藩の嘆願によって出獄を許され、宇都宮藩邸に入りました。ところがそのわずか五日後に病死しているのです。江戸の豪商で、訥庵とともに捕まった菊池教中もまた、七月二十四日に出獄しましたが、彼もまた八月八日に病死しています。こうした犠牲を生み出しながら、山陵修補事業は開始されることになったのです。

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