山陵復興と烈公─藤田東湖「回天詩史」

 蒲生君平の山陵復興の志は、もともと義公の志を継いだものだった。そして、君平の思いを継承したのが、彼の盟友藤田幽谷であり、その次男の東湖だった。そして、彼らの期待に応えて山陵復興を幕府に建議したのが烈公であった。東湖の「回天詩史」には、それが明確に示されている。以下、村上寛『回天詩史 評釈』(嵩山堂、明44年)の評釈を引く。
 〈この事に考へが及ぶと、歎息痛恨の情に堪へないのである。因つて公(烈公)の禍を幕府からうけられたわけや、諸臣が公の大志を忌みきらふわけをさぐつて見ると、久しい前からであつて、決して、一朝一夕に始まつたことではないのである。公はかつて天皇のみささぎのあれすたれたるをなげかれて、その修覆をはかられた。而して、まづ先きに、畝傍の神武御陵を修めて、漸次、他の陵に及ぼうとせられた。下野の処士の蒲生君蔵のこしらへた山陵志を見て、その方角だとか、土地の遠近だとか、高低だとかいふことを知つた。適、桑原信敬が、京都に祗役したとき、みづから、畝傍の御陵に往つて、土人にとうたり、ふるい記録を参考としたりして、貝原篤信の説を尤もよるべきものと知つて、始めて、山陵志のあやまりを弁じた。蓋、篤信の時には、山陵は廃してゐたが、其の趾になほのこつてをつた、しかし、君蔵の時になつては、其の趾もなくなつた。これそのあやまつたわけである。信敬は早速その説を書いて一巻の書物にして自分によつて、之れを上らしめた。時に公は既に幕府に建議してゐられたので、是に至つてたびたび之れを催促せられたのである。
 その説はかうである。神武天皇が御即位になった辛酉元年から今日に至るまで二千四百九十余年であつて、庚子の歳には二千五百にならうとしてゐる。よろしくこの時に及んで、その山陵を修めて、以つて忠孝を天下に明にすべきものである。いま、議者は天朝を尊んだならば、幕府が戚権を失ふに至るであらうといふものがあるが、ああ是れ何といふことであらう。山陵があれすたれたことは久しき以前からである。天下の義を知れるものはだれでも、一にぎりの土でもまして、国恩に報じやうと思はないものがあらうか。けれども、之れをしないものは幕府に遠慮してゐるからである。もし、不法の民があつて、わぎはひを仕出来してまづまつさきに山陵を修めて、大義を以つて天下に唱道するやうなことがあつたならば、まことに幕府の大耻といふべきものではないか。して見ると天朝を尊ぶといふものは忠孝の道を明にし、以つて非望の念をたたしめるものであつて、天下の人民はまさに益々幕府の義に服しやうとするのである。どうして威を失ふなどのことがあらうぞといつたが、幕府のものは、とうとう、公のこと説を用ゐることができなかつたのであつた〉

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