先帝陛下の御学問─杉浦重剛「倫理御進講草案」大義名分

先帝陛下(当時皇太子殿下)が学習院初等科をご卒業されたのを機に、大正3(1914)年5月、東宮御学問所が設立された。歴史担当・白鳥庫吉、地理担当・石井国次など、16科目の担当が決まったが、肝心の倫理の御用掛が決まらなかった。帝王学を進講する倫理担当には、和漢洋の知識に通じ、高い識見人格を備えていることが求められた。
東郷平八郎総裁、波多野敬直副総裁らが慎重な協議を続け、元第一高等学校長として名声の高かった狩野亮吉の名が挙がったが、狩野はその任務の重さを恐れ辞退した。このとき、杉浦重剛の真価を知るものは、御進講の適任者として彼のことを考え始めていたのである。御教育主任の白鳥庫吉から相談を受けた澤柳政太郎は「杉浦さんがよいではないか」と杉浦の名を挙げた(『伝記』二百六頁)。これに白鳥も賛同、東郷総裁の意を受けて小笠原長生子爵が改めて杉浦の人物について調査した結果、「杉浦といふ人は命がけで事に当る人だと思ひます」と報告した。東郷は「それだけ聞けばよろしい」と言って、直ちに決定したという。

杉浦は、大正3年5月15日に倫理科担当就任を要請された。彼は一両日返答の猶予を請い、すぐに周囲に伝えた。千頭清臣ら同志からは「是非引き受けてください」と言われ、弟子たちは歓喜の情に堪えない様子であった。それでも杉浦は厳粛に考慮し、16日夜には家人を集め、倫理科御進講の任務に命ぜられるとの内命が下った旨伝え、「お前達は私を助けて、この大任を果させるだけの覚悟があるかどうか」と問うた。その場にいた夫人や子供たちに代わり、弟の五郎は「一同の者は誓って兄上の御期待に背かず、後顧の御心配なきよう努めることをお誓いいたします」と言い、一同も五郎とともに誓いを立てた。こうして、杉浦はこの重大な任務を引き受けることを決意した。
杉浦「倫理御進講草案」の第4学年第3学期「大義名分」には次のように書かれている。
〈徳川氏の世となりては、幕府政権を掌握して朝威猶ほ未だ盛ならず、徳川光圀、大日本史を編して尊王の大義を明かにし、又賀茂真淵、本居宣長の如きは国学を研究し、國體を明かにして以て尊王の義を宣明したり。当時漢学者は支那の学問に心酔し、自ら東夷と称するものあるに至りしかぱ、真淵が如きは其の名分を誤るを慨し、務めて之を排斥したり。又和学者にあらざるも山鹿素行の如きは「中朝事実」を著はし、日本を以て中朝と称したり。
宝暦、明和の頃には竹内式部、山県大弐、藤井右門、勤王論を唱へて処罰せられたるが、大弐の遺著たる柳子新論には開巻第一に「正名」を論じて、先づ名分を正すべきことを述べたり。
高山正之、蒲生秀実の如き、執れも尊王の大義を唱へたるは言を侯たざる所なり。彼の浅見絅斎は靖献遺言の一書を作して、義気を励し、頼山陽は日本外史を著はして、楠、新田等南朝の忠臣を極力称揚し、大義の存する所を知らしめんとしたるは、共に其の志の存する所を見るべきなり。
此の他吉田松陰、頼三樹三郎、或は近く薩長諸藩の勤王家殆んど指を屈するに堪へざらんとす。此の如くして徳川幕府は倒れて王政御一新の世と為りぬ。されば尊王論あり、勤王家ありて、而して王政維新の大業成りたるも、更に之を思へば尊王攘夷論の源流は、大義名分の四字に発したるものなり〉

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