東南アジア料理論⑥

馴鮓
日本の馴鮓(6日目)
では、馴鮓は日本にいかにして伝えられたのだろうか。
日比野光敏氏は、馴鮓は六世紀までに中国から北九州に伝えられたという。
平城京出土の木簡には、馴鮓の記録がある。一九八八年には、奈良市二条大路南一丁目の長屋王邸宅跡一帯から、十万点にのぼる木簡は相次いで発見され、奈良時代の暮らしぶりがかなり解明された。そこで、「長屋王はグルメ!」など注目された通り、当時の貴族たちが大変多彩な食生活をおくっていたがはっきりした。そのメニューの一つに、塩漬のカツオと塩味をつけた飯を交互に重ねて漬けた馴鮓もあった。 
つまり、東南アジアから中国に入った馴鮓は日本にも伝えられ、独自の発展を続けたわけである。さらに室町時代には、朝鮮半島から飯に野菜と発酵促進剤の麹を加えた馴鮓が伝わった。いわゆる「いずし」である。
ここで注意すべきは、いずしが馴鮓であると同時に漬物である点である。
即座に頭に浮かぶのがキムチだ。朝鮮半島では様々なキムチの漬け方があるが、野菜だけを主体とする北部に対して、中部から南部ではアミなどの塩辛を加えることが多いという。まさに、馴鮓と漬物とがクロスオーバーしたものが、いずしなのである。石川県のカブラずしは、いずしの典型である。
カブラずしは、加賀百万石、前田氏城下の豊かな町人たちによって食べられるようになったという。日本海でとれる新鮮なブリと、名産の大きなカブがあったからこそ生まれたのだろう。輪切りにしたカブを塩漬けにし、やはり塩に漬けておいたブリをはさんで、米と麹に漬け込む。
カブのさっぱりした味と脂ののったブリが絶妙にマッチしている。むろん、昔からカブもブリも庶民が頻繁に食べられるものではなく、周辺の農民たちはダイコンと身欠きニシンで代用するダイコンずしを食べていた。
野菜・漬物側から見れば、魚・塩辛の旨みを要求しており、逆に魚側から見れば生臭さをとるために野菜を要求している。漬物と呼ぶべきか、すしと呼ぶべきか迷うケースもある。
北海道のヤマベのいずしは、清流育ちの身がしまったヤマベをシショウガ、ニンジン、ダイコンなどと一緒に米麹に二週間ほど漬け込んだもの。秋田のはたはたずしは、新鮮なハタハタをアキタコマチ米、ニンジン、ショウガなどの具と漬け込み、おもしをのせて二週間ほど熟成させる。ほかにも、富山・新潟方面のねずし、大根ずしなど、野菜の力を借りた馴鮓の一種がある。

カブラずしの作り方
(一)カブは上下を切りおとし、横に二等分する。さらに厚みの半分の所に、八分程切れ目を入れる。重さの四%の塩をまぶして、重しをし、カブの葉も一緒に四、五日間漬ける
(二)ブリは百五十グラムぐらいずつのかたまりに分け、たっぷりの塩の中に埋めるようにして、一週間ほど塩漬けする
(三)コウジとご飯、五十五度の湯三カップをよくかき混ぜる。炊飯ジャーやこたつの中などに入れ、五十五―六十度の温度を保って、一晩寝かせる。
(四)ブリを薄く切り、カブの切り込みの間にはさむ。ニンジンは薄く輪切りにし、花形に抜く。赤トウガラシは小口切りにする
(五)漬物用おけの底にカブの葉の半量を敷き、カブと(三)を重ねていく。所々に花形ニンジンと赤トウガラシを散らす。最後に(三)をしっかりかぶせ、昆布と残りのカブの葉でふたをするようにし、押しぶたと重し(約十キロ)をする。二週間ほどで食べごろになる(「読売新聞」一九八六年十二月二十一日付朝刊)。

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