権藤宕山(栄政)と『南淵書』

 権藤成卿は『自治民政理』(昭和11年)で、南淵書について次のように書いている。
 〈予は先づ此に大化新政の本源を探求し、南淵先生のことを略叙し、古今を一貫せる偉人の一班を、窺看することゝしよう。
 南淵先生のことは、正史の表面には、中大兄皇子、中臣鎌足を従へさせられ、南淵先生の所に至り、周孔の教を学ばんと請はせられた一節が見えて居る丈けである。併し後世学者間に於て、古文献を渉猟せし林道春、貝原益軒等の時代に至り、先生を王仁の次に置く様になつた。人名辞書に、推古朝隋に遊び、経術を以て称せられ、書百余巻を著はせリ、其書今伝はらずとあるは、道春の考索を採録したものであらう。意ふに近江朝倒覆の後、当時の事蹟が頻りに抹殺されたことは、疑ふべくもないことであつて、天智天皇の御遺著百巻余、東寺に其目録を留めてある計りで、一冊も伝はつて居らぬ。南淵先生の事歴及びその遺著の焚滅に帰したのも、此の時代に於ける、心なき官僚のなしたことゝ考へらるゝ。
 但だ幸にも南淵書二巻が、制度家の秘籍として大中臣家に伝へられ、元禄中同家の家難に依り、庶長子の友安と云ふ人が、筑後の蓮台僧正の下に隠れ、帰雲翁と称し制度律令の学問を権藤宕山に伝へ、南淵書を授与したものである。
(中略)

 予が家に南淵書を伝へたのは、宕山以後の事にして、宕山は柳川藩の安東省庵に師事し、長崎に遊び明人鄭一元に就き漢音を学び朱舜水を引き、省庵との親交を結ばしめ、後舜水は水戸侯に聴せられ、大いに修史上に貢献したことは、世間周知の事である。それより宕山は、大中臣氏の伝を受け、制度律令の学を修め、漢唐三韓歴代の礼制刑律の書を渉猟して一家の見を立て、処士を以て一世を終り、門人田中浩蔵に家塾を譲りしが、浩蔵は宝暦中山県大弐事件の嫌疑を以て絶食して死し、幾もなく宕山の嫡孫寿達も、高山彦九郎に親交ありし為め、幽閉中に死し、其子の延陵と云ふが家学を復興して、多数の子弟を養成し、養子松窗、遺子松門二人の代となつた。此時は安政慶應変革の代に当り、学問を顧みるの遑もなく、明治維新を迎へたのである。松門は予が先考にして、明治初年より文墨に隠れ、晩年に及び、予が支那朝鮮に来往せしため、特に南淵書の校修を遺命して世を終りしが、千数百年間伝写を重ねたる本書は、誤謬錯訛甚しく、其上蟲蝕敗爛の簡所多く、且つ支那朝鮮の史書に参較せねば、解釈されぬ処も尠くないので、纔に老学小沢打魚氏に依り、前後凡十年を費し、漸く読まるゝ迄に補修校訂した所、一条実輝公爵は、我家に夤縁深き本書が卿等の努力に依り今日に至り世に出でしことは、彼のモーゼの書が石室を出でしよりも勝れる一大快事である。我家の伝へに中興の祖と称する兼良公が本書を珍蔵せられしも 応仁の兵火に罹り焼失したので、之を終世の憾となし悲まれたと云ふことである〉
 一方、福岡県久留米市御井町誌(http://www.snk.or.jp/cda/miimachisi/)の「寺子屋と私塾」には、権藤成卿の祖先について次のような記述がある。
 〈権藤種盛は、文禄元年(一五九二)豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には見事に采配を振い、手柄をたてるのであった。
 しかし歴史は、秀吉のそれまでの恩に報いるために西軍にかけた、種盛の子権藤伊右衛門種茂の前に、その流れを変えた。関ケ原の戦いである。十八才で大阪方に参加した種茂は、戦い終って帰国の途中、東軍(徳川方)の黒田如水が父と兄達を謀略をもって殺害した事を知り、しばらくは豊後中村に身をかくしていたが、後に水田(現在の筑後市水田)に父と二人の兄を弔い、そのまま府中にきて住みついた。
 当時の府中は、高良山蓮台院座主の(領地)であったので、諸侯が互いに管理する安全地帯であった。種茂は、再三の立花氏(柳川城)の招きを断わり、武士を捨て医術を学んで、これより府中の「権藤氏」が末永く御井町にその吊を留めることになるのである。
 種茂の孫、栄政は祖父の親友柳川の碩学、安東省庵を師とし、明から長崎に亡命して来ていた人について薬学を学び、さらに江戸に上って祖父の兄種賢について診察術を学んだ後、帰郷するとたちまち、その医吊は広く四方にきこえ、諸候から招かれたがすべて辞退した。その頃、高良山座主寂源を頼って京より逃れてきていた大中臣友安が府中にいて、栄政は彼に「典制学」を学び、秘書、『南淵書』を授けられた。この『南淵書』が後に昭和の初期の思想家に少なからず影響を与えた権藤家の末喬の一人、成郷の『社稷国家論』へと発展していくのである。
「社稷」とは、「社」は土の神、「稜」は五穀の神で、自然と共同社会(村落等の地域共同体)の恩恵に感謝する。わかり易くいえば、昔の年寄りがよく口にした「お天道さまにすまない」「世間様、今日様に申し訳がたたない」などという、人間が日常正しくあらねばならない生き方、姿勢を説いたのであった。栄政はその後、医業を長子の種栄(寿侃)に譲り、愛宕山の南に家塾を開き、「宕山」と号して幾つかの事業を成している。
 その一つには、当時の座主寂源を説いて、高良山に大和杉六十余万本を椊えさせた。また次男には、原野を開墾させたのである。宕山の教える学問は、「我が道は、飲食、男女、衣朊、住居にあり」として実用を旨としていた。それ以来、権藤家の塾は江戸時代初期から明治の終りまで約三百年間、筑後地方における医学・経学(孔子の教えに基づいた学問)・史学等の教育のかなめとして、人材育成に大きく貢献したのである。
 江戸時代においては、人材の多くは城下町や郷村の私塾出身者であった。私塾では、自分の力で生き抜く人物となること、まさしく実地有用の人物を養成していた。宕山没後、塾はその高弟、田中宜卿なる人物によって学統が継がれ守られていった。
 田中宜卿は医吊を玄白、夢庵と称して、はじめは大阪で医者として開業していたが、府中に来て儒医学を宕山に学んだ。
 宝暦八年(一七五八)徳川幕府は、尊皇首唱者の公卿十七人の官位を剥脱し、竹内式部他二十人余を捕えて京都より追放したが、式部と親交の深かった宜卿にも、その事件の嫌疑が及び、その後自ら十七年間居し、謹慎した。その間、宕山の孫、寿達に学問を伝え、後食を断って没した。その墓は権藤家の墓地にあるが、墓石には当時の幕府からの追及を逃れるかのように、氏吊も記されておらず、享年も上詳のままである。宕山が秘蔵していた『南淵書』は、宜卿の死後全国を転々としたが、大正初期になって宕山から数えて五人目の子孫成卿の手に戻ることになるのである〉

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