正義、人道、自由、文明を目指した興亜論─杉田定一「東洋に於ける我国の天職」

崎門学派の吉田東篁に師事し、君臣の大義と内外の別の観念を培った杉田定一は、正義、人道、自由、文明の立場から興亜論を展開していた。第一次世界大戦勃発を受け、杉田は「東洋に於ける我国の天職」と題して、次のように語っている。
〈熟ゝ東洋の現状を考ふるに、隣国支那は積衰の余、比年内憂外患交到り、自立の力なく、漸く列国の均勢に依つて其の領土を保全せるの姿あり。印度、亦夙に英国の領する所となつて、其の民に独立の意気空しく、其の他の小邦に至つては、又諭ずるに足るものなし。此の間に於て、唯独り我国は二千年来の独立を保ち、以て僅かに東洋の面目を維持しつゝあるのみ。されば、東洋諸国の沈没は、実に我国の責任に関する所にして、我国民たる者は、常に亜細亜の先覚者、東洋の盟主を以て自ら任じ、国を富まし兵を強め、以て東洋諸邦の平和、文明の為めに貢献する所あらざるべからざる也。此の言たる聊か不遜に似て、亜細亜は、亜細亜の亜細亜也と云ふが如き、観念の存するなからんやと解する者も、なきにしも非ざれども、吾人の此の言をなすや、実に正義、人道、自由、文明の理想とを基礎とせるものにして、其の間、毫末も亜細亜対欧羅巴と云ふが如き、人種的観念の存するに非ず。要は、唯東洋諸邦の迷夢を醒まし、彼等をして、等しく文明の恩沢に浴せしめんとするの微衷より出づるに外あらざる也。されば、吾人は此の主義理想を同うする者あらば、他の東西、人の黒白を選ばず、相提携して、喜んで共に其の事に当らん事を冀ふものなり。余の此の主義を抱くや、実に歳久しく明治十七年、先づ、清国の覚醒を志して支那に遊び、同志と共に上海に東洋学館を興し、以て大に、支那啓発の為めに尽す所ありたり。其の後東洋学館は、変じて貿易研究所となり、貿易研究所は、後更に変じて現今の東亜同文書院となれり。東洋学館は、実に、支部に於ける学校の嚆矢なりとす。明治二十四、五年の頃、更に海軍建議案を提出して、東洋平和の為めに、海軍拡張の急務なる事を説き、従来の巡洋艦中心の制度を改めて、戦闘艦本体の組織とし、八万噸計画を十五万噸となす事を主張し、大に当局の反省を促したることあり。

吾人の此の大理想を実現せしめんとする為には、大に我国の実力を養成せずんばあるべからず、此の見地よりして我国は、欧州戦乱に関して成るべく其の渦中に投ぜざるを以て得策となさゞるべからす、是れ実に世界の平和、人道、文明の為めたらずんばあらざる也。思ふに、我国は、日露戦争の創痍未だ癒えず、目下は財政整理、実力養成の時期として、妄りに、其の国力を損ずるが如き挙に出ずべき時には非ざるなり。且、我国は、此の大乱の平和解決に当つて大に其の力を致さゞるべからず。此の時に当つて、欧州交戦国と共に、国力疲弊し尽しては、誰かよく其の目的を途行する事を得んや。(中略)
要するに、我国は亜細亜の先覚者、東洋の盟主として、常に優越の地歩を占め、以て東洋の平和を支持せざるべからざる運命を有するものなれば、宜しく自彊自重して、其の実力を養成するに努め、妄りに欧州戦乱の渦中に投ずるが如き事あるべからず。是れ実に世界の平和、人道、正義、自由、文明の為めたらずんばあらざる也〉
注目すべきは、ここで杉田が、東洋学館(明治17年)の精神が、日清貿易研究所(明治23年)、東亜同文書院(明治34年)へと継承・発展したという理解を示している点である。

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